ジェネレイション
〈聖母達の夢〉
マサル
恒星間宇宙船は、加速を続けていた。
このままでは、太陽系を飛び出してしまうことに、間違いはなかった。
「くそッ、ここまで来て!」
男は、目の前の制御盤に拳を叩き付けた。
起こり得ないはずの、事故だった。正確には、可能性としては考えられたが、その確率は数十億分の一以下という事態だった。
彼らの陽子レーザー宇宙船は、地球人類が最初に送り出した恒星間探査船の一つだった。恒星間の旅には、光の速度に限りなく近付くことが要求される。この陽子レーザー宇宙船とは、そんな地球人類の夢を、最初に実現可能な形にしたものだった。
陽子レーザー宇宙船は、強大なレーザーを発生させる陽子加速装置と、巨大な帆のような推進装置からできていた。その姿を遠く離れた外から見ると、宇宙に浮かぶ巨大なパラソルにも似ていた。
円形に開いた大きな傘の部分に、パラソルの柄の部分に当たる加速装置から、強力な陽子力レーザーが照射される。それがその傘の部分に当たると、傘はレーザーを反射して前方への推進力に変える。陽子レーザー宇宙船は、別名コスモ・セイラー、宇宙の帆船とも呼ばれていた。
このコスモ・セイラーは、当時の人類が手にした、最も高度な技術力の結晶だった。理論的には、限りなく光速に近付くことさえ、可能だった。ただ、そのためには、気の遠くなるような加速のための、空間的な距離が必要となった。しかも、この帆船の原理では、減速のためには加速したのほぼ同じだけの、減速のための距離が必要だった。
結果として、最も近い恒星系とされているアルファ・ケンタウリでさえ、片道に四十年という時間が必要だった。さらに遠く離れた恒星系へと旅立ったならば、往復には百数十年という歳月が要求された。
このことは、ワープ航法の名で知られるような、光速を超える技術が将来確立されたなら、旅そのものが無意味になる可能性すら含んでいた。場合によっては、後から出発したその宇宙船が、この帆船を途中で追い越すという事態も、考えられないわけではなかったのだ。
それでも人類は、現在の技術力で人間を他の恒星系へ旅立たせるという誘惑に、打ち勝つことはできなかった。一つには、地球連邦の成立で有史以来、連綿と続いていた人類同士の諍いに、ついに終止符が打たれ。また、近代社会以降、常に人類と地球自身を蝕み続けていた環境問題や、疫病の問題からも、ほぼ完全に脱したことが、大いに人類自身を勇気付けていたことも、確かだった。
人類は、そのあふれんばかりの情熱の矛先を、太陽系外へ向けることに、何のためらいも感じなかった。人類は、自らがその時点で手にした恒星間航行の可能性を、実現することに労力を惜しまなかった。例えその旅が、旅に出る人間個人にとってはきわめて貴重な、数十年という年月を要求するとしても。
人類最初の恒星間の旅人を希望するものは、関係機関の予想を遥かに上回る規模で殺到した。厳格で公正、そしてこの時代の人類にとって、最も大切な価値観となった慈愛に満ちた審査によって、最終的な候補者達が絞り込まれて行った。
最も近いアルファ・ケンタウリ星系でも、往復八十年の旅が引き起こすであろう、様々な問題。その中でも、最も大きくかつ重要なことは、その旅のほとんどを冷凍睡眠で過ごす乗組員達と、地球で待つ人々との時間差の問題だった。
地球上での八十年は、誰もが百年以上を生きる時代とはいえ、人生のほとんど大部分を占める。自分の家族や友人達が、それだけの時間を過ごしている間に、乗組員達はわずか数年しか過ごしていない。
極端な話、夫が二十歳で旅立ち、妻が地球でその帰りを待つとすると、一番早い場合で妻が八十歳になった時に、二十代後半の夫が帰って来ることになる。最も遠い旅の場合だと、出発した時から百五十年以上の歳月が、過ぎていることになる。もちろん、とうてい家族や知人を含めた、顔見知りが生き残っているとは、考えられなかった。
この結果、厳正な審査で選ばれた乗組員の家族に、冷凍睡眠によってその帰還を待つという権利が与えられた。当然と言えば当然なのかも知れないが、選ばれた乗組員には家族や血筋の縁が薄い者が多かった。そうでない者の中には、せっかく選ばれながら、家族の説得によって旅行を断念した者も少なくなかった。
冷凍睡眠で待っていることを希望したのは、乗組員の配偶者や恋人がほとんどだった。偶然か、必然か、その人達もまた乗組員以外には、縁故の少ない人達だった。そのためからか、地上で帰りを待つ人々も含めて、この恒星間旅行は孤独者達の旅行だとささやかれもした。
未知の恒星系ガリア737の探査を終えたコスモ・セイラー3号は、ほぼ百十年ぶりに故郷の恒星系へと帰って来た。ガリア737では、人類の悲願であった他の知的な高等生物との接触にすら、彼らは成功していた。
相手が、珪素系の鉱物生命であったために、意志の疎通は困難を極め、あわや交戦状態という最悪の事態にまでなりかけた。しかし、乗組員達の必死の努力は、ギリギリのところで意志の伝達を可能とした。
生態系が余りに異なるために、共通の理解ということはほとんど無理だったが、成果は大きかった。この宇宙に自分達以外の、自分達とは異なる生命体系を持つ知的な生物の存在を確認したのだ。乗組員達は、誰もが誇りと自信にあふれて、帰還の途に付いていた。
警報は、太陽系の手前で最後の減速に入ったところで、鳴り響いた。船のコンピューターは自動的に最も的確な人材を選び出し、その冷凍睡眠を解除した。
起こされたのは、マサルという名の若い男性だった。彼は、宇宙船のパイロットであると同時に、航法エンジニアの資格も持っていた。確かに、この状況下に最もふさわしい人物だった。
だが、彼が宇宙船の艦橋に上がった時、状況は絶望的だった。目の前の立体映像と前方探知のレーダー画面は、無数の小惑星が眼前に広がっていることを、無表情に示していた。
