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第八十五話

その日、律子が家族がそろった食卓で夕食を食べていると、向かいに座る長女の麻理が突然神妙な顔つきになった。そういえば、麻理は学校から帰ってきてから少し元気がなかった気がする。


「麻理、どうかしたの?」


律子が尋ねると、麻理は顔を上げて小さく首を振った。


「ううん、何でもないよ」


何でもない人がそんな表情をするはずがない。しかし、こちらから聞いても麻理は話さないだろう。悟仙と出会ってから前より悩み事などを話してくれるようになったが、全部を話してくれている訳じゃない。しつこく問い質せば、優しい麻理のことだ、直ぐに話してくれるだろう。だが、それは律子の本意ではない。


「そう、何かあったら遠慮せずに言っていいのよ」


だから、こうやって待つしかないのだ。


「うん、ありがとう」


麻理が少し微笑んで礼を言う。前までは、こうやって気丈に振る舞う麻理を見て心配していたが、今は違う。


きっと麻理は今悩んでいることを悟仙に話している。そして、その悩みを蔑ろにする人間に麻理が頼るはずがない。悟仙なら、どうにかしてくれる。律子には自分でもよく分からない信頼をあのいつも眠そうな顔をしている少年に寄せていた。


夕食後、いつものように麻理と並んで皿洗いをしていると、麻理が目を手元に落としたまま口を開いた。


「お母さんは、お父さんと喧嘩したことある?」


「喧嘩?あんまりしないわね。結婚する前はちょくちょくしてたけど」


唐突な質問に少々驚きながら答えると、麻理が顔を上げてくりっとした瞳を向けてきた。


「その時、どうやって仲直りしてたの?」


「そりゃあ、どっちかが謝ってよ」


何故そんな当たり前のことを聞いてくるのだろう。そう疑問に思ったとき、律子はあることに気付いた。麻理の口から誰かと喧嘩したという話を聞いたことは今までに一度もない。その理由が麻理の優しくおっとりとした性格にあると考えるのは余りにも浅慮なことだ。麻理は由衣という妹が小さい頃からいたからか、昔から周りに遠慮していることが多かった。そのため、遠慮なしに感情をぶつける術を知らず、喧嘩に発展することがなかったのかもしれない。


もしそうならば、それは親である律子のせいだ。ずっと麻理に我慢を強いてきたのが悪かったのだ。


律子の表情の変化を感じ取ったのか、麻理が笑ってみせる。


「そんな顔しなくていいよお母さん。高校に入学してからは、自然に振る舞える相手もできたから」


そう言って麻理は手元に目を戻し、嬉しそうに頬を緩めた。それを見て、律子の頬も自然と緩む。しかし、こちらは悪戯っぽい笑みだった。


「まあ、確かに相手が悟仙くんじゃあ喧嘩にもならないわよね?あの子はそういうのに興味なさそうだし」


律子がからかうように言うと、麻理が勢いよく顔を上げた。興奮しているのか、頬が少し赤い。


「むっ陸奥くんのことなんて言ってないよ!私が言ったのはなっちゃんのことだもん!それに、陸奥くんも誰かと喧嘩したことないって言ってたし……」


悟仙はあらゆることに我関せずといった感じなので、喧嘩した経験がないことも頷ける。それにしても、麻理は悟仙とそんな話をするまでになったことに律子は感心した。


これまでのやり取りで、麻理の悩みは大体把握できた。恐らく、麻理の周りの誰かが喧嘩して仲直りできないでいるのだろう。その事を麻理は気に病んでいる。自分のことでないのが何とも麻理らしい。そして、頼みの悟仙も喧嘩という未知の話に打つ手なし。と言ったところだろうか。


「まあ、あれよ。仲直りするには、誰かを交えてもいいから先ずは喧嘩相手と話すことね。いきなり謝るのは意外とハードル高いし」


それとなくアドバイスすると、麻理は真剣な顔で頷いた。律子は心の中でほくそ笑む。


二人で何かを為そうとする時、その二人の距離は自然と縮まるものなのだ。




☆☆☆




夕食を終えて、悟仙が自室で本を読んでいるとノックもなしに姉の葉子がドアを開いた。


「あんた、今暇よね?」


その質問と言うより決定事項のような言い方が少し引っ掛かったが、突っ込まないでおく。悟仙には夜空にある星々と交信を行う趣味などなければ、毎日復習を欠かさなくやる勤勉さもない。つまり、いつもこの時間は暇なのだ。

第一、葉子に文句を言ったところで、実力行使で屈服させられるだけだ。


「そうだが、何か用か?」


問うと、葉子がひょいっと何かを放ってきた。腕を振った動きについ条件反射で構えてしまうが、投げてきたのが葉子のスマホであったので力を抜いて受け取った。スマホを凶器だと勘違いして危うく避けるところだった。避けて葉子のスマホが壊れでもしたらと思うと少々ゾッとする。捕るか逃げるか、恐ろしい二択だった。


