第八十三話
ショックを受けて竜二は立ち直るのに少し時間が掛かりそうだったため、悟仙は竜二を残して一人で教室に向かった。
すると、教室のドアの前に、一人の少女が立っていた。
「陸奥くん……」
ふわりとしたボブカットの黒髪に小さくともツンとした鼻梁、透き通るような白い肌に優しそうな印象を与える少し垂れた大きな目。悟仙のクラスメイトであり、同じ部活の部員でもある井上麻理は悟仙を見て困り顔になった。
「どうした?こんな所で待ち伏せなんてして」
悟仙の問いに麻理はちらりと教室に目を向けた後、答えた。
「その……なっちゃんから少し話を聞きまして」
なっちゃんとは麻理が使う夏子の愛称だ。他人に興味がない悟仙でも、何度も聞いていれば勝手に覚えてしまう。話というのは、屋上での事だろう。
「言っておくが、俺は他人の告白を盗み見る趣味など持ってないからな」
先に釘を刺しておく。基本的に他人にどう思われようと大して気にならないが、このおっとりとした少女は別だ。麻理の場合、適当なことを言うと勝手に暴走して、返って此方が疲れる事態になりかねないのだ。
「はい、それは分かっています。陸奥くんが自分に関係ないことに関心を持つはずありませんから」
麻理の言い分はまさに模範解答だった。他人の恋路ほど、どうでもいい事はない。腫れた惚れたなんていう話に、悟仙はまるで興味がない。麻理も悟仙と知り合ってもう半年以上になるので、よく分かっているようだ。
しかし、それはそれで少し気に食わない。
「分からんぞ?さっき俺が言ったことは真っ赤な嘘で、実は恋いに恋している可能性もあるだろう」
言うと、麻理はその大きな瞳で悟仙の顔をのぞき込んできた。麻理の方が背が低いため、自然と麻理がこちらを見上げる形になる。
「そうなんですか?」
「いや、冗談だ」
グッと距離を縮めてきた麻理から、上体を反らして少し距離を取りながら言うと、麻理はぷうっと頬を膨らませた。
「もう、からかわないで下さい」
「悪い」
悟仙の心のこもっていない謝罪でも納得したのか、麻理はいつもの穏やかな微笑を浮かべた。
「ふふっ、陸奥くんがそんな冗談を言うのは珍しいですね。それに免じて許しましょう。それよりも、なっちゃんの話です」
何に免じたのかよく分からないが、取り敢えず許して貰えたので悟仙も話を戻すことにする。
「九条と竜二が揉めるのは別に珍しいことじゃない。井上が気にしなくても、時が経てば元に戻る」
悟仙の言葉に麻理はふるふると首を振った。
「いえ、今回はそれではダメなのです」
「どういうことだ?」
「それはですね」
そこで、昼休み終了の予鈴が鳴った。当然それは麻理にも聞こえているため、麻理は何とも言えない笑みを作った。
「続きは、放課後にしましょうか」
「そうだな」
悟仙は頷くと、麻理と共に教室に入った。麻理と比較してしまうからか、教室に漂う香水の香りがいつもより濃い気がした。
放課後、テスト休み以外は殆ど休むことなく来ている文芸部の部室のドアを開ける。見慣れた部室の中には、麻理の姿しかなかった。
「遅くなった。竜二の奴がなかなか放してくれなくてな」
帰りのホームルームが終わり、悟仙は席を立とうとしたがそれを世界の終わりのような顔をした竜二に引き止められたのだ。それからは「これからどうすればいいんだ」
という話を二十分程聞かされ、悟仙は「分からん」と言い続けた。
「加藤くんも今日は部活に出ないんですか?」
「ああ、そうらしい」
結局、竜二は「今日は行けそうにない」と言ってとぼとぼと帰って行った。
「もってことは、九条も来ないのか?」
「はい、やっぱり気まずいようで」
「そうか」
悟仙が麻理の向かいに座ると、麻理がゆっくりと席を立った。
「お茶、入れますね」
「頼む」
文化祭で見事百部の文集が完売したため、当初の予定通りその収入で電気ポットを買った。十一月も下旬になりここ最近冷えてきたため、重宝されている。
「どうぞ」
ことりと麻理が湯呑みを悟仙の前に置く。
「すまんな」
礼を言う悟仙に麻理はにっこりと微笑んだ。
「いえ、熱いので気をつけて下さいね」
お茶汲みをするのは専ら麻理である為、この一連のやり取りはすでに日常風景になっていた。
お茶を啜って一段落着いたところで、麻理が少し前のめりになって切り出した。
「それで、お昼休みに私が言いかけた事なんですけどね」
「確か、今回の喧嘩は自然に収まるのを待つのはダメだという話だったか」
つい三時間程前のことを思い出しながら言う悟仙に麻理は一つ頷いて。話を続ける。
「はい、そうです。私は何としてもなっちゃんと加藤くんには早急に仲直りして頂きたいのです」
「まあ、早いことに越したことはないだろうが、どうしてだ?」
悟仙の問いに麻理は目を見開いた。
「陸奥くん、興味を持ってくれるんですね」
悟仙は呆れ顔で溜息を吐いた。
「どうせ、俺が拒んでも巻き込もうとするんだろ?それなら、下手に抵抗しないほうがいい」
これまでだって悟仙が「関係ない」と言う度に麻理は「関係あります!」と言っては食いついてきて、悟仙が諦めるまで解放してくれなかった。そんな事が続けば嫌でも学習する。疲れない程度に付き合うのが一番効率的なのだ。
「別に、巻き込んでいるつもりはないのですが……」
「そんな事はどうでもいい。早く続きを話してくれ」
麻理はまだ少し不満な表情だが、口を開いた。
「分かりました。今回、二人を早く仲直りさせたい理由はこれから先にあるイベントにあります」
「イベント?」
「はい、もうすぐ十二月ですよね。ほら、分かったでしょう?」
麻理は何やら重大なヒントを示したつもりだろうが、悟仙にはよく分からなかった。
「いまいち分からないんだが、もしかして期末テストか?確かに竜二は九条の助けがないと赤点を取りそうだな」
悟仙の答えに麻理は首を振った。
「違います。もっとよく考えて下さい」
お茶を啜りながらもう一度考えてみるが、やはり分からない。そもそも、放課後まで頭が回るほど悟仙の頭はよくできていない。
「降参だ。全く分からん」
悟仙が諦めて両手を持ち上げてみせると、麻理はどこか咎めるような目を向けてきた。
「むう、真剣に考えてくれてませんね」
「そんな事はない。だが、分からないものは分からないんだ」
仏頂面で言うと、麻理は呆れながらも答えた。
「この先にあるイベントといえば、クリスマスですよ」
「クリスマス?それまでに仲直りさせるのか?」
「はい、頑張りましょう!」
麻理が小さな両手に握り拳を作って言うが、悟仙は溜息を吐きたくなった。どうすれば、二人の喧嘩とクリスマスが繋がるのか全く理解できないが、面倒なことになることは何となく分かった。
「そうか、頑張れよ。俺には関係な」
「関係あります」
麻理は笑顔だが、そこには有無を言わせない迫力があった。きっと麻理は悟仙がいくら逃げても追い掛けて来るのだろう。
「面倒くさい……」
悟仙は麻理に聞こえないように、ぽつりと呟いた。




