第三十八話
「さあ、召し上がれ」
三人でダイニングテーブルにつくと、対面に座った麻理がにっこりと笑って言う。しかし、悟仙は直ぐに箸を動かさなかった。
「なあ、何でこのくそ暑い中で熱々のうどんなんだ?」
「うどんは消化に良いですから」
悟仙だってそれは分かっている。風邪を引いている由衣は消化の良い食べ物を食べた方が良いだろう。しかしどうして悟仙まで同じものを食べなくてはいかないのだろうか。
「別に俺達まで同じものじゃなくても良いだろう?」
「良くありません。由衣だって我慢してるんですから私達も我慢するべきです」
「そんな事………」
関係ないと言いたかったが、隣に座る少女が視界に入ったため自制する。この言葉を由衣の前で言って由衣が真似でもしたら大変だ。律子に何を言われるか分からない。
「むっちゃん、たべないの?おねえちゃんのおうどんおいしいよ?」
「うっ、そうだな。頂きます」
由衣に純粋な目を向けられては仕方がない。悟仙はこの年頃の子供に弱いのだ。弱いだけで子供好きというわけではないが。
悟仙も渋々箸を動かして麺を啜る。由衣が言っていたとおり結構美味い。これなら暑さを忘れて食べられるかもしれない。
目の前に何かを期待しているような目をしている麻理が座っているが、思ったことは言ってやらない。
「食べられない事もないな」
必要最低限の誉め言葉を言うと、それでも麻理は嬉しそうに笑った。美味しそうな表情がもしかして顔に出ていたのかもしれない。
「そうですか、良かったです。じゃあ全部食べて下さいね。井上家は一蓮托生なんです」
「大袈裟なことを、それに俺は井上家に入った覚えはない。俺を婿にでもするつもりか?」
得意気に言う麻理に悟仙が仏頂面で返すと麻理はたちまち顔を赤くした。これは多分うどんの熱さのせいではないだろう。
「そっそんな事を言っている訳ではありません!陸奥くんも今この家に居るんですからこの家のルールに従ってもらうと言っただけです!」
「はいはい」
「むぅー、ちゃんと聞いてないですね?」
適当に返す悟仙を麻理が軽く睨んできたが、麻理の顔で睨まれても少しも怖くない。どちらかというとふてくされているように見える。
その後も麻理からうどんを食べながらぶつぶつと小言を言われていると、それまで二人のやりとりを不思議そうに見ていた由衣が口を開いた。
「おねえちゃんがおこるのめずらしいね」
「そうなのか?」
由衣には怒っているように見えるらしい麻理の様子は悟仙にとっては別に珍しい事ではない。
「由衣はいい子ですからね」
ということは悟仙は悪い子であるという事になる。それなら麻理は悟仙に対して怒っていたのではなく叱っていたことになるが、それを言うとまた一悶着ありそうなのでやめておいた。今は熱々のうどんに集中したい。
その後、三人で黙々と箸を動かすとほぼ同時に食べ終わった。悟仙が一息ついていると、麻理が神妙な顔を由衣に向けた。
「由衣、明日になったらもう何をしてもいいから今日あと半日は部屋で静かにしておいてくれないかな?」
「うん、わかった!」
快く了承した由衣に麻理は驚いたようで目を丸くしてその目をそのまま悟仙に向けてきた。何をしたのか言いたげな視線に悟仙は肩を竦めるだけだった。悟仙が由衣に言ったのはメリット云々の難しい話だけだ。それで麻理の優しさに由衣が気付いたとしても、それは麻理によるものだろう。悟仙が何かしたわけではない。
その後由衣は食器を下げるとそのまま二階の自分の部屋に行ってしまった。
「そんなに急いで部屋に行ってもすることなんて無いのにな」
悟仙がぽつりと言うと麻理が反応した。
「由衣は今からお昼寝です。風邪には栄養と休養が一番ですから」
由衣は一刻も早く風邪を直したいのかもしれない。悟仙にとってもそれが一番助かる。
麻理がダイニングテーブルの片付けを始めたため悟仙は来たときに座ったソファに腰掛ける。
こうやって見てみると麻理は意外に良い姉なのかもしれない。家事はほぼ完璧だし面倒見も良い、それに頭も良いときた。まさに非の打ち所がない姉である。葉子は基本放任主義で圧倒的な戦闘力で悟仙を従わせていたため余計にそう思うのかもしれない。
「井上は意外に良い姉をしてるんだな」
ペンケースと数学の問題集とノートを手に持ち、ソファの前にある足の短いテーブルに座る麻理に思ったまま言うと、麻理は口に手を当てて上品に笑う。このような仕草を麻理がしても嫌みにならないから不思議だ。
「陸奥くんも、意外に面倒見が良いんですね」
「そうか?」
「はい、結構懐いているみたいですし」
悟仙は自分のことをそのように考えたことはない。麻理がそう見えたならそれは悟仙が子供に弱いからだ。しかしそう考えると、麻理の父親がどのような人物か知らないが今の所この家には悟仙が苦手とする人間しかいないことになる。
これからはなるべく井上家とは無関係でいようと心に決めながら、悟仙は来たときに足下に置いていたトートバックを探すが足下には置いてなかった。不思議に思いながらも辺りを見回していると問題集に取りかかろうとしている麻理と目があった。麻理はそれだけで事情を察したらしく、ちょんちょんと悟仙の隣を指差した。
「あっ」
そちらに目を向けるとそこには悟仙が探していたバックがあった。足下に置いてあったのを悟仙が二階にいる間に麻理が移動させたのだろう。悟仙が再び麻理に目を向けると麻理が笑顔で頷いた。
それを見て悟仙はこの家に来てから自分が意外に緊張していたことを自覚した。




