第二十八話
翌日、悟仙は約束の時間に三十分遅れて麻理の家の前に到着した。麻理は自分の家を普通だとつかい言っていたが、悟仙の前にある家は普通の一軒家よりは遥かに大きかった。麻理の普通の基準がおかしいのだろう。
そんな事を考えながらも悟仙がインターフォンを押すと直ぐにドアが開いて、麻理が出てきた。勉強熱心なクラスメイトも来ているようで、奥から騒がしい声が聞こえた。
「はい、陸奥くん!いらっしゃい!でも、遅刻ですよね?ちゃんと電話したのに」
出迎えた麻理は悟仙を見て最初は明るい表情になったが、すぐに膨れっ面になった。
「遅刻せずに行くとは一言も言ってない」
「またそんな屁理屈でうやむやにようとしてますね?」
「あのな、そう言うなら俺に家の住所くらい教えといてくれ」
「あ、」
悟仙が溜め息を吐きたいのをこらえて言うと麻理が両手を口に当てて驚いた。大きな黒目をぱちぱちとしきりに瞬かせている。
悟仙は昨日の朝、麻理に家の場所を知らされなかった。その事に今日家を出た後になって気付いた悟仙はこの前麻理と一緒に帰った時に別れた所まで行って、そこからは家の表札だけを頼りに探した。八月に入って間もない炎天下の中で。
「あと五分してお前の家が見つからなかったら帰っていたな。このくそ暑い中を歩くのは結構重労働だったぞ」
「うぅ、すみません」
本当に申し訳無さそうに頭を下げる麻理を見て、悟仙は心中でほくそ笑む。別に麻理を責めるつもりは毛頭無いが、これで今日はいつもより何かと有利になりそうだ。
悟仙が靴を脱いで上がって、騒がしい声の方に行こうとすると、麻理に腕を取られた。悟仙がちらりと目だけそちらに向けると麻理が困ったように笑っていた。
「あの、すみません。一度二階に上がってくれませんか?母が陸奥くんに会いたいそうなので」
「は?それまたなんで?」
「私が陸奥くんの話をしたら陸奥くんに興味が湧いたらしくて」
「おい、一体どんな話をしたんだ?」
悟仙が非難の目を麻理に向けると、麻理は慌てて首と手を同時に振った。
「たったいした話はしていません!陸奥くんが林間学校の時に私の家に来ていなかったことと、陸奥くんがその、少しものぐさな人だと言っただけです」
確かに、間違ったことは言っていないように思う。悟仙にも自分がものぐさである自覚はある。決して働き者ではないだろう。
「そうか。まあ、会うだけなら別に何てこともない」
悟仙がそう了承したが、麻理に二階まで案内する気配はない。悟仙が訝しんでいると、麻理が俯いて片手を階段の上に向けた。
「あの、陸奥くんが先に上がって下さい。私は後ろからつきていきますから」
「別にいいが、何か理由があるのか?」
悟仙が何となく気になって言うと、麻理が顔を真っ赤にして頷いた。
「その、私今スカートを履いているので、あの、み、見えちゃいます」
「ああ、そういう事か」
悟仙は頬を掻いて納得しながらも、自分の顔が引きつっている事がわかった。こういう反応をしてしまうということは、悟仙も思春期の男性らしく女体に敏感に反応してしまったのかもしれない。
そんな事を考えると何だか恥ずかしくなってきて、それを誤魔化すようにため息を吐くと悟仙は結構段差が大きい階段を上った。
二階に上がり、麻理が上がってくるのを待っていると麻理がそのまま追い抜き先導し、『まりのへや』と書かれたプレートがぶら下がったドアの前で立ち止まった。
「ここ、井上の部屋か?」
「はい、私の部屋です。では入りますね」
麻理がノックをして部屋の中に入り、悟仙も続けて入る。麻理の部屋は白と青を基調にした清潔感漂う部屋だった。
「あら、いらっしゃーい。陸奥悟仙くん」
部屋を見回していると不意に声をかけられてそちらを向くとそこには先日デパートで会った女性、律子が床に座っていた。目があった両者は暫く唖然していたが、ほぼ同時に口を開いた。
「あ、あなたは」
「あー!?君は熟女好きのあの少年じゃない!?」
声を出したのはほぼ同時だったが、律子の方が声が大きかったため悟仙の声はかき消されてしまった。
後ろから「熟女好き?陸奥くんが?」という声が聞こえたが、それどころではなかった。
「律子さんが、井上の母親だったんですか?」
「そうよ。君があの悟仙くんだっなんてね。良かったわ。これで難しい二択をせずに澄んだわ」
律子の言ってる事が分からずに悟仙が首を傾げていると、下っ腹に強い衝撃が走った。驚きながらもそちらを見るとこれまた見知った女の子がこちらを見上げていた。
「むっちゃんだ!ひさしぶりだね!」
「由衣か。久し振りだな。あの時は助かったよ」
その呼び方をするのは一人しかいないので、この女の子が先日会った由衣であることがわかり、言うと由衣は満面の笑顔になった。
後ろから「陸奥くんがむっちゃん?じゃあ陸奥くんってロリコン?」という麻理の声が聞こえたが、今回も無視をした。
「じゃあ、由衣は井上の妹ってことでいいんだな」
「うん!」
悟仙の確認を込めた問いに由衣が元気良く返事をするのを聞いて悟仙は頭を抱えたくなった。由衣は別に問題はない。ただ無邪気なだけのため、いくらでも対応できる。しかし、麻理と律子の親子はそうはいかない。麻理一人にも手を焼いているのに、そこに律子が加わったらもうどうしようもない。
「まあ、こんな偶然もあるんですね。それじゃ」
「ちょっと待ちなさい」
ここは早々に撤退するべだと判断して悟仙が部屋から出ていこうとするが、律子に呼び止められた。
「何ですか?」
「少し話したいことがあってね。ちょっとこっちに来なさい」
悟仙が訝しみながらも律子に近付くと律子が耳元で囁いた。
「あの宮田って子、気をつけた方がいいわ」
流石と言うべきか、律子は一目見ただけで宮田がどういった人間が分かったようだ。
悟仙は「分かってます」とだけ言って部屋を出て、階段を下りた。それから皆がいる所に歩き出そうとしたが、振り返って先ほどからこちらをちらちらと窺っている麻理に声を掛けた。
「言っておくが、俺は今お前が考えているような趣味は一切ないからな」
言うと、麻理が少し俯き気味だった顔を上げた。
「そうなんですか?」
「前にも言っただろ。俺は異性に対して好意を抱いたことは今まで一度も無い」
「それは良かった、んですかね?」
「俺に聞くな」
ふわっとした黒髪を揺らして首を傾げる麻理にそう言って悟仙は皆がいるリビングと思われる部屋に入ると、男子が三人、女子が二人の計五人の男女が足の短いテーブルで談笑しながら夏休みの宿題をしていた。そして案の定男子三人のうち一人は宮田だった。
「よう悟仙、遅かったな」
にこやかに片手を上げて言う宮田の目を見て先程律子に忠告されたことを思い出す。
「ああ、そういうこと」
内心辟易としながら言った悟仙の呟きは、リビングの騒がしさに遮られ、誰の耳にも届くことはなかった。




