第八十一話
「ねえ、何をそんなに怒ってるの?」
和利が二階にある自室のクローゼットからジョギングをする時に使っているジャージを引っ張り出していると、背中に妻である律子からそう声をかけられた。
「別に俺は怒ってない。大事な娘を守るために邪魔者を排除するだけだ」
ちらりと目を後ろに向けて憮然として言うと、律子が呆れ顔で溜息を吐いた。
「それで殴りかかるなんて、随分と下手な排除方法ね」
「ふんっ、やはり律子も女だな。男を排除する場合は実力行使が一番なんだ」
和利が得意気に言うが、律子は相変わらずの呆れ顔だった。
「確かに、私には理解できそうにないわ」
「そうだろうな」
そう言って、手早く着替えて部屋から出ようとすると、律子が日頃見せない艶っぽい笑みを向けてきた。結婚して十五年以上経っているにも関わらず和利は思わず動揺してしまう。律子は実年齢よりかなり若く見える。そんな女性、しかも想い人の微笑みは和利の足を止めるには十分だった。和利も男、美女には弱いのだ。
「律子、どっどうした?」
声を詰まらせながらも問うと律子が口を耳元に近づけてきた。
「偶にはいってらっしゃいのキスくらいしてあげようか?」
「な、何を言ってる!?ふざけてるのか!?」
「なに?嫌なの?」
言葉とは裏腹に律子は全く不安そうな様子を見せない。和利が断らないと分かっているのだろう。
「嫌ではないが……」
和利は娘達に対してできるだけ厳格な父親であろうとしている。それなのにみだりに律子とそういう行為をしていいものなのだろうか。和利が壮絶な葛藤の末そこまで言ったところで律子が途端に表情を真顔に戻した。
「十分経ったし、そろそろ良さそうね」
「何の話だ?」
困惑しながらも尋ねると、律子があっけらかんとした口調で言った。
「悟仙くんからあなたを足止めするように頼まれてたのよ。アイコンタクトでね」
そう言ってウインクを一つしてくるが、和利にはまるで分からない。
「あのガキから?どうしてだ?」
「そりゃあなたから逃げるために決まってるじゃない」
「なっ!?」
慌てて窓に駆け寄りそこから庭を見下ろすが、あの覇気のない少年の姿はない。律子の言うとおり和利が動揺している間にまんまと逃げられたようだ。
「あのクソガキ~」
「言っとくけど、あの子はあなたが恐いから逃げたんじゃないと思うわよ」
和利が視線で先を促すと、律子が溜息混じりに話し始めた。
「気付かなかったの?そもそもあの二人はあなたが考えてるような事なんてしてないし、あなたが悟仙くんに殴りかかった時、近くに麻理もいたのよ?悟仙くんが麻理のことを考えずに一人で逃げ回ってたらどうなってたか、分かるわよね?」
「ああ」
和利は力のない声で答える。確かに和利は近くに誰がいるかなど気にも留めずにただ悟仙を殴り飛ばす事だけを考えていた。しかし、律子の言うとおりならば悟仙はあの状況下で和利より遙かに周りが見えていた事になる。そう考えると、悟仙が和利を足止めした理由も分かってきた。
「まさか、俺はあのガキに庇ってもらったのか?」
和利の独り言に近い呟きに律子が答える。
「そうでしょうね。娘を省みずに暴力を働く父親なんて最悪だもの。それに加えて高校生と庭で喧嘩するなんて尚更ね」
冷静になれば悟仙の考えに気付けていたかもしれない。
悟仙は襲いかかってきた男が後ろに立っている麻理の父親だと分かると、必死に麻理と自分に和利の拳が当たらないようにしたのだろう。どちらかに当たってしまえば、和利が娘の事を考慮していなかった事に麻理が気付くかもしれないからだ。
結果、悟仙の目論見通り和利の攻撃を受けることはなかった。しかし、和利は尚も食い下がらずに悟仙に突っかかった。
そこで、悟仙は和利から上手く逃げることで麻理がこれ以上父親の醜態を見ることがないようにしたのだろう。
あの時、悟仙がここまで考えていたのなら「大したものだ」としか言えない。しかし、果たしてただの高校生にそこまでできるのだろうか。
「だが、あのガキは本当にそこまで考えていたのか?」
和利の問いに律子はどことなく寂しそうに笑った。
「考えてるわよ。あの子は異常なくらい周りが見えてる。だからなのか分からないけど、自分の事が全くと言っていいほど見えてないのよ。悟仙くんの考え通りにいけば、あの子はあなたに表に出ろって言った癖に早々に逃げ出したただの意気地なしになってしまうわ」
「確かに、そうだな」
悟仙と麻理がいかがわしい事をしていないことも、気付かぬうちに庇って貰っていたことも分かった。しかし、男の性なのか、だからといって簡単に悟仙に対して感謝することはできそうにない。だが、矛盾するが麻理が悟仙を意気地なしと勘違いしたままなのも何となく気に食わない。
そんな考えが顔に出ていたのか、律子が「そんな顔する必要ないわよ」と言ってきた。
和利が顔を上げると、律子は得意気な笑みを見せる。
「悟仙くんの考え通りにいけばって言ったでしょ。うちの娘はそんな事に気付かないような育てられ方されてないのよ」
「それもそうだな」
和利は不覚ながらも少しほっとしてしまった。だが、余り悪い気もしないから不思議だ。もしかしたら、悟仙にはそんな何とも言えない魅力があるのかもしれない。
「そう言えば、どうして俺があのガキ、悟仙に殴りかかったと分かったんだ?」
ふと気になったことを尋ねると、十五年以上連れ添っている妻は呑気に答えた。
「見てたからに決まってるじゃない。ある仕掛けをしてたから、悟仙くんが帰るタイミングは分かるようにしてたのよ」
「お前も大概だな」
翌日の朝、家族の誰よりも早起きである和利が新聞を読んでいると長女の麻理が起きてきた。
「おはようこざいます。早起きなんですね」
「ああ、おはよう」
寝起きだというのに、麻理は穏やかな微笑みを向けてくる。この笑顔に見惚れてしまう男子がいてもおかしくないかもしれない。まあ、交際など断じて認めないが。
「ん?」
そこで、和利はあることに気付いた。今の挨拶、どことなく余所余所しくなかっただろうか。
「おい、麻理」
「はい、何でしょうか?」
「何でしょうかって……」
よく見ると、顔こそまるで聖母のような微笑みだが、その目は全く笑っていない。そして、背後に何やらどす黒いものが見えるような気がする。
「この口調のことですか?初対面の人にいきなり手を挙げようとする人なんて私の身内にいませんから、今目の前にいる方はお父さんと瓜二つの別人だと思ってます。知らない人に敬語を使うのは、当然ですよね?」
「そ、それは……」
和利は失念していた。
律子が言うように麻理が悟仙の意図に気付いているのなら、それはつまり和利が麻理を省みなかったことにも気付いている事になる。
「早く元のお父さんに戻るといいですね」
麻理はそう言って、また漆黒の微笑みを向けてくる。
和利はもう一つ失念していた。
長女であるこのおっとりとした天使のような少女は、今時珍しいほど温厚であるが、一度起こると律子に匹敵するほど恐いのだ。
和利はこの後十日間に渡って長女からまともに口を聞いて貰えなかった。
次回から新たな展開になると思われます。期待して貰えると嬉しいです。
また、感想なども貰えるととても嬉しいです。
さらに、「昔は最強でした。」というファンタジー小説も書き始めたのでそちらも宜しくお願いします。




