第五十八話
「ふい~、ようやく休憩に入れるぜ」
まさしく目が回るような忙しさがようやく収まってきたため、休憩の許可を取れた竜二は教室から出るなりそう呟いた。
朝から忙しくはあったが一時間ほど前に宮田が休憩に入ってからは増して忙しくなった。
竜二のクラスの喫茶店はウエイターはただ食べ物や飲み物を客に渡すだけでなく、客に指名されればその客と軽いお喋りもしなければならなかった。
このホステスまがいの行為をするのは指名されたウエイターだけで、殆どが竜二と宮田の二人だった。
そのため、宮田が抜けてからは竜二の指名が増え、大忙しだったのである。
首を回して凝った筋肉ほぐしながら教室の入口の方に向かうとそこには二人の女子生徒が並んで座っていた。夏子と麻理である。
「よう、文集は売れてるか?」
二人に手をあげて言うと、先に答えたのは夏子だった。
「結構売れてるわよ。あと二十部くらいかしら。陸奥がここに座ってた時より売れてるんじゃない?これならあたし達が店番の方が良かったかもね」
「それは井上さんが店番してるからじゃないか?」
そう言って夏子の隣に座る麻理に目を向けると麻理がくりっとした大きな目を瞬かせて首を傾げた。
「どうしてですか?」
「あたしの愛想が悪いって言うの?言っとくけどお客さんには笑顔を振りまいてたんだからね!」
夏子の迫力に竜二は少し後ずさってしまう。
「いや、別に夏子がどうこうって訳じゃないんだ」
「じゃあどういう訳よ?」
尚も睨めつけてくる夏子に必死に弁解する。
「いや、だって文集にある写真の本人が売ってるわけだろう?だから客が来るのかなと思ったんだよ」
竜二の言葉に納得したのか。夏子の表情から怒りが消える。
「そうね、それもあると思うわ。写真の本人に興奮しておかしな事する奴が出てこないようにあたしが麻理と一緒に店番してるんだしね」
「私ってそんなに頼りなさそうに見えるの?」
麻理が不本意そうに言う。敬語ではないので夏子に言っているのだろう。
「違う違う。そういう意味じゃないのよ。あたしは男が麻理に変なことしないのか心配なだけなの」
夏子が慌てて麻理に弁解する。
竜二はさっきああ言ったが、麻理と夏子という二人の美少女が店番をしていれば、文集が売れるのも納得である。だから、夏子も文集の売れ行きに十分貢献していると言える。
しかし、竜二はどうにも気恥ずかしくてそう言えなかった。
竜二が自分の情けなさに心中でため息をついていると廊下の奥から悟仙が相変わらずの寝起きのような顔でやってきた。
「あれ?由衣はどうしたんですか?」
悟仙がやってきて直ぐに麻理が声掛けた。
悟仙が麻理と店番を代わったのは麻理の年の離れた妹である由衣と文化祭を回るためだと聞いていたが、今悟仙の近くにあの小さな少女はいなかった。
「ああ、ここに来る途中で律子さんと会ったからな、由衣は律子さんと一緒に帰ったんだ」
「そうでしたか。由衣が何か迷惑をかけませんでしたか?」
麻理が神妙な顔をして聞く。竜二は今更ながら麻理が姉であることを実感した。麻理の顔はいつものおっとりとしたものではなく、しっかり者のお姉さんの顔になっていた。
「問題ない。由衣は楽しそうにしていた。途中までは……な」
「悟仙、それはどういう意味だ?」
悟仙の最後の方の言い方が気になり聞く。悟仙が口を開く前に悟仙の後ろから声が聞こえた。
「ちょっと悟仙くん、それってどういう意味?言っとくけど、うちは何か悪意があった訳じゃないからね?」
声を出したのは今、この学校の中で噂になっている人物だった。相沢茜、只今美少女コンテスト一位の女子生徒である。少し巻いた染めた髪にぱっちりとした目でまるで何かのファッション雑誌から出てきたような美少女だった。
「そうですね。あれは悪意って感じではなかったですね」
竜二は平然と学校一の美少女と話している悟仙が気になったが、麻理がゆらりと立ち上がったため聞くことができなかった。
「あの、相沢さんでしたよね?」
「うん、そうだよ?あなたは井上麻理ちゃんね?」
麻理の様子は明らかにいつもと違っていた。夏休み明けに悟仙を問い詰めたときと似ているが、あの時より迫力があった。声もいつもより低い気がする。茜はそれに気付いていないのかにこにこと笑っている。
「由衣に、何かしたんですか?」
「いいや?何にもしてないわよ。ただ少し怖がられちゃっただけ。ねえ?悟仙くん」
茜が両手を後ろで組んで悟仙の顔を覗き込んで言う。
「でも、陸奥くんがさっき途中まではって言ってましたけど」
「井上、この人は由衣に何もしてない。ただ、由衣が少し怖がっただけだ」
「そう、ですか」
悟仙の言葉に納得したのか、麻理はそれ以上何も言わず席に着いた。
「あの、それで茜先輩はどうして陸奥と一緒にいるんですか?」
これまで黙っていた夏子が聞く。いきなり核心を突くのが夏子らしいと竜二は思った。
「それはね~」
「中庭で偶々会ってな、うちのクラスに来たいと言ってたから案内したんだ」
茜の間延びした声を遮って悟仙が言う。悟仙にしては珍しく少し慌てているように見える。
茜は不満そうに口をとがらせていたが、机に置かれてある文集を見て表情を輝かせた。
「あ!?これが噂の文集ね!麻理ちゃんの写真があるってやつ」
「はい、そうです」
やはり恥ずかしいのか、麻理がはにかんで答える。
「一つ頂戴!」
「三百円です」
茜が女子二人と話している隙に竜二は悟仙を引っ張って麻理達から距離をとった。
悟仙は引っ張られながらもじっと茜を見ていた。
「おい、お前あの相沢さんと知り合いだったのかよ?」
竜二が声を潜めて尋ねると、悟仙はようやく茜から視線を外してこちらを向いた。
「さっきも言っただろ。中庭で会ったんだよ。それまで名前も知らなかった」
悟仙はそれだけ言うと、また茜に目を向ける。
「じゃあ何であんなに親しげなんだ?」
「知らん」
悟仙はこちらを向かずに仏頂面で言った後「ただ……」と続ける。
「興味はある」
「なっ!?」
竜二は大いに驚いた。悟仙が他人に興味を持つのは竜二が知る限りこれが初めてだった。
竜二が驚いて固まっていると、茜が教室に入っていくのが見えた。茜が入るのと同時に教室から歓声が上がる。中の男子達が興奮しているのだろう。
悟仙は竜二を取り残してすたすたと麻理達の元に歩いていったので慌てて竜二も追いかける。
「俺が代わるからもういいぞ」
「そうね、お願いするわ。麻理、明日はあたし達忙しそうだし一緒に回らない?」
「うん、そうしよっか。では陸奥くん、お願いしますね」
女子二人が立ち上がって悟仙に席を譲る。
そして廊下を歩き出そうとするが、それを悟仙が呼び止めた。
「おい井上」
「はい?」
呼ばれた麻理が不思議そうに小首を傾げてふわりと黒髪を揺らす。
「俺を下の名前で呼んでくれないか?」
「へ?えっと……」
呑気な口調の悟仙に麻理が困惑する。いきなりこんな突拍子もないことを言われれば当然だろう。
「頼む、一回だけでいいんだ」
「は、はい、分かりました。悟仙くん……これでいいですか?」
「ふむ」
不安げな麻理の問いに悟仙は納得したように頷いただけだった。