コスモ・セイラーというものは、急な加速や減速ができるようにはなっていなかった。もちろん、非常用の補助の推進装置があって、その噴射加速で方向や速度の調節は可能だった。
しかし、それでもその効果が現われるまでには、ある程度の時間が必要だった。その時間が経過する間に、船は光速の何十分の一という速度で宇宙空間を突き進んでいた。
マサルは、方向転換も急制動も間に合わないことを、瞬間的に理解した。宇宙船の針路を、軌道から離れた小惑星帯や宇宙塵の群れが、突然のように横切る。理論的には容易に予想されたが、それが現実に回避不可能な距離で発生するという確率は、余りに小さかった。
その確率的には有り得ないことが、現実に、目の前で起こっていた。それでも、マサルは取れる限り、最善の措置を取った。
コンピューターが表示する小惑星帯のデーターから、その密度の最も薄いところを瞬時に読み取ると、補助推進装置を全開にした。帆の直径が百キロメートル、全長が五十キロメートルを超える巨大な宇宙パラソルは、毎秒九千キロメートルを超える速度で、おもむろにその方向を変え始めた。しかし、その速度と大きさから見ると、その動きは余りに遅く、悠長に感じられた。
既に小惑星帯の引力圏に触れて、艦橋の計器はあらゆる警報と警告色が乱舞していた。マサルは自分の体を操縦席に固定すると、歯を喰い縛って、前方を映し出す立体映像を見つめた。
まず、直径わずか数センチから数ミリの細かい惑星の破片が、広がる巨大な傘の表面に触れた。衝突の瞬間、破片は熱核反応にも似た変化を起こすと、一瞬にして蒸発した。船の推進力が、数千万度の高温と同じ反応を引き起こしたのだ。
だが、破片の衝突は、それで終わりではなかった。むしろ、それからが本番だった。この場合、傘のように広がる巨大な円形の帆は、障害物との衝突を招き寄せているのも同じだった。
そんな厄介モノ、閉じればいい。誰もがそう思うだろうが、それはできない相談だった。もちろん、閉じる方法はある。しかし、直径百キロメートルを超える傘を閉じるためには、ずいぶんと時間がかかるものだった。それは、この小惑星帯を通過するよりも、遥かに長い時間だったのだ。
マサルは、耐えるしかなかった。彼は祈った。最も被害が少ない状態で、早くここを通り抜けてくれ! 早く!! 彼はそれだけを、ただそれだけを祈り続けていた。
ついに、立体映像が激しく乱れたかと思うと、虹色の輝きを残して艦橋から消えた。次に、レーダー画面が沈黙した。警報は狂ったように鳴り響き、艦橋の周囲のバネルは、すべて緊急事態を告げる赤色の点滅に染まった。
マサルは、地球との連絡に必要な通信設備が破損したことを知って、わずかに表情を歪めた。地球との連絡は太陽系内に入らない限り、相互の交信という形では不可能だった。だが、特殊なレーザー通信を使って、これまでの探査の様子や船の状態に付いては、定期的に地球に報告していた。数年という単位の時間差があるにしても、彼らが無事であることは、既に地球には届いているはずだった。
きっと、地球では自分達の帰還を待ちわびているはずだ。マサルは、心の中で呟いていた。そろそろ、乗組員の家族も冷凍睡眠から、目覚め始める頃に違いない。きっと、エリナも!
マサルは、自分を待って冷凍睡眠に入った恋人のことを思って、胸に手を当てた。上着の下には、小さなロケットに入った彼女の写真があるのだった。
恒星間旅行に出かける者達は、当然のように自分を待っていてくれる家族や恋人の写真を持ち込んだ。それらの写真は、最新の動く立体映像ではなく。原始的な、平面写真だった。しかも、その大きさには厳しい規制が設けられて、一人分の大きさが三センチ×四センチを超えてはならなかった。
それは、長期に渡る閉鎖的な生活状態の研究の中で、立体映像や等身大の写真が、孤独な生活に与える精神的な影響が心配されたからだった。研究によると、面白いことに生身の現実に近ければ近いほど、その悪影響は大きかった。逆に言えば、動くよりは動かない方が、カラーよりは白黒が、大きいよりは小さい方が、より精神に与える効果は良好だったのだ。
そのため、乗組員の私物に関しては、かなり寛容であったにも関わらず、こと人物写真に関してだけは、大きな制約が設けられたのだった。そして、ほとんどの乗組員が申し合わせたように、自分を待つ者の写真をロケットに入れて首から下げていた。
マサルもまた、例外ではなかった。彼の純金のロケットの中には、規定ぎりぎりの大きさの女性の写真が収まっていた。
エリナ
女性の名はエリナ。輝くような金髪と透けるような白い肌、そして抜けるように青い瞳。
大学の研究機関で共に働く、この美しい医者であり生物学者でもある女性が、自分の想いに応えてくれると知った時。マサルは、文字通り天にも昇る心地がした。孤児で身寄りの無いマサルにとって、彼女はまさに地上に舞い降りた天使であり、天に輝く太陽そのものだった。
夢のような日々が過ぎて行った。その中でマサルは、いつしか自分が思い描いていた恒星間旅行の夢を、忘れようとしていた。
「行かなくちゃ、行けないわ!」
小高い丘の上で、夕焼けに赤く染まる宇宙港を見おろしながら、エリナはマサルにそう言った。同じ職場で働く彼女は、エンジニアとしての彼の夢に、早くから気が付いていたのだ。
そして、マサルに恒星間宇宙船に乗り込むチャンスが巡って来たことをエリナは知った。彼女も希望はしていたのだが、その情熱においてマサルには及ばず、そのためか早い段階でふるい落とされていたのだ。
彼女は、宇宙に飛び立つ宇宙船の姿を目で追いながら、呟くように言った。
「いいえ、行くべきなのよ。あなたは……」
