第八十話
背中に寒気が走り、額に冷や汗が浮かぶ。姉の葉子のせい、もといおかげで並大抵の殺気には耐性がついているはずなのに、玄関に立つこの大男を見たとき悟仙は不覚にも恐怖してしまった。
その殺気の発生源である大男、麻理の父親は動揺する悟仙を余所に先程からこちらをじっと睨みつけている。
「お父さん、どうしたの?」
この緊張感漂う沈黙を麻理の透き通った声が破る。
「お前達、ここで何をしていた?」
娘の問いに対して大男は悟仙から目を離さずに答えた。
「何って……」
そう言いながら麻理が此方に顔を向けてくる。自然と悟仙も麻理に目を向けた。
そこで、悟仙は思いの外麻理の顔が近いことに気付きぎょっとした。
「うおっ」
「あっ」
麻理も同じことに気付いたようでさっと悟仙から少し距離を取った。
「すみません」
「いや、別に構わん」
ほんのりと頬を赤くして頭を下げる麻理に悟仙が短く返す。すると、後ろからの殺気が少し強まった。
「早く答えろ。そこの小僧、さっき何をしていた?」
「別に何も」
咄嗟にそこで言葉を止める。それはこの大男が殺気を放っている理由に思い当たったからだ。
先ずは先程大男に見られた時のことを思い出さなくてはならない。あの時、悟仙は帰宅するために玄関の一段低い位置に立っており玄関に立つ麻理と日頃では有り得ないほど距離が近かった。
「あなた、まさか……」
出来ればこの予想は当たって欲しくない。しかし、悟仙にはこれしか思い当たらなかった。玄関で顔を近づけた男女がすること……それはつまり
「俺達がここでキスしてたと思ってます?」
出来れば外れていてくれ。そんな悟仙の願いも虚しく大男の怒りは沸点に達したようで、眉間に深いしわが刻まれる。
「貴様っ!やっぱりしていたのか!?」
「ちょっと待って下さい。あなたは妻の律子さんとしてるのかもしれませんが、普通の高校生がするわけないでしょう」
「律子とは新婚の頃くらいしかしとらんわっ!」
何やら盛大に勘違いしている大男を悟仙が何とかして宥めようとするが、あまり効果はなさそうだ。逆に益々殺気が膨れ上がった気がする。
ここは愛娘である麻理に助太刀して貰おうとそちらに目を向けるが
「私が……陸奥くんと、キス?そんな事できるわけ……でも、あう~」
肝心の麻理が顔を真っ赤にして完全に頭をショートさせている。大声でリビングにいる律子を呼ぶことも考えたが、律子ならこの状況をかき回しかねない。逃げようにも大男によって玄関の扉は塞がれている。ここは悟仙が何とかするしかないだろう。
「ちょっと勘違いしているようなので、先ずは一回落ち着きましょう」
「落ち着いていられるか!」
悟仙は思わず歯噛みした。この大男はきっともう止まらないだろう。前々から思っていたのだ。どうして律子の娘である麻理が少し抜けたところがある、所謂天然なのかと、その答えは目の前にある。麻理がこの男の娘でもあるからだ。今の大男の様子は「関係あります!」と言って悟仙に食い付いてくる少女にそっくりだった。
「頼むから落ち着いて下さい。おとうさ、あっ」
「誰がお義父さんだ!」
悟仙が失言に気づいた時には時既に遅し。大男は右手に提げていた鞄を悟仙の顔めがけて真一文字に振ってきた。
「っと」
それを上半身を後ろに倒して避ける。
すると
ほにょん
と何とも言えない柔らかさを持った物体に後頭が触れた。
「ふえ?」
続けて麻理の素っ頓狂な声が上から聞こえた。
そちらに目を向けると大きな瞳に涙をためた麻理の顔があった。
「なっ」
それが意味するのはすなわち悟仙が麻理の胸に頭をうずめたということだ。
悟仙はこれまで以上に動揺した。計らずも麻理の胸に触れてしまったからではなく、前に立っている大男の殺気が爆発したのを感じ取ったからだ。
