第四十話
「へ!?家に泊まるんですか!?」
「ああ、そういうことになった」
悟仙が歯切れ悪く言うと麻理はこれまでにないほど慌てて玄関を右に左にうろうろし始めた。悟仙は本当に右往左往する人間を見たのは初めてだった。それに、付け加えて何やらぶつぶつ言っている。
「どうしましょう。お客様用のお布団はあるけど……あっ部屋を掃除しないとそれに夕飯の準備もあるし」
「おい、別にそんなに気を遣わなくていいぞ。今の今までここに居たんだ。取り繕っても仕方がないだろ」
慌てて暴走しかけている麻理を落ち着かせるために悟仙が言うと、ようやく麻理の動きが止まった。そして一つ深呼吸をすると表情が落ち着いたものになった。こうやって直ぐに切り替えができるのは麻理が優秀だからなのか天然だからか分からないが、こういうところが厄介なのには変わりがない。
「それもそうですね。では、私は夕飯の準備をすることにします。陸奥くんは由衣の相手をしてもらっていても良いですか?」
「分かった。ついでに俺が泊まることも伝えとくよ」
すっかり平常運転の麻理に従い由衣の部屋に入ると由衣はベットに座っていた。顔には少しの不満が残っている。昼食の時には元気良く頷いていたが、やはり退屈なのだろう。
「よう、退屈そうだな」
軽く手を挙げて言うと、悟仙に気付いた由衣の表情が明るくなる。しかし、すぐにどこか寂しげなものになった。
「むっちゃん、ばいばいいいにきたの?」
時間からして悟仙が帰る頃だと思ったのだろう。由衣は姉と同様優秀なのかもしれない。律子は破天荒だが教育はちゃんとしているようだ。
「俺もそうしようと思ったんだけどな、泊まることになった」
床に胡座をかいて座り言うと、由衣が前のめりになって顔を近付けてきた。
「ほんと!?むっちゃんとまるの!?」
「本当だ」
「やったあ!」
短く答えると由衣がベットの上から悟仙に飛び込んできた。由衣の体は小さいが、悟仙は堪らず仰向けに倒れてしまう。しかし、由衣はそんなことを気にせずに悟仙の体の上できゃっきゃとはしゃいでいる。麻理が由衣が悟仙に懐いていると言っていたが間違ってはいないかもしれない。
「二人ともー、夕飯ですよー」
その後、はしゃぐ由衣と遊ぶというより体のあっちこっちによじ登られてアグレッシブに遊ばれていると麻理の間延びした声が聞こえた。
「あ、ごはんできたみたい!」
そう言って悟仙から体を離す由衣に見えないように悟仙は溜め息を吐く。どうも小さい子供のテンションにはついていけない。これで由衣が万全の体調だと思うとぞっとする。
先に出て行った由衣を追いかける形でリビングに入ると、見慣れた白い食べ物が並べられていた。
「今晩はシチューにしてみました」
「しちゅーすき!ありがとうおねえちゃん!」
淡いピンク色のエプロンを外している麻理に由衣が抱き付く。シチューは由衣の好物のようだ。風邪が治ってきてうやくし食欲が出てきたところに好物が出れば嬉しいのだろう。由衣は満面の笑みだった。
「では、手を洗って食べましょうか」
一頻り由衣の頭を撫でた後に言う麻理に従い、三人が席に着き食前の挨拶をしてシチューを一口食べる。なかなか美味い。隣を見ると由衣が口いっぱいに頬張っている。
「由衣、そんなに焦らなくても大丈夫よ。いっぱいあるんだから」
そんな由衣に対して麻理が困ったように笑って言う。それを見て学校以外で姉の葉子ではない人と食事をすることが随分久し振りであることに気付いた。両親が海外に行ってから家族で食事をとることは殆どなくなってしまっていた。
そんな事を考えていると向かいに座る麻理に声をかけられた。
「あの、美味しくないですか?」
