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第百三話

一球目を見送った悟仙が緩く跳ね返ってきたボールを何やらしげしげと見つめている。まさかボールに仕掛けがあると思っている訳ではないだろう。何かを一点に見ること自体に意味があるような気がした。


そんな悟仙を横目に詩織は隣に座る少女に目を向けた。その少女の名を詩織は文化祭で非公式に行われていた美少女ランキングで知った。一位に輝いた同学年の女子生徒が校内でもよく目立つ派手な容姿をしているのに対して、二位のこの少女がその女子生徒とは異なるタイプだと感じたことを覚えている。


ふんわりとしたボブカットの黒髪は文化祭の時より少し伸びただろうか。髪と同じ色をした大きな目は少し垂れ気味で優しい印象を与える。小作りな鼻梁は筋が通っており、寒さで少し赤くなっているのが可愛らしい。リップクリームの塗られた唇は瑞々しく、それは見る者に女の色気を感じさせそうなのに何故か欠片もそのような感じはない。


清楚で派手さはないが、穏やかで優しく暖かい春の木漏れ日のような雰囲気を持った少女、それが井上麻理から受けた詩織の印象だった。同級生の悟仙や優弥に対して敬語で話しているのは少し驚いたが、麻理に対する第一印象は今も変わっていない。


「どっちが勝つと思う?」


麻理はこの勝負についてどう思っているのだろうか。そもそも、何故こんな寒空の中観に来たのだろうか。確かに優弥は麻理の所属する文芸部に入部していた。しかし、それはたったの三日間で、しかも仮入部だ。そこまで思い入れはないはずなのに。詩織が麻理に問い掛けたのは、そんな疑問からだった。


麻理が膝掛けの上から悟仙のコートを重ねた足を少しずらし、こちらを真正面から見た。声を掛けられたことに驚いている様子はない。麻理はぱちぱちとその大きな瞳を瞬かせてから口を開いた。


「陸奥くんが勝つのは厳しいと思います。陸奥くん自身がそう言ってましたから」


「じゃあ、優弥が野球部に戻るのは望み薄かな」


「それは分かりません。もし陸奥くんが負けて三島くんが野球部に戻らなかったら、陸奥くんが今していることはあまり意味のないことになってしまいます」


麻理はそこで一旦言葉を切り、にっこりと笑った。


「陸奥くんって、意味のないことはしないんです」


「ものぐさそうだもんね」


「はい、困ったものです」


そう言って麻理は少し口を尖らせるが、目元は笑っている。それを見て詩織は気付いた。麻理は優弥ではなく悟仙を観に来ている。そして、近くで見ても麻理は可愛い。笑うと特に。


「でも、勝負に勝てそうにないのに優弥を野球部に戻すなんて、どうするんだろうね」


麻理が口に手を当て俯く。考えを巡らせているのだろう。詩織も考え始めようとしたが、それは無理だった。口元がどうしても緩んでしまう。元来、詩織は可愛いものには目がない。自室はぬいぐるみだらけだ。そんな詩織が麻理を目の前にして、思考に集中などできるはずもない。今にも抱き付きそうになる衝動を抑えるので精一杯だった。


「ずっと考えているのですが、やっぱり分かりません」


「そっかそっか~」


「あ、三島くんが投げます」


詩織が完全にニヤニヤしてしまっているのを余所に勝負は二球目に入っていた。優弥が投じた二球目は初球と同じ直球、同じではなかったのは悟仙が見送るのでなく振りにいったことだ。




ガキッという鈍い音と共に三塁側のファールゾーンに球が力無く飛んでいった。麻理と詩織からは離れた場所に飛んだのだが、何故か詩織は大げさな動きで麻理の方に逃げた。詩織は麻理を守るようなこと言っていたが、それは飛んできたファールボールを捕るのではなく身を挺して守るということだったのだろうか。


そんなことを考えていた悟仙だが、すぐに襲ってきた電気が流れたような手の痺れでそれどころではなくなった。振り遅れて球をバットの芯を外れて捉えてしまったせいだろう。ソフトボールではバットの根っこで打っても痺れることはなかった。せいぜい押し込まれるような感覚があるだけだ。硬球と軟球ではもはや違う競技なのではと悟仙は思った。


「おー当てた当てた。陸奥はやっぱりセンスあるな」


痺れがなかなかとれず顔をしかめる悟仙に優弥が気楽な声で言った。


「言っておくが、狙ったファールではないぞ」


「ははっ、流石に分かるよ。球技大会の時はそんなド根っこで打ってなかったもんな」


「参考までに、今の球速はどれぐらいなんだ?」


優弥が肩を竦める。


「さあ? 数字どうこうよりも投手によって速く感じたり反対に遅く感じたりするからな」


「お前がどっちなのかは聞かないでおく」


「賢明だな」


今の会話の間に大分痺れは取れた。優弥はそれを待っていたかのようなタイミングで振りかぶると三球目を投じた。結果はまたファール。先程より始動を早くしたにもかかわらずまだ振り遅れている。


「今のも、狙ってないよな?」


「分かっているなら聞くな」


悟仙は焦りを感じていた。一球目の時から感じていたことだが、今はそれが遙かに大きくなっている。悟仙が予想していた運びとは違っていた。ちらりと詩織に目を向ける。彼女の存在がネックになっているのかもしれない。


四球目もファール。バットの芯で捉えられたが、それでもまだ遅い。優弥が空籠から球を手に取る。次は五球目、優弥はここで勝負が着くと予想していた。


「いくぜ」


「ああ」


悟仙が構えても、優弥は左打席に立つ悟仙にじっと視線を向け、なかなか投げなかった。構えると直ぐに投げていたこれまでとは少し雰囲気が違う。

少しの間そうしていた優弥だが、一つ息を吐くとゆっくりと振りかぶった。そして、運命の五球目を投じる。


コースはアウトコース、それはこれまでと同じだ。しかし、同じなのはそれだけで高さはアウトローではなくアウトハイ、加えて球速も遅い。当然振り遅れないように早く振り出していた悟仙のバットはこのままだと先に回ってしまう。だが、一度動き出したバットは止まらない。


「……!」


コースと球速だけでなく球種も違っていた。アウトコース高めから球は曲がり真ん中に入ってきた。ドンピシャのタイミングで悟仙のスイング軌道が球を捉える。硬球がバットの芯に当たる感覚も音もとても心地良かった。それなのに、悟仙の胸には言いようのない苦みが広がっていた。

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