「このクソガキ!」
大男が手から鞄を放すと右拳を顔面に打ち込んでくる。悟仙はそれをかわしながら後手で右ストレートの射程圏内にいた麻理を右に動かした。
「このっ」
大男が今度は左フックをかましてくる。それを悟仙は麻理の頭を上から押さえつけながら自身も頭を下げてかわす。
麻理が短い悲鳴を上げた。
「きゃっ」
「悪いが、お前に構ってられるほど余裕はない」
何せ悟仙も必死なのだ。悟仙の腕より二回りも三回りも太い腕を持つ大男のパンチを受ければ大袈裟な比喩ではなく首から上が吹っ飛びかねない。
腕を振り回しながら前進してくる大男から距離を取るため靴を素早く脱いで玄関に上がる。その間にも拳の嵐は止まることなく悟仙を襲ってきた。それを麻理に気を配りながらもかわすのは骨が折れたが何とか二人とも無傷だった。
「落ち着いて下さいって」
「それなら早く麻理から離れんか!」
避けることに必死で気付かなかったが、悟仙はいつの間にか麻理の細い腰に腕を回してこちらに抱き寄せていた。その事にぎょっとする暇もなく大男の攻撃は続く。ここで麻理から離れれば麻理に流れ弾が当たりかねない。それに、一つ考慮しなければいけないこともあった。
「手を止めて下さい。そうしてくれれば井上を離します」
「そんな事信じられるか!」
飛んできた右ストレートを麻理と共に右にかわす。左耳に凄まじい風切り音が響いた。人質交換じゃあるまいし、要求を呑んでくれたら麻理から離れるに決まっている。仮に悟仙が麻理と抱き合いたいと思っていたとしても、今の状況では麻理の柔らかくも温かい身体の感触を楽しめる筈もない。それほど目の前にいる麻理の父親は我を忘れているのだ。
「あっ」
もう何発目か分からない大男のロケットパンチをかわした時、右手で抱え込んでいた麻理の身体が玄関の壁にぶつかった。どうやら避けることに必死で知らず知らずのうちに逃げ場を無くしていたことに気付かなかったようだ。
大男が獰猛な笑みを見せ右拳を振り上げる。悟仙が怪我を通り越して死をも覚悟した時、リビングの方からパンパンと手を鳴らす音がした。
「は~い、ご苦労様。ご近所さまにも迷惑でしょうからそろそろ止めなさい」
律子が呑気な声でそう言うが、その夫は納得いってないようだ。
「律子、だが麻理が」
「とにかく、止めなさいって言ってるの和利さん」
「ぐっ」
律子が少し語気を強めると途端に大男、和利が言葉を詰まらせる。悟仙は井上家の力関係を垣間見た気がした。
「あの、陸奥くん。ちょっと苦しいので少し腕を緩めてくれると……」
悟仙が和利に少し同情していると、腕の中にいる麻理が顔を赤らめて小さな声で訴えてきた。
「わ、悪い」
悟仙がさっと退くと井上夫妻の視線が突き刺さった。和利は文字通りの突き刺すような視線、律子はにやにやと笑っていた。
「では、僕はそろそろ帰らせてもらいますね」
そう言って和利の脇を抜けて帰ろうとするが、和利の低い声が背中に掛けられた。
「おい、このまま帰るつもりか?」
「そうですけど」
目だけをそちらに向けて答えると和利がにやりと不敵な笑みを見せた。
「ふっ、逃げるのか?」
ちらりと麻理に目を向ける。麻理はパタパタと手で自分の顔を扇ぎながらも、だんだんと冷静になりつつあった。
悟仙は深く溜め息を吐くと和利にも負けないくらいの不敵な笑みを見せた。
「逃げませんよ。気付かなかったんですか?せっかく行動で示してるのに、つまり『表に出ろ』って言ってるんですよ」
「クソガキっ」
そう叫んで今にも掴みかかってきそうな和利を手で制し、さらに続ける。
「僕だけジャージ姿なのはフェアじゃないのであなたも動きやすそうな服装に着替えてきて下さい」
悟仙はそう言うと、律子にアイコンタクトを送って足早に外に出た。




