第七十七話
「疲れた」
グラウンドから何やら出て行く前より騒がしいテントに戻り、定位置の麻理の隣に腰掛けて、悟仙はポツリとそう呟いた。
「大丈夫ですか?」
麻理が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「大丈夫だ。トラック一周分の体力は残してある」
「そうですか。今はしっかり休んで下さいね」
「ああ、そうする」
顔を俯かせ、深く息を吐く。クラス対抗リレーは午後の最後の競技だ。先程終わった騎馬戦から五つ競技を挟む形になる。それまでは体力の回復に努める必要がある。
「それにしても、大活躍でしたね!」
麻理が興奮気味に言う。一拍置いても返事をする者がいないので、悟仙に言っているのだろう。
「アンカーを代わってもらうための交換条件だったからな、出来ることはしなければならなかったんだ」
「交換条件、ですか?最後に大将騎をやっつけたのもですか?」
「あれは想定外だった。そこまでは交換条件に含まれていなかったよ」
「そうなんですか?」
「ああ」
悟仙は大将騎を倒す気など微塵もなかった。あの時は、どう考えても逃げられそうにもなかったため、少し押されて後ろに倒れて早々に敗退するつもりだった。しかし……
「あの大将、握力強すぎだろ」
大将騎が勢い良くぶつかってきた所までは悟仙の計算通りだった。しかし、悟仙が後ろに倒れている時大将騎の騎手はなかなか悟仙の手を離してくなかった。そのため、あんな危なっかしい落ち方になったのだ。その分きっちりと体力も奪われてしまった。
悟仙が自分の見通しの甘さを悔やんでいると。右手をそっと誰かの手で包まれた。
「っ!」
悟仙がぎょっとしながら手の出てきた方向に目を向けるとやっぱりと言うべきか、麻理の顔があった。その大きな目は真っ直ぐ悟仙に向けられている。
「陸奥くん……」
「な、何だ」
麻理が顔を近づけてきたので、悟仙はその分後退して距離を取った。
「次のクラス対抗リレー、無理しちゃダメですからね」
「当たり前だ。俺がそんな事するはずがないだろ」
「でも、騎馬戦では無理をしてました」
「しょうがないだろ。あれは」
「想定外な事が起きたから、ですよね?」
麻理が悟仙の言葉を遮る。最初は片手だったが、今悟仙の右手は麻理の両手で握られている。その柔らかい感触に思わず顔が引きつってしまう。
「そ、そうだ」
「では、次のリレーは何があっても陸奥くんの予定通りに走って下さい」
「お前はさっきから一体何が言いたいんだ?」
悟仙が問うと、麻理は俯き消え入りそうな声で呟いた。
「心配……なんです」
「そんなもの」
俺には関係ない、と言ってしまうのは簡単だが、それを言ってしまうと麻理が何をしだすか分からない。それほど、今の麻理には鬼気迫るものがあった。
「関係ない……ですか?」
「分かったよ。無理はしない。元から必要最低限のことしかするつもりなかったしな」
だから、懇願めいた麻理の問い掛けに頷くしかなかった。
「そう、ですか」
安心したのか、麻理がほっと息を吐く。固かった表情が緩み、いつもの穏やかな微笑みに戻った。いつもこのギャップにやられる。悟仙はそう感じた。垂れ目の目を一生懸命吊り上げる麻理を見ると、悟仙は何故かいつものペースが崩されてしまうのだ。
「必要最低限って、色対抗リレーみたいにするってこと?」
後ろからの声に振り返ると、夏子が馬鹿にしたように笑っていた。馬鹿にされる理由が思い当たらない悟仙には少々不服だった。
「そうだが、何か文句があるのか?」
そのため、悟仙の声には少し棘があったが、夏子は気にすることなく肩を竦めた。
「別に、文句なんてないわよ。ただ、あんたが色対抗リレーと同じ様に走るのは無理ってことを言いたいだけ」
「どうしてだ?」
夏子の口ぶりからして、夏子は悟仙のやり方を見抜いているようだ。
悟仙が言う必要最低限の走りとは、一位でバトンを貰えば後ろの走者と、一位より遅れてバトンを貰えば前の走者とバトンを貰った時と同じ距離を保って走ることを意味する。その結果誰かから抜かれようと悟仙には「関係ない」ことだ。
そうすることは悟仙にとって特に難しい事ではなかった。現に午前に行われた色対抗リレーでは予定通りに走れている。
「あんたが走るのってアンカーの一つ前の第四走者よね?」
「確かそうだった気がするが、それがどうした?」
「その第四走者に学年でも三番以内には入るくらい足が速い奴がいるのよ。しかもそいつがいるクラスは結構速い人が揃ってるみたいよ。うちのクラスと一騎打ちになるだろうって皆言ってるわ」
「つまり、俺は全力で走るしかないってことか?」
