第百二話
パンッ、パンッと小気味の良い音がグラウンドに響き渡る。時刻は昼を少し過ぎ、あと十分ほどで二時を迎える。雲が少なく日が照っていて風も吹かない。昨日より遙かに暖かかった。
「……寒い」
だが寒い。季節は冬なのだから当たり前と言えば当たり前で、「寒い」「寒い」と何度呟いても突然気温が上がってくれる筈もない。しかし、それでもそう呟いてしまうのが悲しい人間の性だ。
「上着、まだ着ていてもいいんじゃないですか?」
悟仙の傍に立つ麻理が言った。今悟仙は昨日のような厚着をしていない。下に薄いシャツを二枚着込んではいるものの、その上には上下のジャージだけでコートは脱いで麻理に渡してある。
「いや、コートを脱いで急に体が冷えては思うように動けない。それよりも動いて体を温めた方が良い」
「でも陸奥くんさっきから震えているだけですよ?」
「……だな」
悟仙のコートを手に持って言う麻理に悟仙は短く答える。体を動かさなければならないのは分かっている。しかし、それを意志が拒絶するのだ。このままじっとしていたい、できるなら直ぐ家に帰って炬燵に入りたいと悟仙の鋼鉄の意志がそこに留まらせるのだ。
パンッ、パンッと再び皮の鳴る音が耳に届く。それは、悟仙と麻理から少し離れた場所で先程からキャッチボールをしている二人のグラブから聞こえる音であった。「この寒さで投球するには時間をかけてアップする必要がある」とは優弥の言だ。
悟仙がグラウンドに着いた時にはもうストレッチやランニングをしていた。肘に不安があることも要因にあるのだろうが、随分な気合いの入れようである。とても素人を相手にするとは思えない。
「そろそろ終わるから-!」
キャッチボールをしている二人の内の一人が言った。野球部マネージャー、西口詩織である。詩織はなんとエースである優弥の球を平然と捕っている。マネージャーだからできるのかと聞いたところ、そうではなく詩織は中学まで女子でありながら野球部に入っていたらしい。レギュラーを張っていたとか。
流石にこの石のように固まった体で勝負するわけにはいかない。悟仙は鋼鉄の意志を一旦押しやり渋々バックネットに立て掛けてあるバットを握った。グリップにはゴム製の滑り止めが巻かれているのに思わず手を引いてしまうほど冷たい。そこで、悟仙はランニングを終えて一度戻ってきた優弥にバッティンググローブを借りていたのを思い出し、ジャージのポケットから取り出して装着した。
その状態でバットを握るとひんやりとはしているが、握れないほどではなかった。グイッと持ち上げて重さを確認する。重い。今まで悟仙が持ったことのあるどのバットより重かった。といっても悟仙が持ったことがあるのは体育の時に使用するバットだけなのだが。
テイクバックをとって何度か連続で振る。次に足を少し上げ今度は下半身も使って振った。
「……どうですか?」
麻理が期待とも不安とも取れない微妙な表情で聞いてくる。
「分からんとしか言えない」
今から行うのは投手と打者の勝負、優弥がどんな球を投げるのか把握できていない以上、悟仙は何も分からないのだ。
「そうですよね」
さして意味のない質問をしてしまったと思ったのか、麻理は少し俯いた。
「それより……」
悟仙は麻理の服装を上から下まで見た。このお嬢様は真面目なのか天然なのか、この凍えそうな寒さの中制服を着て来ている。当然下はスカートだ。黒のタイツを履いているが、それでも見ているだけで寒々しい。上半身は上着を着てマフラーを巻きモコモコとしていて暖かそうなのに、下半身とのギャップが凄い。
「俺のコート、着るなり膝に掛けるなりしていいから風邪は引くなよ」
これで体調を崩して欠席でもされたらかなわない。真相を知れば、まず夏子あたりが飛び掛かってくるだろう。
「その心配はないよー。座布団と膝掛け持ってきてるから」
いつの間にか隣に立っていた詩織が言った。流石はマネージャー、抜かりはない。
「悪い悪い。結構待たせちまったな」
優弥が歯を見せて笑った。額には汗が浮かんでいる。この寒さの中でもあれだけ動けば汗をかくらしい。
「いや、問題ない。そんなことより早く終わらせてしまおう」
優弥がニヤリと笑った。
「風邪引くかもしれないしな」
「ああ、汗が冷えると不味いからな」
「あははは、口の勝負では優弥の負けね」
詩織が快活に言った。隣の麻理は意味がよく分かっていないようで、首を傾げている。
ちぇっと口を尖らせて優弥がマウンドに向かう。よく整備された地面に踏み入るのは悟仙は何となく気後れしてしまうのだが、優弥にその様子はない。きっと慣れているのだろう。
「何球ファール打ってもいいからねー? 野球部マネージャーの名にかけて麻理ちゃんは私が守るから」
麻理と並んで三塁側のスタンドに座る詩織がグラブを掲げるように見せる。そうやって隣り合って座っていると、正直どちらが先輩なのか分からない。
「おたくのエースはそんなつもりないようですけど?」
悟仙がマウンドに立つ優弥の足元を指差して言った。そこには小さな籠があり、中には硬式球が五球入っていた。五球以内で終わると思われているなら、何球もファールを打つのは無理だ。まあ、三球ではなかっただけ良いと思っておこう。
ポジティブなのかよく分からないことを考えながら打席に入り、優弥を見据える。マウンドに立つ優弥はおよそ十八メートル離れているとは思えないほど大きく見えた。
「そういえば、陸奥って左だったな」
優弥の立ち姿に圧倒されていた悟仙はややあって答える。
「左の方が一塁ベースに一歩近いからな。別に大した意味はない」
「いやいや、結構大事だよそれ? この勝負に守備はいないから、ヒットかどうかは計算しなくちゃならないし」
「バットに当たれば、な」
悟仙が構えてから、ゆったりとした動作で優弥が振りかぶった。足を大きく上げ踏み出す。体重移動が始まり前に突き出した左手をグラブを巻き込むようにして引き胸を張る。そして鞭のようにしなった右腕を振ると、真っ直ぐに球が向かってきた。
ガシャンと音を立ててバックネットに突き刺さるような速球がぶつかる。一瞬留まっていた球は勢いをなくしころころと悟仙の足元に転がってきた。それを手に取り、悟仙は心中で呟く。
これはちと厳しい。