マサルは、とっさにどう答えていいのかわからなかった。沈黙が、二人の若い男女を包んでいた。
やがて、その夕陽に映えて金色に輝く髪を掻き上げながら、エリナは振り向いた。
「だから、これだけは約束して。何があっても、必ず、きっと、帰って来るって!」
そう言うなり、この若い女性科学者は若きエンジニアの胸に顔を埋めた。そして、激しく泣き始めた。自分の夢を忘れようとしていた男は、一体どうしたらいいのか、まったくわからず、ただ黙ってそんな彼女の髪を撫で回すだけだった。
やがて、その涙に濡れた青い瞳を、エリナはマサルに向けた。その瞳のきらめきの中に、夢多きエンジニアは自分の答えを見つけていた。
「約束する、必ず帰って来る。何があっても!」
「お願いよ。私も、必ず待っているから!」
宇宙港を見おろす丘の上で、赤く染まる夕焼け空を背景に、二つの影は長く長く一つになっていた。そして、その時の光景はどんなに細かいところまでも、マサルは鮮明に記憶していた。
涙に濡れた彼女の瞳と、その輝きの中に彼は誓ったのだ。必ず、生きて帰る! と……こんなところで、彼は死ぬわけには行かなかった。
マサルは、次々と小惑星に衝突する衝撃で、激しく揺れる船体の安定をとろうと、必死の思いで操縦桿を握りしめていた。他の乗組員の応援は頼めなかった。そんな暇はなかったし、彼以外の誰もこの事態には何の役にも立たなかった。その意味では、コンピューターの人選は間違ってはいなかった。
しかし、それは同時にマサルに、たった一人での孤独な戦いを強いることになった。いや、一人じゃない! マサルは心の中で叫んでいた。待っていてくれエリナ! 俺は、必ず帰る!!
次の瞬間、最も大きな小惑星が宇宙船の帆である傘の部分に衝突した。激しい衝撃と同時に、船内の照明が一瞬暗くなった。しばらくすると、より大きな警報が鳴り響き、コンピューターの合成音が不吉な言葉を繰り返した。
『陽子加速機破損、作動不能。冷凍睡眠装置破損、解除不能……』
しかし、マサルにはそんな声に構っている暇はなかった。あと少しとは言え、まだ小惑星帯を通り抜けることに成功したわけではなかった。
冷たい汗を掻きながらも、マサルの操作は完璧だった。宇宙の帆船は、ボロボロに傷付きながらも、どうにかその最大の危機を乗り越えようとしていた。
エリナが、孤児の自分とは違って、裕福な家庭の娘だということを知ったのは、彼女が正式に冷凍睡眠を申し込む時になってからのことだった。彼女の家族、特に両親は娘が冷凍睡眠に入ることに反対だった。
自分達の残りの人生において、二度と再び娘と会えないなどということに、まともな親ならば容易に耐え得るものではなかった。その気持ちは、むしろ肉親を持たないマサルの方が、痛いほど良くわかった。
それでも、エリナの決意は変わらなかった。仮にここで彼女が心変わりしたとしても、マサルは決して彼女を恨むことはなかっただろう。むしろ、自分を夢に向かって進ませてくれたことに対して、感謝すらしたはずだった。もちろん、山のような寂しさはあっても。
しかし、エリナは自分を選んでくれた。この最愛の女性が、自分の血を分けた家族より、両親より、自分を選んでくれたという事実が、マサルにとって、どれほど重要なことだかわからなかった。
あの未知の恒星系での、危険極まり無い異種生命体との接触の中、一触即発の状態ですら、彼は冷静だった。それは、自分が決して死ぬわけが無いという、狂信的とも言える自分の愛情に対する確信を、常に抱き続けることができたからだった。彼は、自分が愛する天使に守られていることを、片時として疑ったことはなかった。
そうでなくては、百年以上の歳月を、ただ自分を待つためだけに費やしてくれている彼女に対して、申し訳が立たなかった。当然のことながら、マサルはエリナが待ってはいないかも知れないということを、まったく考慮に入れてはいなかった。その必要がなかったのだ。彼にとって、愛する娘が待っているということは、紛れもない事実だったのだ。
そして、それは他の乗組員にしても同じだった。
残された人々
それは、クリスタル・クラッシュ、結晶破壊と後に名付けられた現象だった。
人類はある日突然、大きな地殻の変動を知った。それは、やがて地球の全表面へと広がる、大変動となった。
時代が少し前であれば、人類が絶滅してもおかしくないような、規模と破壊力を持つ変動だった。しかし、この時代の人類はそれを切り抜けるだけの能力を持っていた。直接の被害はともかく、二次災害は最小限で食い止められ、危険地域の人々はただちに大気圏外に避難した。人類は衛星軌道上のステーションなどの他に、月面や火星などの惑星表面にもいくつかの居住可能な施設を設けていた。
その予測できなかった突然の出来事は、自分達が頂点を極めたと信じていた人々を、唖然とはさせた。同時に、自分達も含めてほとんどの生命を無事に助け出したことで、人々は自分達の能力に自信を深めもした。
地球の再建のために再び地上に戻った人類は、その大地殻変動の原因の究明に全力を傾けた。ほどなくして、その理由が判明した。
地球の表面を覆う地殻の内側に、非常に薄い、結晶構造の部分があった。それは、厚さがわずか数メートルという、地球的規模からは想像もできないほど薄い層だった。その結晶帯が何かをきっかけに、その構造体の配列を変えたのだった。それはちょうど、電子的な刺激を受けると、液晶の結晶構造が変化することに似ていた。
結晶帯が変化したことで、地球の地磁気のバランスが崩れた。ほとんど一瞬にして、地球の北極と南極は九十度近くも移動したのだ。それが、大地殻変動の引き金となった。
科学者達は、これが一時的な現象だということで全員が納得した。地殻変動が収まると同時に、地磁気も元の場所へと戻って行った。ただその場所が、正確には元の場所よりも何度かズレていたが、それは地球が誕生して以来、繰り返されたズレの一つだと考えられた。
