第七十話
日々を生きていく上で、必ず設けられているのはいくつかの期限である。身近なもので言えば高校生活は留年することを除けば三年という期限がある。大きなもので言えば人の寿命というのも一つの期限である。
そして、全てのカップルが破局することなく愛を育む訳ではないことから、恋人関係にも期限があると言える。ならば、恋人関係になる前の関係にも勿論期限は設けられているはずである。
「悟仙くん、あなたのことが好きです。付き合って……くれないかな?」
目の前で赤面している茜の告白に悟仙が最初に考えたのはそんな事だった。いや、いつもの悟仙なら、そんな取り止めのない事を考えるはずだった。
正直に言えば、悟仙の心は激しく揺れた。慣れない緊張で喉が干上がって声が出ない状態でなければ思わず「分かりました」と言ってしまっていた可能性もあった。それを阻んだのは頭の中で繰り返される茜の告白の言葉に割って入ってくる一人の少女の声だった。
『悟仙くん』
悟仙の事を下の名前で呼ぶことがないせいか、たどたどしいその声は泥沼に沈んでいく悟仙をどうにか引っ張り上げてくれた。日頃、疎ましく思っている少女に救われたことに思わず苦笑してしまう。
「まあ、いつも振り回されている分プラマイゼロだな」
小さくそう呟いて顔を上げると、悟仙の呟きが聞こえたのか戸惑った表情をする茜の顔があった。
それを見ながらひょいっと肩を竦めると、肩の重荷が下りたような、そんな気持ちになる。宮田に告白された麻理もこんな感じだったのだろうか。
いつまでも返事を待たせるわけにもいかないため、吹っ切れたためか、潤ってきた喉を使って声を出す。
「じゃあ、お答えしますね。答えはノーです」
「へ?」
間の抜けた声を出す茜をよそに、完全に自分を取り戻した悟仙の視点が『上がって』いく。
悟仙はいつからか、物事を俯瞰するようになった。悟仙が「関係ない」と言って拒絶し、それから自分を切り離すことで自然と視点が上がっていく。故に、悟仙には日々活動する人々など盤上にある駒のように見える。もっとも、悟仙はその駒を神のように自在に動かすことなどできないし、悟仙自身もその中にある一つの駒である自覚はある。当然、悟仙が動かせるのは自分の駒だけだ。
物事を俯瞰できることの利点は、人の動きがよく見える事である。竜二に人間観察が得意だと言われるのはこのためだ。また、自分の駒を動かすことで周りの人を多少は動かすこともできるが、これは俯瞰してなくても誰でもある程度はできる事なので利点ではない。
しかし、俯瞰できることには厄介な部分もある。
それは、悟仙が「関係ある」と踏んだ時だ。悟仙は「関係ない」というセリフが口癖になってしまっているため、視点が下がってしまった時、その視点に慣れずパニック状態になってしまうのだ。特に他人から向けられる感情をどう区別すればいいのかが分からなくなる。誰でも、小説などの物語の世界に没頭することはあってもいざその世界に放り込まれれば戸惑ってしまう。それと同じようなものだ。端的に言えば感情を向けられることが怖いのだ。
今回の茜の件はその欠点が災いした。悟仙は多少であれば視点を下げたまま、平静を保つこともできる。高校に入学してから麻理によって度々引きずり落とされてきたため、耐性がついたからだ。
しかし、今回に限っては事情が違った。相手が麻理でない事もあるが、期限が長すぎた。茜に出会って三週間程視点を下げたままなんて悟仙には耐えられなかった。そのせいで悟仙は一週間ほど食事も睡眠も満足に取れてない。
「えっと、理由を聞かせてもらってもいいかな?」
未だに困惑している茜に悟仙は事も無げに告げた。
「それは、僕があなたを好きじゃないからですよ」
「え?でも」
「もっと言えば、嫌いでもないですけどね」
悟仙の言葉に活路を見出したのか、茜の表情が少し明るくなる。
「じゃあ、取り敢えず付き合えば」
「さらに言えば、あなたも僕を好きじゃないからですよ」
しかし、悟仙がそう付け足すと途端に茜の表情が固まる。
「え……ちょっと待って。悟仙くん、何を言って」