「これはどういう意味だ?」


悟仙の問いに、葉子はニヤリと笑った。


「愛しの麻理ちゃんからお電話よ」


「最初の方は訂正してもらおうか」


麻理を愛していると言った記憶はない。そもそも、葉子に麻理の話をしたことすらない。仏頂面で言うと、葉子は呆れ顔で腰に手を当てた。


「あんたねえ、あんな素晴らしい子にまだ相手して貰えてることが、どれくらい幸福なのか分かってんの?」


「分からんな」


「でしょうね。まあいいわ、電話終わったら代わんなさいよ」


そう言い残して、葉子は部屋から出て行った。その背中を確認してから通話を始める。


「もしもし」


「あ、陸奥くんですね?夜分遅くにすみません、麻理です」


通話口から、麻理のよく通る声が聞こえる。


「何の用だ?まあ、大体予想はつくが」


麻理は用もなく電話をかけてくる人間ではないし、夜毎に愛を語り合う仲でもない。恐らく、あの二人に関する話だろう。


「はい、なっちゃんと加藤くんについてなんですが」


「その話なら、別に明日の朝でもよくないか?」


「私もそう思ったのですが……」


そこで麻理は不自然に口籠もった。


「何だ、何かあるなら言ってくれ」


悟仙が困惑しながら言うと、麻理がポツリと呟いた。


「陸奥くん、早起きできますか?」


「お前は何を言って」


悟仙の言葉を通話口からの麻理の遠慮がちな声が遮る。


「最近、朝方は冷え込みますよ?」


「うっ」


確かに、最近は朝ベッドから出るのがひどく億劫だった。明日の朝に話をするなら、いつも通りの遅刻ぎりぎりの登校時間ではダメだろう。そうなると、必然的に早起きしなくてはならない。それは悟仙にとってなかなか厳しい。


「そうだな、今から話を聞いた方が良さそうだ」


「はい、話というのはですね」


麻理が真剣な声で語った内容は、「とにかく二人が話す機会を設けよう」というものだった。その意見に悟仙は賛成だった。しかし


「それはもう実行するのか?放課後の話では、先ずは動かないで作戦を立てることになってなかったか?」


「それはそう、なんですけど」


麻理の声が沈む。部室ではああ言っていたが、人が好すぎるこの少女は友の窮地にいてもたってもいられないのだろう。


「まあ、それくらいなら、やり過ぎなければ事態をかき回すことにはならないだろうな」


「そう思いますか!?」


麻理の声が途端に明るくなる。受話器の向こうで目を爛々と輝かせている麻理の姿が容易に想像できた。


悟仙が了承したことで話がついたのだが、通話を切る前に言っておくことがあった。


「井上」


「はい、どうしました?」


「もう、こうやって電話をかけてくるのは止めてくれ」


「え」


「姉貴を経由すると色々面倒なんだ」


麻理が電話をかけてくる度に先程のようなやり取りをするのは遠慮願いたい。


悟仙の言葉に何を思ったのか、麻理が慌てた声を出した。


「も、もう夜に電話したりしません!長話もしませんから!その、だから……」


「何を勘違いしてるのか知らんが、別に俺は電話してくるなとは言ってない」


「そうなんですか?」


「俺に用がある時は、姉貴を経由しないでくれと言ったんだ」


「では、どうすれば?」


麻理の問いに、悟仙は呆れた声を出した。


「そんなの決まってるだろ。俺に直接」


「電話できませんよ。私、陸奥くんの連絡先知りませんから」


麻理のどこか拗ねたような声が悟仙の言葉を遮った。麻理からこのような声を聞いたのは初めてかもしれない。


「確かに、そうだったな」


「そうですよ、茜さんには教えたみたいですけど」


確かに、文化祭の時悟仙は一つ年上の女子生徒、茜に自分の連絡先を教えた。そのことを悟仙は今更ながら思い出した。


「じゃあ、今から番号を言うから、今度からそれにかけてくれ」


「はい、あのそれと……」


「何だ?」


「できれば、メールアドレスも教えてくれませんか?」


「別に構わんが、必要か?」


連絡するなら、電話の方が手っ取り早い。悟仙はそう思ったのだが、麻理はそれを否定する。


「ひ、必要です。電話だと都合が悪い時もあるでしょうし。陸奥くんの気が進まないなら、無理にとは言いませんが」


「分かった。アドレスも言うから、覚えるかメモでも取ってくれ」


そもそも、メールアドレスを教えたくない相手に電話番号を教えるはずがない。別に麻理になら教えてもいい。悟仙は自然とそう思っていた。


「はい、分かりました!」


麻理の声が弾む。それを聞きながら、悟仙は自分が思っている以上に麻理と親密になってきていることに気付いた。そして、そのことを煩わしいとも不快とも思ってないことにも。


それが、悟仙は不思議でならなかった。




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