科学者は、かつて栄えた恐竜がなぜ突然のように絶えたのか、始めてその真相を知ったような気がした。宇宙に逃げることができなければ、きっと人類も同じ運命にあったのだろうと、人々は噂した。
そう、確かにそれは地球誕生以来、何度となく繰り返されてきた現象の一つだった。だが、一つだけ、今までとは違っていた。それは、繁栄を極めた人類の存在だった。
有史以来、人類は地殻の内部に向かって、様々な刺激を与え続けていた。その最大のモノは、もちろん核の爆発であったろうが、それ以外にも地底の掘削などで、大小の刺激を与え続けていた。
ある学者が、その驚くべき影響に気が付いた。本来なら、元の配列に戻るはずの地殻の結晶構造帯が、そこかしこで戻れなくなっていたのだ。
長年に渡る人類の行為が、地球の全表面を覆う薄皮に、ヒズミを作ってしまっていたのだ。元の配列にも戻れず、かと言って再び配列を変更することもできないまま、結晶構造はあちこちで崩れ始めた。しかし、それがどういう結果になるのか、誰にもわかるものではなかった。
後に、C・Cと省略されるクリスタル・クラッシュ、つまり結晶破壊はある日を境に、同時に全地球規模で始まった。それ自体が引き起こす地殻の変動は、以前のものに比べて、それほど大きなものではなかった。問題は、その時に生じた超高周波だった。
ある種の高周波が、人間や動物の脳に影響を与えることは、それ以前からも知られていた。だが、これほどの規模で、しかも一斉に発生した場合、いかなる事態になるのか予想した者は誰もいなかった。
その超高周波は、結晶構造の崩壊の過程で発生し、地殻を突き抜け地上を揺るがせた。結局、いったいどういう種類の超高周波だったのか、なぜそんなことが起こったのか、解明することはついにできなかった。
その超高周波は瞬時に、動物の、特に人間の脳に影響を与えた。人間の脳の中で、理性や記憶を司ると言われている、大脳皮質の表面部分だけを、その超高周波は狙い撃ちにしたのだった。
ほぼ一瞬にして、地球上の人類のほぼ半数は記憶と理性を失い、本能のみで行動する原始的な野人と化した。残りの半数は、超高周波の届かない建物や部屋の中にいた者と、その時眠りに落ちていた者達だった。この超高周波は眠っている人間の脳には、不思議に作用しなかった。
しかし、彼らはそれで助かったわけではなかった。C・Cはそれから、三年余り断続的に続いたのだ。賢明な何人かは、人間を野人に変える原因がなんであるかを察知して、それが届かない施設へ逃げ込んだのだが、一年以上もその場所でじっとしていられる場合は少なかった。
C・Cが発生した時、運良く地球の外にいた人々は、超高周波の洗礼からは免れることができた。代わりに、彼らはある日突然、母なる故郷の惑星が沈黙したことを知って、顔を見合わせた。通信装置でいくら呼び掛けてみても、答える者は誰もなかった。そして、ときおり動物の呻き声ともつかない奇妙な音だけが、そこかしこの通信装置から流れて来るばかりだった。
地球の異常に気が付いた人々は、次々と地表に向かった。そして、そのほとんどが、帰っては来なかった。
数年が過ぎて、ようやく超高周波の発生は収まった。地殻の内側を覆っていた結晶帯が、すべて崩れ去ったためだった。だが、その頃になると地球外で生き延びていた人々にも、深刻な危機が訪れていた。
地球外の居住施設の中で、完全に自給自足が可能なものは、数えるほどしかなかった。母なる星との連絡が途絶えると、たちまち食料やエネルギーが不足する施設が後を絶たなかった。ほとんどの施設の住人は、C・Cが終息する以前に地球に向かった。何が起こっているのかわからなかったが、どうせ死ぬなら故郷の大地でという思いは、おおかたの人類に共通のものだったようだ。
C・Cが終わった後、地球外には極少数の人類がそれでも生き残っていた。そして、地球上には理性と知識を失った人間。無数の野人が、あふれていた。形はどうであれ、何とか人類はその子孫を残すことに成功したように見えた。超高周波による人間の野人化は一代限りのもので、その子供は正常な人間として誕生するはずだった。ただし、正常な人間として成長するかどうかについては、周囲の環境が大きな問題となるのだろう。
その人類に、最後の悲劇が訪れるまでに、それほど時間は掛からなかった。人類を、あるいはあらゆる生物を、常に全滅の危険に追い込んで来た、疫病の発生だった。
それが、どこかの研究施設から漏れ出たものなのか、一連の天変地異によって発生した新種のものなのかは、まったく不明だった。ともかく、その疫病のウィルスが地球の大気すべてに充満するまでに、長い時間は必要ではなかった。
恐らく、C・C以前の人類ならば、いくらでも有効な対策を立てられただろう。だが、この時の人類にはもはやその力はなかった。
超高周波の脅威がなくなった地表に降り立った人達は、まず野生の本能のままに動く、変わり果てた人類の姿を見て愕然とした。だが、その驚きは即座に恐怖に変わった。野人と化した人々に、宇宙からの帰還者達は、単なる得体の知れない敵か、もしくは格好の餌にしか見えなかった。
明らかに、本来は人間であるはずのモノに襲撃されて、ようやく地上に戻って来た人々が、冷静でいられるはずがなかった。多くは、その凶悪で凶暴な行為の前に成す術もなく倒れ、野人達の本能を満足させるだけの存在となっていた。
残されたわずかの人々は、何とかこの事態を伝えるために、惨憺たる状況のまま、大気圏の外で待つ人々の元へと戻って行った。その報告を、母星の様子を知りたくて心待ちにしていた人々は、容易には信じられなかった。だが、すぐに彼らも、人類がその歴史の終局を迎えつつあることを、身を持って知ることとなった。
