第百一話
長らくお待たせしてしまい申し訳ありません。
第百一話です。お楽しみ頂ければ嬉しいです。
「それでその勝負受けるって言ったんですか!?」
スマホの電話口の向こうから麻理が綺麗なソプラノの声で言った。時刻は夜の七時過ぎ、今日あった出来事を悟仙が伝えて直ぐの反応がこれであった。
「ああ、言った」
「そんな淡々と……あの、陸奥くん」
その先を言いにくそうにしているのは麻理の顔を見ていなくても悟仙には分かった。きっとあの大きな瞳を気まずげに伏せているだろう。麻理が言いたいことは悟仙も分かっている。
「勝てるわけないと言いたいんだろ?」
「そんな、勝てるわけないとまでは思ってません」
「だが、勝算はかなり薄いと思ってる」
「……はい、相手は三島くん。野球部のエースですし」
麻理が消え入りそうな声で言った。話しているとき表情がよく動く麻理は、電話越しの声のトーンもよく変わる。
「ただのエースでもないがな」
万年一、二回戦負けだった進学校に突如現れた新星、スーパールーキーである。対する悟仙はただ球技大会で悪目立ちしただけの素人、勝負にならないと考えるのが普通だろう。
「勝負は一打席なんですよね?」
「そう言ってたな」
公園での会話を思い出しながら悟仙は言った。
「これは昔父が言っていたことなんですけど、プロの方でも三打席に一度ヒットを打つのは至難であるらしいです」
「らしいな」
「他人事みたいに言わないで下さいっ」
「そう言うな。井上にしてみればそれこそ他人事だろ?」
電話口の向こうで麻理が大きく息を吸ったのが分かった。
「他人事ではありません。他人事では、ないんです」
そう繰り返し言った麻理の声が余りにも悲しそうなものだったため、悟仙は面食らった。この御嬢様はどうしてここまで他人に感情移入できるのだろうか。誰に対してもそうなのか? それとも……
そこまで考えたところで悟仙は思考を打ち消した。これ以上はどつぼにはまるだけだと思ったのだ。
「まあ、もし負けても見返りは少ないしな」
「見返りがあるんですか?」
話を戻す悟仙の言葉に違和感を持ったのか、麻理が不思議そうに言った。
「ああ、向こうにメリットがないからな。フェアにするために俺から提案したんだ」
その時、優弥は随分と渋っていた。勝負してくれるだけで十分メリットがあると言って中々勝ったときの見返りを言わなかった。
しかし、フェアな勝負にしないと悟仙が引き受けないと思ったのか最終的には条件を出してきた。それは、悟仙にとって少し意外で、そして何となく予想していたものでもあった。
「それで、三島くんは何と提案したのですか?」
自分で言うのが気恥ずかしくて悟仙は少し口ごもりながら言った。
「それはあれだ、俺がいつも『俺には関係ない』と言っているだろ? 何故いつもそう言うのか教えろと言われた」
「そ、それは私が!」
麻理の声は聞いていて心地の良い部類に入るものだが、大音量となれば話は別だ。悟仙は思わず顔をしかめた。
「そんなに大きな声を出すな。そんなことしなくても聞こえている」
「す、すみません」
麻理が恥じ入るように言った。きっと今大いにその白い頬を赤くしていることだろう。
「それで、私がどうした?」
「いえ、別に大したことではありません。気にしないでください」
大したことあるだろうと悟仙は心中で思ったが、声には出さなかった。麻理が気にするなと言うなら仕方ない。言いたくないことを言わせるのは聞き手側のエゴだ。余り褒められたことではない。
「つまりだ。こちらには大した不利益はなく、可能性は低いが勝てば手っ取り早く三島を野球部に戻すことができる。勝負を受ける価値はあると踏んだ。だから勝負を受けた」
麻理には言わないが、悟仙には勝算があった。というより、優弥が勝負を持ちかけてきた時点で悟仙の勝利は確定したと言ってもいい。勿論、一打席勝負の話ではない。一打席勝負は手段であって悟仙の目的は他にある。
「あの、陸奥くん」
「何だ?」
