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第三十六話

「暑い」


悟仙は暴力的な太陽光を体に受けながらとぼとぼと歩いていた。耳には街路樹にとまっているであろう蝉の声が大音量で入ってくる。悟仙の足取りが重いのには理由がある。しかし、その事について文句は言えない。何故ならこうすることを選んだのは悟仙自身だからだ。それでも文句を言ってしまうのが人間である。


「俺には関係ない筈なのに」


目的地である周りに比べると間違いなく大きい一軒家を眺めながら悟仙はぽつりと呟いた。





「律子さん………」


あの晩、悟仙は電話の相手が誰だか分かり、電話に出たことに後悔した。自分の勘をもっと信じるべきだった。


「あの、何で僕の番号知ってるんですか?」


「まあ、そんな細かい事は気にしなくていいよ」


律子と違い悟仙はとても気になったが、律子は何度聞いても答えてくれそうにない。


「分かりました。それで、何の用ですか?」


「決まってるじゃない、恋バナよ。こ・い・ば・な」


艶っぽく言う律子を無視して悟仙は耳からスマホを離して電話を切ろうとした。


「ちょっと、切らないでよ~。ただのジョークだから」


今にも切ろうとしている悟仙に律子がそれを見透かしたように言う。声に焦りはなく、呑気な声だった。


「早く本題を話して下さい」


「ええ~、私みたいな素敵な女性と会話することって滅多にないわよ」


「なくていいですよ」


「あっ、麻理の方が良かった?残念ながら麻理は入浴中よ。写真撮って送ろうか?」


「勘弁して下さい」


悟仙がため息混じりに言うと、律子がケラケラと笑った。何だかとても楽しそうだ。


「あの、笑ってないで早く本題を」


「ああ、そうだったわね。悟仙くんは来週のお盆って暇かな?」


「どうでしょうね。暇にならなかったらいいんですけど」


親戚同士の繋がりを重んじる悟仙の親戚達はお盆も例に漏れず悟仙の祖母の家に集まることになっている。悟仙は勿論行きたくない。毎年何か理由を付けて行っていない。悟仙は夏休みという長期休暇は好きであるが、お盆があるため、それが近づいて来る度に憂鬱になっていた。お盆さえ無ければ夏休みはもっと好きだっただろう。


「何か用事ができればいいのね。それなら大丈夫よ」


「どういう意味ですか?」


たったあれだけの言葉で理解してしまう律子に悟仙はやはり麻理の母親だと感じた。麻理も悟仙の少ない言葉から悟仙の意図を感じ取る事がよくある。


「悟仙くんに任務よ。お盆に入ったら私の家に来なさい」


「突然ですね」


律子の突拍子もない言葉に悟仙が仏頂面で言うが、悟仙の顔が見えてない律子は気にせず続ける。律子の場合、見えていても気にしないかもしれないが。


「実は由衣が風邪引いちゃってね、由衣風邪はいつも長引くから来週までに治りそうもないのよ。でも私と夫は夫の実家に行かなきゃならないから由衣の看病は麻理に任せることになるわ。いつもは私と麻理の二人で看病してるから麻理の負担が大きくなるのよ」


「それで、律子さんの代わりに僕に由衣の看病をさせようってことですか?」


「そういうこと」


悟仙は少し考えた。悟仙は面倒なこととは無関係でありたい。では今回はどちらの方が面倒だろうか。できれば親戚連中とは顔を合わせたくない。しかし、あのおっとりとしたお嬢様と一緒にいると悟仙はいつもペースを乱されてしまう。

悟仙が二つを天秤に掛けていると律子が付け加えた。


「あ、言っておくけどこれは悟仙くんに関係あることよ」


「それは無いですよ」


今回のことに悟仙は何も関与していない。


「悟仙くん、この前怪我したんだって?」


律子のその言葉で悟仙は理解した。要は借りを返せと言っているのだろう。麻理は悟仙の怪我が治るまで悟仙の家に通っていた。その時の借りを今返さなくてはならないようだ。


「確かに、関係ないとは言えないですね」


「そうよ。理解が早くて助かるわ」


それは分かったが、悟仙は一つ気になったことがあった。


「あの、」


「何?」


「いえ」


しかし、どうも聞きにくい。すると律子の方から言ってきた。


「ああ、どうして私が悟仙くんの口癖を知ってるのか気になるのね?それはね、麻理って結構独り言多いからね、それでわかったのよ。この前なんか『ちょっと胸大きくなったかな~』とか言ってたわよ」


「そうですか」


それなら納得だ。今度麻理には独り言を慎むように言わなくてはならない。あと、後半は聞かなかった事にした。


「で、来てくれるの?」


「分かりました。行きますよ」





そんな事を回想しながらインターフォンを押した。すると「はい」という麻理の綺麗な声が聞こえた。


「俺だ」


「へ?陸奥くんですか?」


どうやら律子は麻理に何も言ってないようだ。律子が考えそうなことだ。

悟仙が今度律子に恨み言の一つでも言ってやろうかと思っていると玄関のドアが開いて白を基調とした私服姿の麻理が出てきた。相変わらずのふわふわとしたボブカットに垂れ目気味の大きな目、今はその目をぱちぱちと瞬かせている。


「陸奥くん、急に来てどうかしたんですか?」


「律子さんから何も聞いてないのか?」


「お母さんからですか?はい、何も聞いてませんけど、とにかく立ち話もあれなので上がって下さい」


「ああ」


麻理にリビングに通されてそこにあるソファに座り律子から数日前に電話があったことを話した。


「そうですか。でも、大丈夫ですよ。全然負担になんてなってませんし、陸奥くんの怪我の手当てをしたのも陸奥くんの怪我は私の責任だという思いからです」


「そうはいかない。もう姉貴に用ができたと言ってしまったからな。それに、裏切ったときの律子さんは面倒くさそうだ」


「そうかもしれません」


麻理が困ったように笑う。律子は怒ると結構怖いのかもしれない。


「まあ、迷惑なら帰るが」


「そんな、迷惑なんて思ってません!」


悟仙が立ち上がろうとすると、麻理が慌てて止める。前にもあった光景だ。


「ですから、その、さっきはああ言いましたけどよろしくお願いします」


そう言ってぺこりと頭を下げる。どうやら納得してくれたようだ。これで律子からの報復を受けることはないだろう。


「では、まずは由衣の部屋に行きましょうか」


頭を上げてにっこり笑って言う麻理に従い悟仙も立ち上がり階段までの廊下で自然に麻理を追い抜く。麻理は今日も膝が隠れるくらいのスカートを履いている。それに気付いた麻理が顔を赤くして俯く。


「あぅ~、すみません」


「別に構わん」


そう言って階段に足をかけるが、一つ思い出したので振り返って言う。


「そんな事より井上、独り言には気をつけた方がいい」


言って階段を上がっていると背中に麻理の声が届いた。


「お母さんですね?ちょっと陸奥くん、どの独り言を聞かされたんですか!?」


おそらく顔を真っ赤にしているであろう麻理に構わずに悟仙は階段を上った。

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