野人達の襲撃に傷付きながら、辛くも地球から逃げ戻って来た人々は、傷と一緒に未知の疫病のウィルスもまた、持ち帰っていた。もともと、閉鎖された環境に、人口が集中する傾向のあった地球外の居住施設では、瞬く間に病気が広まって行った。
自給自足すらままならない施設での、疫病の発生は致命的だった。理性と知性、それに勇気を持ち合わせていたわずかな人達は、遅まきながらも、この事態がもたらす結果を、予測することが可能だった。自分達が取るべき道が、もはやほとんど残されていないことを、彼らは理解しなくてはならなかった。
人類滅亡へのカウント・ダウンに、大気圏の外の人々が恐怖に震えている頃。地上では、地獄絵図が繰り広げられていた。
C・Cは、何とか正常なままで切り抜けたわずかな人々も、圧倒的な数の野人の襲撃から逃れる術は、ほとんどなかった。最新式の武器や道具に頼った人も少なくなかったが、それらはすぐに使用不能となった。弾やエネルギーの限界に比べて、余りにも野人達の数が多かったのだ。
連絡や交通の手段が無いままに、分散し孤立した正常な人々は、次第に追いつめられて行った。そして、疫病の流行によって、彼らの生き残る道はほとんど完全に閉ざされてしまった。
野人による襲撃は、恒星間旅行者の関係者が眠る冷凍睡眠装置のある施設も、例外ではなかった。
残された聖母達
恒星間旅行者の帰還を待って、冷凍睡眠装置の中で横たわる人々は、いつしかコスモ・マドンナ、宇宙の聖母達と呼ばれるようになった。
実際には、乗組員の家族には男性も女性も、大人も子供も含まれていたのだから、マドンナというのは正しくはなかった。だが、最初の恒星間宇宙船が飛び立った後、冷凍睡眠でその帰りを待つことにした人々の大半が、男性乗組員の妻や恋人だったので、誰かがそんな俗っぽい呼び方をしたのだ。
響きの良い俗な言い方が、正確さを抜きにして一般化することは、良くあることだった。この場合も、その例外では有り得なかった。
コスモ・セイラー3号で飛び立った、マサルを待つエリナもまた、そんなマドンナの一人となっていた。
エリナ達の眠る施設が、野人の襲撃を受けたのは、C・Cの直後だった。地上で熱核反応が生じても問題が無い、シェルター構造の冷凍睡眠施設も、人間としての理性を失った野人の襲撃には、無傷ではいられなかった。
恐らく、本能の赴くままに行動した野人の中に、かつてそこの職員であった者でも、含まれていたのだろう。彼らの暴力的な扱いが、機械の誤作動を生んだ。その結果、一つの冷凍睡眠装置が解除されることとなった。
予定よりも早く、強制的に目覚めさせられたエリナの見たものは、人間の姿をしながら、目を血走らせた野獣達の姿だった。彼女が、事態を理解するのには、かなりの時間と労力を必要とした。
それでも、科学者の一人であった彼女は、施設のコンピューターを通じて、眠っている間に何が起こったのかを、知ることができた。しかし、彼女自身にとっては、知らない方が良かったのかも知れない。
人類滅亡。この絶望的な状況を理解することに、彼女の知性は充分な能力を持ってはいた。だが、それに絶えられるほど強靭な感性は、残念ながら持ち合わせがなかった。
自らの体力と、施設の自動防衛システムの利用で、彼女は何とか侵入した野人達を、撃退することに成功はしていた。だからと言って、決して無傷というわけではなかった。
特に、冷凍睡眠から目覚めた直後、何も身に付けないまま無防備に、野人達の前に現われたことは不幸だった。エリナの美しい肉体は、野人達の牡の本能に火をつけた。彼女は隙を見て逆襲に転じ、結局は自分の心身を傷つけた相手に対して、それにふさわしい報復を与えた。
けれども、彼女の受けた屈辱は、相手をレーザー・メスで切り刻んだところで、癒されるものではなかった。それどころか、地表の壊滅と人類の滅亡という最悪の事態は、彼女から完全に生きる希望を奪った。
エリナは、死を決意した。それ以外に、自分の取るべき道があるとは思えなかった。そこに、自分以外で冷凍睡眠装置を扱える人間はいなかった。それは、彼女自身が再び冷凍睡眠に入ることは、不可能だということを告げていた。
マサル達の帰還予定までには、まだ十年以上の歳月が必要だった。もう、マサルを待つことができない! このことが、彼女にとっては致命的だった。逆に言えば、愛する男に会えるという可能性さえあれば、野人からどんな屈辱を受けようとも、彼女は生きるための努力を惜しまなかっただろう。
その希望がついえた時、もはや家族や知人の誰一人として、生き残っているはずの無いエリナにとって、生きる意味などどこにもなかった。
残された時間
宇宙の帆船が受けたダメージは、相当なものだった。
大きなパラソルの、傘の部分に当たる巨大な円形の帆は、小惑星との衝突でズタズタになり、見る影もなかった。しかも、宇宙船の最後尾にまるでパラソルの柄のように付いていた陽子加速装置は、根こそぎどこかへ吹き飛んでしまっていた。
これで、新たな加速のための動力を得ることは、ほとんど不可能となった。ただ、既に減速状態にあったので、そのことによる直接の問題はなかった。
それよりも、マサルを愕然とさせたのは、通信装置の破壊と冷凍睡眠装置が解除不能に陥ったことだった。これによって、彼はたった一人で、この船を地球までたどり着かせねばならなかった。技術的には不可能ではないにしても、その困難は想像を絶して余りがあった。
おまけに、大気圏降下用の小型宇宙艇が、陽子加速装置もろとも小惑星との接触によって吹き飛ばされていた。このことは、さらにマサルを落ち込ませた。これで、自分を含めて乗組員が自力で地球に降り立つことは、ほぼ絶望的となったのだった。