「あんたに一位でバトンが回ってきてその人が二位なら、ね」
夏子が言い終わると、未だに麻理から握られている右手を先程よりも強く握り締められた。
「なっちゃん、陸奥くんに無理させるようなこと言わないで下さい。陸奥くんも、無理したらダメですよ。さっきの騎馬戦で大活躍したんですから、そこまで頑張る必要はありません」
「分かってる。たかが学校行事にそこまで熱くなるわけないだろ」
どうやら悟仙は余り麻理から信用されてないようだ。そして、それは悟仙も同じだった。
真剣な顔で悟仙を見つめる麻理を遮って、麻理の顔の前に竜二の顔がぬっと出てきた。
「手を握りあってるとこ悪いけど、悟仙そろそろ出番だぜ?」
「そうか。井上、手を離してくれ」
悟仙が自身の右手を固く握る麻理の手を見て言うと、麻理が慌ててさっと手を離した。
「へ?あっ、すみません!随分長い間握ってしまってました」
あわあわしている麻理を無視して悟仙は今日最後の労働のために立ち上がった。そのままテントから出ようとする悟仙の背中に麻理から声をかけられた。
「陸奥くん、無理したらダメですからね!」
「分かってるよ」
溜息混じりにそう言ってからテントから出る。日が傾いたおかげでそこまで先程より日差しの強さは感じない。それはなるべく体力を失いたくない悟仙にとってありがたいことだった。
「あんな可愛い子に心配してもらって、羨ましい奴だな」
隣を歩く竜二がにやけ顔で言ってきた。
「あれはただ信用されてないだけだ」
麻理は悟仙を余り信用していないようだが、悟仙はそれ以上に自分というものを信用していない。
「竜二、俺の鞄の鍵が入ってる場所知ってるか?」
悟仙尋ねると、先程のにやけ顔から一転、竜二は嫌そうな顔をした。
「知ってるけど、あの役回りあんまり好きじゃねえんだよなあ~。何とか上手くできないのか?」
「無理だな。嫌なら、そうならないように祈っとくんだな」
「え~!」
うなだれる竜二を取り残して悟仙はすたすたと歩いていった。
☆☆☆
「じゃあ、あたしも言ってくるわね」
麻理が悟仙の背中を目で追っていると夏子にそう声をかけられた。クラス対抗リレーは女子、男子と順番に行われるため、夏子も悟仙達と同じく出番なのだ。
そんな親友に麻理は一言もの申さずに送り出すことができそうになかった。
「なっちゃん、どうして陸奥くんを煽るようなこと言ったの?」
麻理の口調は自然と責めるようなものになってしまう。
「だって、あれくらい言わないとあいつ絶対手抜くじゃない」
「陸奥くんは体調が余り良くないんだし、少しくらい手を抜いてもいいと思うんだけど……」
麻理の言葉に夏子は呆れ顔になった。
「麻理はあいつを甘やかしすぎなのよ」
「そんな事ないと思うけど」
「まあでも、麻理にあれだけ言われたんだから陸奥も無理しないわよ」
「それは……ないと思う」
麻理はふるふると首を振った。麻理がどれだけ言っても、もし夏子が言うような事態になった場合、悟仙は迷うことなく全力で走るだろう。
半ば直感のような推測だが、麻理には自信があった。
「どうして分かるのよ?」
そんな麻理に対して夏子はさっぱりといった様子だが、麻理から言わせれば麻理より夏子は悟仙との付き合いが長いのにどうして分からないのか不思議なくらいだった。悟仙の判断基準はいつも一貫している。
「陸奥くんに『関係ある』からだよ」
「そんな理由で?本当にあいつはひねくれてるわよね。あっ、そろそろ時間だから行くわね」
「うん、行ってらっしゃい」
夏子が小走りでテントから出て行く。夏子に悟仙に無理しないように再度言ってもらうことも考えたが、止めておいた。そんな事で悟仙の気持ちが揺れるはずがない。特に今回は絶対に無駄だ。
悟仙と接していくうちに、少しくらいなら悟仙の事が分かるようになってきた。
悟仙は否定するかもしれないが、あの眠そうな少年は「関係ない」のか「関係ある」のかに異常なほどの拘りを持っている。そして、そこに誰かからの「期待」が加われば、悟仙はそのニ択すら出来なくなる。
だから、今回悟仙は必ず無理をする。騎馬戦での活躍と男子からの『勇者』と大袈裟に崇められていることで、悟仙への期待は今鰻登りになっているはずだ。それほどの期待を悟仙が裏切れるはずがない。
「関係ない」「関係ある」と同じくらい悟仙は「期待」というものに拘りを持っているのだ。その理由の一端を麻理は過去に垣間見ている。
「陸奥くん……」
麻理一人の期待していないという態度がどれほど悟仙に届いているのか分からないが、麻理は悟仙が無理しないようにただ願うことしか出来なかった。