自分から話していながら、麻理はしばらくの間黙っていた。その沈黙の意味を計りかね悟仙が首をひねっていると電話口から突然麻理の声が聞こえた。
「聞いていてもいいですか? 陸奥くんのその、理由を」
「そんなことか。別に構わない」
「いいんですか?」
何をそんなに驚いているのか悟仙は分からない。先程少ない見返りだと言ったばかりだというのに、麻理の口振りはまるで世界の秘密でも聞こうとしているようであった。
「俺には関係ない」と何故言うのか。悟仙にとってそれは簡単な問いだった。それは……
「大したことじゃない。理由は『俺には関係ないから』だ」
「へ?」
少しの沈黙の後、麻理が素っ頓狂な声を出した。驚いているというより、拍子抜けしたといった声だった。それも無理ないだろう。悟仙としては少し狙っている部分もあるのだから。
小学生の時からこの口癖を多用していた悟仙は、当然そう言う理由を問われることは多々あった。別に優弥が初めてというわけではないのだ。そう言ってくるのはたいてい、国語が苦手な連中ばかりであった。
「何故言うのか」ではニュアンスが違う。問うてきた殆どの者は本当はこう聞きたかったのだろう。「何故言うようになったのか」と。ほんの少しの違いだが、悟仙にとっては天と地ほど差がある。
「まあ、そういうことだ。夜遅くに悪かったな。夕飯は大丈夫だったか?」
しかし、少々天然な部分もあるが麻理は優秀な人間だ。長々と話していてはこの差に気付くかもしれない。悟仙は早々に話を切り上げることにした。
「あ、はい。まだ時間ではないので、問題ありません」
「そうか、じゃあな」
「あの、陸奥くん」
「どうした?」
ギクリとしながら悟仙聞き返した。手にかいた汗をズボンで拭う。言うべきではなかったかもしれないという後悔が襲ってくるがもう遅い。後悔先に立たずとは本当によく言ったものだ。
しかし、麻理が言ったことは悟仙が危惧していたこととは全く関係のないことであった。
「勝負はいつですか?」
「ああ、えっと学校のグラウンドで明日の昼二時からだ。野球部は午前中で終わるようだし、どうせやるなら一日で一番暖かい時間がいいと思ってな」
麻理がクスリと笑う。
「陸奥くんらしいですね」
気が動転したせいで余計なことまで話してしまった。悟仙は先程とは違う汗を手の平にかいた。
「観に行ってもいいですか?」
「大して面白くないと思うが、まあ好きにすればいい」
「はい、好きにします」
また沈黙が降りる。どうやら、麻理が悟仙の秘密を聞いてくることはなさそうだ。流石に優秀な麻理でもそんなに早く気付くことは難しいのかもしれない。
安心した悟仙は先程までの焦りはどこかにいってしまい、今度はどうやって話を終わらせればいいのか分からなくなってしまう。この電話をかけたのは悟仙だ。こちらからかけておきながら自発的に話を切り上げるのは失礼に当たらないだろうか。
麻理の方は終わらせる気があるのかないのか、黙っているだけで何も言おうとしない。ただただ、穏やかな沈黙が流れるだけであった。
しばらくの間続いたぬるま湯のような沈黙を破ったのは麻理であった。
「今日は話してくれてありがとうございました。嬉しかったです」
「一応話しておこうと思っただけだ。中途半端に知っているのは気持ち悪いだろうと思ってな」
「初めて電話してくれたのでびっくりしました」
確かに、悟はこれまで麻理に電話をかけたことはなかったかもしれない。
「今度からはメールにする」
「いえ、できるだけ電話にしてください。そちらの方が陸奥くんも楽でしょうし」
「考えておく」
「はい、では……おやすみなさい」
「まだ寝ない。俺は高校生だぞ」
「うふふ、そうですね。では、また明日ですね」
「ああ、また明日」
数秒の後、麻理が電話を切る。スマホの画面が通話の状態ではなくなるのを確認してから、悟仙はスマホを座っているベッドに置き、大きく息を吐いた。手の平に目を向けると、まだ少し汗ばんでいる。電話の方が手っ取り早い。それはかつて悟仙がいったことだ。しかし……
「電話の方が疲れるな」
天井を見上げ、悟仙はポツリと呟いた。