仕方なく、マサルは地球に近いところで船を限りなく減速させ、救助を待つことにした。通信がなくとも、地球に近付けば嫌でも誰かが出迎えに来るだろう。自分達が留守の間に、何が起こったのか知ることのないマサルは、その時までは実に楽観的だった。
ところが、艦橋に戻って減速と方向の修正をしようとして、彼の顔から血の気が引いた。
小惑星の衝突と、その回避のための無理な操船が崇って、既にほとんどの補助推進装置が使用できなくなっていた。減速のためには、補助推進装置の逆噴射しかなかったが、それはもはや不可能だった。
悪いことに、小惑星帯を突破するために、できる限りの加速をしていた。このままの状態であれば、数十分で地球軌道に到達してしまうことは確実だった。そして、停止できないまま地球を通過して、やがては太陽系を突き抜けてしまうだろう。いや、その前に巨大な太陽の引力に捉まって、あの灼熱の炎の中に落下するのかも知れない。
どちらにしても、余り考えたくはない結末だった。ここまで来て! ここまで帰って来ておいて! なんたることだ!! マサルは、歯噛みすると拳で思いっきり制御盤を叩いた。
しかし、残された時間は短い。連絡が取れない以上、彼が何とかするしかなかった。マサルは考えた。何とか地球へ戻る方法を、必死で思案した。
彼は何としてでも、帰らなくてはならなかった。自分を待つ、愛する者のためにも……。
残された希望
宇宙港を見おろす丘の上に、彼女は立っていた。
地殻の変動やその後に続く災厄のために、かつて整然と区画されていた宇宙港は、見る影もなく荒れ果てていた。建物は崩れ去り、どこまでも均一に広がっていた大地は、まるで掘り返されたように隆起し、陥没していた。
宇宙港とそれを見おろす小高い丘が、そのまま残っていられたことは、奇跡に近い出来事だった。しかし、今やそこがどういう場所だったのかを、知る者はほとんどいなかった。ただ、赤い夕焼けだけが、以前と変わらずにその場所にあるすべてのものを、染め上げていた。
丘の上に立ち、夕陽に染まる宇宙港の空を見上げる彼女の姿は、エリナによく似ていた。ただ、その肌の色は、陽に焼けたようにより健康的な小麦色で、体全体もエリナに比べると小柄な感じがしたが、逆によく引き締まっていた。
エリナは輝くような金髪をしていたが、いま丘の上に立っている娘は、薄茶色の髪を風にそよがせていた。だが、瞳の透けるような青い色だけは、エリナと同じだった。その瞳を、娘は夕焼け空高く向けた。
「マサル……父さん!」
丘の上で、恒星間宇宙船コスモ・セイラー3号の帰還を待つ娘の名はリーナ。彼女の母親の名を、エリナと言った。
絶望の余り、エリナは一時は死を決意した。だが、そんな彼女の悲愴な感情とは無関係に、本能の赴くままに欲望を剥き出しにした野人達は、再び施設への襲撃を再開した。どうやら、野人達には失った記憶の欠片が残っていて、この中に女性達が大勢眠っているということだけは、理解しているようだった。
本来人間であったものに対して、施設の自動防衛システムは消極的だった。誰かが内部から操作しない限り、侵入者を積極的に撃退しようとはしなかった。
さらに、野生の本能に従って行動する野人達は、予想もつかない方法で内部への侵入を計ろうした。シェルター構造になっている施設の最深部までは、何重もの隔壁によって仕切られている。通常の人間が、素手でそこを突破して来るなど、誰も想像してはいなかった。
しかし、野人達は通気口やケーブルの配管などを伝って、次々と無謀な試みを行なった。彼らは、その無限とも思われる数と、本能に急き立てられるような欲望によって、飽きることなく襲撃を繰り返した。
施設の中で、エリナは知った。誰かが、ここを守らねばならない。自分と同じように、愛するを者を待ち焦がれながら、眠り続けるマドンナ達を、誰かが守らなくてはならないのだ。
エリナは決意した。マサルが戻るまでの歳月を、この場所を守ることで費やそうと。再会した時には、自分は十歳以上老けているだろうが、そんなことを問題するような男と、彼女は将来を誓った覚えはなかった。それどころか、彼女が他の乗組員の家族を守り抜いたと知れば、よくやったと、きっと誉めてくれるに違いなかった。
エリナに、生きる希望が湧いた。幸いにして、このシェルター構造の施設には、百人以上の人間が一年近くは生活できるだけの、水や食料が備えてあった。彼女一人なら、十年以上を過ごすことに、問題はないはずだった。
エリナは慣れない手に銃を取り、警備員が使う戦闘服に身を包むと、侵入した野人達の撃退とその対策に走り回った。その一方で、彼女は科学者らしく状況の分析を行なった。そして、この野人化現象が一代限りのものであること、その原因が超高周波であることなども知った。
彼女の活躍と、人口の減少のためか、野人達の襲撃は次第にその回数と規模が小さくなって行った。何とか、希望が持てた始めた彼女に、野人達は恐るべき置き土産を残していた。
エリナは、妊娠していたのだ。父親が、自分を襲った野人であることは間違いなかった。彼女は即座に堕胎を考えた。ただ、彼女は医者でもあったので、まず自分の体がどうなっているのか、医療設備を使って慎重に調べてみた。
その結果、最後の絶望が彼女を襲った。エリナは、自分が未知の疫病に感染していることを知った。その発症を押さえることは可能だったが、病魔が彼女の肉体から生命力を奪って行くことは、確実だった。
間に合わない! エリナは、再び絶望の縁に叩き落とされた。愛する者が帰って来るまで、自分の寿命が持たないことを、医者であり科学者でもある彼女には、理解する能力があった。この時ばかりは、エリナは自分の能力を呪った。知らなければ、希望を持っていられたものを!!
