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第七十九話

「目が覚めると、そこは知らない部屋だった」なんてことは物語の中ではよくあることだが、悟仙が目を覚ましたのは見覚えのある、もっと言えば以前一度入ったことがある部屋のベットの上だった。


「井上の部屋、か」


悟仙が寝起きの掠れた声で呟くと、右隣から綺麗なソプラノの声がした。


「陸奥くん、目が覚めたんですね」


そちらに目を向けるとふわりとしたボブカットにくりっとした大きな瞳、この部屋の主人である麻理が床に膝を崩して座っていた。悟仙が目を覚まして安心したのか、ほっと胸をなで下ろしている。


「俺はどれくらい寝ていた?」


色々他に聞きたいことがあるが、悟仙が最初に尋ねたのはそれだった。すると、麻理が部屋にある掛け時計に目を向けた。今気付いたことだが、麻理はベットの枕側に座って少し身を乗り出して横になっている悟仙の顔を覗き込んでいるので、結構距離が近い。


「今は午後七時半なので、およそ三時間ですね」


しかし、麻理はこの距離感を気にする素振りを見せずに平然と答える。

現在の状況は大方理解した。しかし、悟仙が最も気になるのは今に至るまでの経緯だ。


「俺をここに運んだのは誰だ?まあ、だいたい予想はつくが……」


悟仙が尋ねると、麻理は困ったように苦笑した。


「陸奥くんを運んだのは加藤くんです。家の階段は段差が大きいので、大変そうでした」


「竜二の奴め」


人一人を担いで階段を上るのはさぞ大変だっただろう。それだけでなく、麻理の家まで運ぶのにも随分苦労したはずだ。今度竜二と会ったら誠心誠意を込めて感謝の言葉を伝えるのもやぶさかではない。しかし、それは悟仙を『悟仙の』家に運んだ場合だ。

せっかく竜二に家の鍵の場所まで教えておいたのにこれでは意味がない。


「あいつは何て言って俺を井上の家に運んだんだ?」


「えっとですね……」


悟仙が未だに横になったままの体勢で尋ねると、麻理は思い出しているのか、視線を上に向け下唇の下にそっと手を当てた。その仕草と妙に麻理と近いせいで麻理の唇がやけに艶めかしく見える。

悟仙はすっとベットの左端に寄り、麻理からなるべく距離を取った。


「確か加藤くんは陸奥くんの家に誰も居ないかもしれないからと言ってた気がします」


「なら、どうして竜二の家にならない。普通はそうなるだろ」


顔がひきつるのを何とか堪えて言うと、悟仙のそんな状況など知る由もない麻理はまた同じ仕草で考え始める。悟仙としてはその仕草は止めて頂きたかったが、そんな事言えるはずもなくそっと目を逸らしただけだった。


「加藤くんは陸奥くんを家に上げるのが恥ずかしいと言ってました。男の子の友情って複雑なんですね」


「そんな訳ないだろ」


悟仙が溜息混じりに言うと、麻理は不思議そうに首を傾げた。ふわりとボブカットの黒髪が揺れる。


「違うんですか?」


「違う。ただの悪ふざけだ」


竜二の家には昔から何度も行っている。今さら恥ずかしいも何もない。ましてや悟仙と竜二の間に複雑な事情などあるはずがない。ただの腐れ縁だ。

どうせただで運ぶのが気に食わなかっただけだろう。


「悪ふざけ?」


「ああ、あいつが考えそうなことだ」


麻理の問いに答えながら静かに身を起こす。しっかり寝たからか、眩暈などは感じない。


「起きて大丈夫なんですか?」


麻理が心配そうな目を向けてくる。悟仙が上半身を起こしたため自然と床に座っている麻理がこちらを見上げる形になった。


「問題ない。迷惑をかけたな」


「そんな、迷惑だなんて……私はそんな事思ってませんよ」


「そうか」


そう短く言って立ち上がろうとした時、麻理の表情に変化が起きた。具体的に言えば、みるみる白い頬が膨らんでいった。


「ど、どうした」


「私、少し怒ってるんです」


立ち上がるのを中止してベットに座ったまま聞くと、麻理がぐっと顔を近付けながら答えた。ぎょっとして悟仙すぐさまはその分距離を取った。


「どうして」


「陸奥くんは無理をしました。無理しないって言ってくれたのに」


「それは」


「分かってます。私の言葉で陸奥くんの行動を規制できる訳ではないって」


どうやら悟仙の声は麻理の耳に入ってないようで、麻理の独白は尚も続いた。


「でも、それでも……ここに陸奥くんを心配している人がいるって事は知っていて欲しいんです」


それはきっと体育大会だけの事を言っている訳ではない。文化祭から始まる茜との事も言っているのだろう。あの時、麻理は悟仙に何も言ってこなかった。しかし、それは悟仙の負担になるまいと思ってのことだったのだろう。