「素直じゃない年下男子を誑かすのは楽しかったですか?」
「ちょっと待って!さっきから何言ってるのか全然わかんない!」
茜が金切り声を上げる。だんだんと隠された本性が出てきたようだ。
「では、順を追って話しましょう。まず、あなたが僕に近付いた最初の目的は僕ではなく井上麻理にあった」
「はあ!?あんた何言って」
悟仙は声を荒げる茜に構わず続ける。
「あなたは美少女コンテスト優勝候補である井上が邪魔だった。そこで負けたときの予防策としてあいつと恋仲、もしくは好意を寄せているであろうと思われる僕に目を付けた。もし負けても、あなたが僕を手に入れていれば完全敗北にはならないですからね」
「何さっきから訳分かんないことをつらつらと……」
「そして、その手引きをしたのは宮田ですよね」
先程まで怒りに染まっていた茜の表情が固まる。口を開いたままで、何とも間抜けな表情だ。
「はあ?意味分かんないんだけど」
あくまでもしらを切る茜の口調は荒いものだった。普段はこういう口調なのだろう。
「なら、僕に届いた宮田へのメールは何だったんでしょうね?」
「嘘っ!?そんな……」
「あれ?本当だったんですか?」
メールの話は勿論ブラフだ。悟仙にそんなメールは届いてない。カマをかけてみたがビンゴのようだ。
言葉を詰まらせる茜に悟仙はさらに続ける。
「そして、あなたの予想は外れて井上ではなくあなたが優勝した」
まだ正気だった悟仙は茜の狙いに気付いていた。そのため、悟仙は文集を買いにくる客に悟仙の分も投票してくれるように頼んで何票も茜に投票し目論見通り茜が優勝した。
「でも、目的を達成したあなたは僕から離れなかった。それが何故なのか、あなたが僕に向ける感情が一体何なのか、僕には分からなかった」
そこで一旦言葉を止めると、茜が口を開いた。
「確かに、その時までうちは悟仙くんが好きじゃなかった。でも今は好きなの」
口調を戻す茜に悟仙は溜息を吐いた。この女はどこまでも貫き通すつもりなのだろうか。とっくに仮面は外れているのに。
「僕のことを好きだった?ご冗談を。あなたはただ楽しかっただけでしょう」
「そんな事」
「ありますよ。僕はあなたの感情が分からなかった。僕は悪意しか判別できませんからね。でも、分からなくても比べることはできる。あいつとは違いましたからね」
茜が悟仙の名前を呼ぶ時の茜の感情と麻理が悟仙
名前を呼ぶ時のそれは明らかに異なっていた。なので、茜の感情は好意ではないと思った。
しかし、人間はやすきに流れやすいものだ。茜の告白に動揺したのはそのためだ。
「今日あなたの告白に僕が頷いていれば、万々歳だったんでしょうけど、残念でしたね」
悟仙がそう告げると、茜が一歩後ずさった。顔は恐怖に染まっている。
だが、悟仙に言わせてもらえば茜の恐怖などまだ序の口だ。ここ三週間ほど周りの人間から「関係ない」というフィルターなしの生の感情を向けられた時の恐怖はそんなものではない。
茜との会話が終わったことでさらに頭が回転し出す。
すると、入口から二つの視線を感じる。きっと竜二と夏子だろう。麻理が告白をのぞくような野暮なことをするとは思えない。
「では、もう一人にご登場してもらいましょうか」
ここにはもう一人いるはずだ。実際に俯瞰できている訳ではないが、これまでの彼の動きを振り返れば分かることだ。
悟仙は入口の反対側にある給水タンクに目を向けた。
「いるんだろう?宮田、裏でこそこそと全くお前らしいよ」
果たして給水タンクの影から出てきたのは悟仙の予想通り、怒りを露わにした宮田だった。
お陰様で七十話も連載を続けることができています。
これもひとえに読んでくださる方々のお陰です。
話は変わりますが、文化祭から続く悟仙と茜のゴタゴタももう少しで終わります。麻理との絡みが少ないと思っていらっしゃる方はもう少しお待ちください。
また、感想なども大歓迎です。
そういったものは私にとって関係「ある」ものですから(笑)
今回後書きを書かせてもらったのは先にある通り七十話も書くのに不可欠だった読者様への感謝を申し上げるためです。
ではでは、また近々お会いしましょう。