物思いに耽っていたため、手が止まっていた悟仙に麻理が不安げに聞いてきた。
「いや、美味いよ」
別のことを考えていた事もあり、悟仙がつい正直に答えると麻理が目を丸くして、何も言わなくなった。
「なんだ、褒めたらまずかったか?」
悟仙にしては珍しく褒めたのに何も反応しない麻理に仏頂面で言うと、麻理はふるふると首を振りふわりとしたボブカットの髪を揺らした。
「いえ、少し驚いただけです。お口にあったようで良かったです」
「それならそうと早く言ってくれ」
柔らかく笑う麻理から目を逸らして言い、止まっていた手を動かして夕飯を食べ進める。
夕飯を食べ終わり、後片付けの手伝いを申し出たが麻理に断られたため同じく食べ終わった由衣と部屋に上がろうとすると背中に麻理から声を掛けられた。
「あの、陸奥くんはいつお風呂に入りますか?」
麻理の言葉で悟仙は自分が風呂に入っていない事に気付いた。いつもは夕飯の前に入っているのに気付かないとは周りに人がいるという慣れない生活にそこまで気が回っていなかったようだ。
「いつでもいい。入って欲しい時に呼んでくれ」
「では、準備できているので今から入ってもらっていいですか?」
「分かった。そうする」
二つ返事で了承すると風呂場に行き服を脱いで浴室に入る。そして手早く体を洗って湯船につかる。
「あの、着替えは洗っていいですよね?」
「台無しだ」
外から麻理の声が聞こえて、悟仙はため息混じりに呟いた。
悟仙は風呂場に入ってからなるべく何も考えないようにしていた。最近生じている年頃の男子特有の反応を麻理に対して頻繁にしてしまうというものでさえ持て余しているのに、麻理がいつも入っている風呂で何か考えているとそこから何を考え出すか悟仙にもわからない。それなのに麻理の声によって悟仙の無我の境地はあっさりと打ち破られてしまった。
「どうかしましたか?」
「いや、何でもない。着替えはまたそれを着るから置いといてくれ」
そんな事知る由もない麻理に言うが、麻理は了承しなかった。
「ですが、陸奥くんは服を洗濯機の中に入れてましたげど」
「あ、」
悟仙は何も考えていなかったため、いつものように洗濯機の中に服を入れてしまったのかもしれない。
「せっかくなので洗っておきますね。着替えは父のものを用意してますから」
麻理はそう言うと軽い足音をたててその場からいなくなった。麻理の気配が消えてようやく静かになったが悟仙の頭の中は騒がしくなっていた。集中が一回切れてしまったため、もう一度無我の境地に入るのは難しそうだ。悟仙は早々に湯船から出て体を拭いて浴室を出ると、洗濯機の隣にある棚の上に丁寧に畳まれたTシャツと短パンが置かれていた。それを着てみるが、サイズが大きかった。麻理の父親は大柄なようだ。
着替えの近くにあったバスタオルで髪を拭きながらリビングに行くと洗い物をしていた麻理が悟仙を上から下まで見た後に困ったように笑った。
「やっぱり少し大きかったですね」
「まあな、でも小さいよりはいい」
「そうですね」
悟仙はリビングに目を向けるが、由衣の姿が見当たらない。悟仙の視線に気付いた麻理が言う。
「由衣は上に上がりましたよ。もう寝ているかもしれません」
「もうか?風呂に入ってないだろ」
悟仙が少し驚いて言うと、麻理が前にもしたように呆れ顔でため息を吐いた。
「陸奥くんが本を読んでいる間に入りました。本当に気付いてなかったんですね」
どうやら思いの外悟仙は本の世界に深く入っていたらしい。
「そうだったのか、じゃあ俺は由衣が寝るまでは話し相手になってくる」
「由衣を任せてしまってすみません」
「気にするな」
そう言って悟仙はリビングを出て行った。