すべての希望を失って、身動き一つできない彼女の胎内で、まるで何かを伝えるような胎児の動きを、彼女は感じた。それは、錯覚だったのかも知れなかった。エリナは、まだそれほど膨らんでいない自分の腹部を見つめた。そして、再び検査結果のデーターに目を落とした。
女の子だった。自分の胎内に、望みもしないのに宿った生命は、自分の血を引く女の子だった。
絶望に埋め尽くされたエリナの中で、わずかな本当にわずかな希望の光が、輝いたように思えた。
残された選択
宇宙船の中で、マサルは文字通り暴れ回っていた。
彼の怒りの言葉を聞くことも、振り上げた拳を止めることも、誰にもできなかった。彼は誰かが止めてくれることを、自分の雄叫びを聞いてくれることを、期待していたのかも知れない。
だが、その船の中ではマサルは唯一人だった。他の乗組員は、みな眠っていた。そして、彼らの眠りは地球に戻らない限り、覚めることはないはずだった。
マサルは計算した。必死になって、考えた。どうしたら、無事に地球に帰ることができるのか!? そして、得られた結論は、彼を愕然とさせた。
船の速度を落とすことは、もはや不可能だった。できることと言えば、一度だけならば、何とか針路を変えられるというくらいのものだった。一度変えたら、もう二度と針路を変えることも出来なかった。
そうであれば、針路は決まっていた。地球に向かう。ただ、それだけだった。それ以外に選択の余地はなかった。
問題は、どうやって船から脱出するかということだった。動力が得られない以上、船から離れても速度はそのままだった。この速度では、遠からず太陽系を飛び出してしまうことは確実だった。
惑星の引力で、ブレーキをかけるしかなかった。だが、どうやって? 針路変更は一度しかできないのだ。コンピューターとマサルの知性は、同時に同じ結論を出した。
地球の大気圏に突入する。それ以外には、有り得なかった。
だが、このままの速度では、それは単なる地表への衝突を意味していた。大気との摩擦で可能な限り速度を落し、かつ地表との衝突の衝撃を最低限度に押さえる必要があった。
この宇宙帆船は、乗組員の居住設備や冷凍睡眠装置、それに船を操る艦橋などの主要施設を、すべてその巨大な傘の根元に持っていた。それは、膨大なエネルギーを発生する陽子加速機から、人間の居住空間を最も離れた位置にした結果だった。また、いざという時にはその部分から切り離して脱出することも、当然のように考えられていた。
この際は、その最後の手段が有効だった。傘の部分を大気との摩擦の盾代わりに利用し、切り離す時の衝撃で最も安全な角度で侵入する。それであれば、補助の推進装置は地球に軌道を向ける一回だけに使用すれば良かった。切り離された傘の軸と柄の部分は、そのまま大気圏をかすめるようにバウンドして、太陽系を横断し、いずこへともなく飛び去って行くだろう。
方法に、問題はなかった。問題は、誰かが艦橋で切り離しの操作を、行なわなければならないことだった。何度計算してみても、外に突出している艦橋部分は、大気圏の摩擦に耐えられないという解答しか、得られなかった。
冷凍睡眠中の乗組員を無事に届けるためには、他に方法はなかった。そうしなければ、コスモ・セイラー3号は、永久に宇宙の放浪者となるのだった。全員が助かる方法は、なかったのだ。
時間は、刻一刻と過ぎて行った。その中で、マサルは半狂乱となった。暴れ回り、喚き散らした。助けをよこさない地球を、心から呪った。
しかし、何をしても、何を言っても、誰にも聞こえないことを彼だけは知っていた。
リーナ
娘は、母親からすべてを教えられた。何が起こったのか、なぜ自分達がこんな場所で生活しなくてはならないのか。
エリナは、たった一人で子供を生むと、誰の手も借りずにその子供を育てた。彼女の心配は、疫病が子供に感染することと、野人の性質が遺伝することだった。両方とも、疫学上と遺伝学上問題がないことを、彼女は確信してはいたが、世の母親の常としての不安感からは、逃れることはできなかった。
幸い、娘はスクスクと成長した。しかも、物心が付いて以来の理解力は、母親の予想を遥かに上回っていた。母親の血を受け継いだものか、あるいは残り半分の遺伝子を強制した相手が、本来は優秀な人材だったのか。ともかく、娘は母親の教育によって基礎知識を身に付けると、幼いながらも立派に母を助けて動き回れるようになった。
逆に、娘がたくましく成長するに連れて、エリナの体は衰弱が進んで行った。何とか病気の進行を後らせることには成功していたが、それもいつまで保つかわからなかった。
科学者として、母親として、娘にすべてを伝えたエリナだったが、一つだけ事実とは異なることを教えていた。それは、自分の名をとって、リーナと名付けた娘の父親のことだった。彼女は、娘に父親はマサルだと教えていた。
今は恒星間旅行に出かけているが、必ず帰って来る。お前は、その父親を迎えに行かねばならない。エリナは、繰り返し繰り返し娘の耳元でささやいた。
成長したリーナは、母親の話が事実であるはずがないことを、容易に理解した。だが、それを母に告げようとはしなかった。母がなんのためにこの場所に残り、なぜ自分を産み育てたのか、それに思い至らない娘ではなかった。
死の床に就いた母親を、受け継いだ知識で必死に看病する娘に、エリナは外に出てみるように言った。もう一年以上、野人の襲撃はなく、外気にあれほど充満していたウィルスの姿も、どんなに調べても確認することはできなくなっていた。
慎重に、リーナは外へ出た。乾いた埃っぽい空気が、完全に調節された空気に馴染んだ彼女の喉を刺激した。外は広く、そして異様なほど静かだった。