麻理の声はそんなに大きくなかった。しかし、目の前にいる少女の叫びは確かに悟仙の心に響いた。

麻理が『ひっくり返る』ことはきっとない。しかし、悟仙にとってそういう存在が一番恐いものである。

ずっと裏を見せずに表だけを上にしている駒は、気付かないうちに裏面をじめじめとした地面に押し付けていてそのうち腐敗させてしまい、何かの拍子にひっくり返った時、裏面は真っ黒になっている。人間だってそうだ。いつも善人を装っている者が裏に潜んでいる悪人の面を見せたときが最も恐ろしいのだ。表しか見せてない者は知らぬ間に裏に鬱屈とした感情を抱えているのだ。


しかし、麻理にはそういった恐ろしさを感じない。何がそうさせるのかは分からない。だが、理由はなくとも信じられそうな気がした。


「分かったよ。少しは気をつけることにする」


だから、悟仙は素直にそう答えた。




麻理と共に部屋を出て階段を下りると、玄関の前に律子と由衣の姿があった。


「やっほ~悟仙くん、麻理のベットはよく眠れた?」


「ちょっとお母さん!」


律子の言葉に麻理が顔を赤くして叫ぶ。対する律子は悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「何よ?悟仙くんを麻理のベットに寝かせるって言い出したのは麻理でしょう?今さら恥ずかしがってどうするの」


「それはそうだけど……」


麻理はそう言って俯き、潤んだ目をちらりとこちらに向けてきた。


「むっちゃん!」


悟仙がどう反応するか悩んでいると由衣が声をかけてきた。変なネーミングは健在である。


「よう。由衣、久し振りだな」


「むっちゃん、もうかえっちゃうの?」


「ああ、もうへとへとなんだ。また今度くるよ」


そう言ってやると、由衣が目を輝かせた。


「うん!それまでにむっちゃんとなにしてあそぶかかんがえとくね!」


ここでだだをこねないのはやはり麻理の妹だからだろうか。由衣もきっと姉同様優秀なのだろう。


「前から思ってましたけど、陸奥くんって由衣には優しいですよね」


「そうか?」


そんな事を言ってくる麻理は何やら変な視線を向けてくる。未だに悟仙が変な趣味を持っていると思っているのかもしれない。


「あら麻理、もしかしてやきもち?」


「へ?やきもち?」


麻理が心底不思議そうに首を傾げる。それに対して律子は額に手を当ててうなだれた。何やらひどく落胆しているように見える。


「そう、そうなのね。あんた達、まだ全然なのね」


「何が?」


律子は麻理の問いを無視して由衣に目を向けた。


「さあ、由衣。まだ宿題の途中でしょう?この鈍感共、じゃなかったこの二人は置いて戻るわよ」


律子はそう言うと文句を言う由衣を連れ立ってその場を後にした。何やら酷いことを言われた気がしたが、よく分からないので気にしないことにする。


「お母さん、何が言いたかったんでしょうか?」


「さあな。じゃあ、俺は帰るぞ」


「あっ、ちょっと待っててください」


麻理はそう言うとリビングへぱたぱたと歩いていき、直ぐに戻ってきた。手には悟仙のトートバックがあるので悟仙の荷物を持ってきてくれたのが分かる。


「すまん、すっかり忘れていた」


「いえ、大丈夫ですよ」


悟仙が詫びると麻理が柔らかく微笑んでトートバックを渡してきた。それを受け取りながら一つ気になったことを聞いてみる。


「どうしてリビングにあったんだ?別に井上の部屋で良かっただろう?」


「お母さんが『今時の男子高校生の鞄の中身が知りたい』と言っていたので、渡してしまいました。すみません」


「プライバシーも何もないな。まあ、大したものが入ってる訳でもないから別にいいが」


そう言ってバックを手で引くと、まだバックに手をかけていた麻理がバランスを崩してこちらに倒れてきた。


「きゃっ」


「っと」


何とか反応して麻理を支えてやる。前から華奢だと思っていたが、麻理の身体は思ったより軽かった。


悟仙がそんな感想を抱いていると、後ろから玄関の扉が開く音がした。

そちらに目を向けると熊のように大柄な男が立っていた。


「あ、お父さん。おかえりなさい」


麻理が驚きながらも言う。


それを聞いたとき、悟仙はこれまででも最大級の嫌な予感がした。







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