娘の報告に、母は視線を遠くへ向けた。あの日、あの宇宙港の見える小高い丘。ここで、必ず出迎えると誓った日のことを、エリナは思い出していた。
父と教えられ続けた男の名を呼んで、母は息絶えた。娘の手の中に、片時も首から離すことのなかった、プラチナのロケットを残して。
「マサル……」
リーナは、そのロケットの中の写真を見せられ続けて育った。それが自分の父では有り得ないことを彼女が知った後も、エリナは彼がどれほど素晴らしい男性かということを、娘に語り続けた。
いつしか、リーナはその写真の男に恋をしていた。何しろ、彼女は他の男と知り合う機会がまったくなかったのだ。母の言う、父親としてのマサルが立派であればあるほど、彼女に理想の男性のように思えたとしても、無理はなかった。
母親が亡くなり、地表から野人も疫病も姿を消した後。娘はたった一人で、待ち続けた。シェルターの地下に眠る、マドンナ達を守りながら、何年も待ち続けた。
そしてある日。ついに、冷凍睡眠室の警告音が鳴った。その音を、母は待ち続けたのだ。それは、恒星間宇宙船コスモ・セイラー3号からの通信を受信したという、信号だった。
施設の破損で、交信することはできなかったが、通信が届いたことは間違いなく確認できた。母に教わった手順通り、リーナは通信と通信の間隔を計った。母が言った通りの幅で、その間隔は次第に近くなって行った。
リーナは、準備を充分に済ませると外へ出た。冷凍睡眠装置がすべて正常であること、眠っているマドンナ達に異常が無いことを確認して、彼女は出かけた。マドンナ達を起こすのは、乗組員達が帰って来てからだと、エリナがくどいほど繰り返したからだった。
母は、途中で目覚めて間違いだと知らされる絶望を、他の誰にも味わって欲しくはなかったのだろうと、娘は納得していた。ひょっとすると、エリナは最悪の事態も考えていたのかも知れない。その場合なら、何も知らずに眠り続けた方がいいと、思っていたのかも知れなかった。
ともかく、リーナは歩いた。それ以外に、方法はなかった。
何日も、何週間もかけて、ついに彼女は母が言い続けていた場所に、たどり着いた。そこは、夕陽に映える宇宙港を見おろすことができる、小高い丘の上だった。
リーナは、小さな計算機を取り出して、もう一度計算し直した。母の言っていたことが本当なら、数日中にこの場所に小型宇宙艇が降りて来るはずだった。
残された夢
マサルの拳は、皮膚が破れて血が滴っていた。彼は、それを拭おうともせずに、緊急脱出用のスイッチの前に立っていた。
感情の無いコンピューターの合成音が、最後のカウント・ダウンを行なっていた。マサルは先ほどからずっと、片手でロケットを持ち、その中の女性に話しかけていた。
「エリナ、許してくれ、他にどうすることもできないんだ。これしか、これしか方法が無いんだ! 約束を、約束を守れなくてごめん……本当に、ごめんよ!!」
彼は謝り続けていた。他に、語るべき言葉がなかった。ここまで来て、ここまで来て、どうして!? それは、彼自身が言っても何の救いにもならない言葉だった。
カウントが0を告げた。マサルは、血の滴る拳を振り上げると、思いっきり振り下ろした。
地球の直前で、骨だけになった傘のような細長い宇宙船は、その傘の根元の部分を爆発させた。その衝撃で、後ろの長い棒のような部分は、斜めを向いたまま太陽の方向へと離れて行った。広げた傘のような先端部分は、そのまま浅い角度で地球を取り巻く大気の壁の中に、吸い込まれて行った。
直径百キロメートルの巨大な傘は、たちまち赤く染まると、白熱化して行った。
宇宙港の丘の上で、夕焼け空を見上げていた娘は、流れ星のような白い輝きが、空を横切るのを目にした。彼女の胸が高鳴った。それは、母が教えてくれた宇宙艇の輝きに、似てはいなかったか?
しかし、その光はゆっくりと夕焼けの空を横切ると、地平線の彼方に消えて行った。
『エリナ!』
リーナは、母の名を呼ぶ声を聞いたような気がした。
「お父さん……マサル?」
娘は父親であり、恋人でもある男の名を呼んだ。違ったのか? 気のせいだったのか? 彼女は、少しため息を吐いた。
初めての出会い、いや再会なのだ。緊張するなという方が無理だった。娘は自分に言い聞かせると、再び赤く染まる空に母親譲りの青い瞳を向けた。
宇宙船の一部が大地に衝突した衝撃が、丘の上の彼女の足元を揺るがしたのは、それからほんの少し後のことだった。
恒星間宇宙船、コスモ・セイラー3号の一部が大地に衝突した瞬間、地球の地表全体に衝撃が走り、新たな地殻変動の引き金となった。それは、精子と卵子が授精し、卵子全体が震えるとやがて卵細胞の分割が始まる様子にも似て、新しい生命の誕生を思わせるものだった。
END
正直、この物語に後書きはありません。というか、作者としては付けようがないのです。こういう展開の物語を書いたのは、今のところこれが最初で最後だと思います。上手い、とか下手とか言う前に、作者にとっては感慨深い作品です。「こんな物語も、書けたのか!」それが偽らざる、感想です。ある歌を聴いている時に、フッと浮かんだイメージを、そのまま膨らませていったらどういう訳かこうなった!と、いうところでしょうか……。としんみりしたところで、いつものことですが未完成の作品やこちらで扱っていない、アニメやマンガの評論や感想を載せた、ホーム・ページ。『あんのん〈http://ryuproj.com/cweb/site/aonow〉』やHINAKAのブログ〈http://blog.so-net.ne.jp/aonow/〉があります。どちらからでも、行き来が可能な相互リンクとなっています。何にしても、御意見御感想を、心よりお待ちしております。