其の三「クラゲと迷い」
ゆっくりと。ソファに腰掛ける。隣ではリルカが、沈んだ表情で俺と同じようにソファへ腰掛けている。酷く、沈んだ表情だった。俺も、リルカも。
その傍で、先程家に呼んだばかりのサバトが黙ったまま考え込むような表情で立っている。
あの魔人との戦いの後、久美姉は無事に家へ送り届けることが出来た。ショックのせいかあまり覚えていないらしく、断片的に覚えていた「化け物」の存在も、夢なのだと思い込んでいたようだった。家に帰る途中に電柱へうっかりぶつかり、そのまま気を失ったんじゃないか、などとかなり無理のある適当なことを言ったのにも関わらず、久美姉はそうかも、と納得したように頷いて家へと帰った。夕食については、カップ麺で済ますから良いと伝えておき、それでも料理を作りたがる久美姉を何とか説得して今日は帰ってもらった。
それよりも問題は、魔人だった。
間違いなくあの魔人は、人間だった。そんなハズはない、あの化け物が人間であるハズがないといくら自分に言い聞かせても、目の前で魔人から人間の姿へ変わっていく――否、戻っていく様子が何度も脳裏を過り、俺の希望的観測を否定し、現実を突き付ける。
あの魔人は――人間だった。
否定しようのない、現実。
「サバト、一つ質問して良いか」
俺の言葉に、サバトは何も言わず静かに頷いた。
「人間が、魔人になるってことはあり得るのか?」
「……」
サバトは俺の問いに対して、閉口したまま何も答えなかった。ただ悲しそうな顔をしたまま、俺と目を合わせようとしない。
「答えてくれ、サバト」
俺の言葉に、ゆっくりと静かにサバトの首が縦に動いた。
肯定。
「魔人って……一体何なんだよッ……! 魔湖から生まれたただの化け物じゃねえのかよ……?」
「魔人は元々……人よ」
ボソリと。俺から目を逸らしたまま、まるで呟くようにサバトはそう言った。
「魔湖の水を、何らかの形で体内へ摂取した人間が、魔人。超常的な力と能力を得る代わりに、人じゃなくなるのよ……」
一息吐いて、サバトは言葉を続ける。
「魔人が人を殺すのは、魔人としての破壊衝動に耐え切れないから。人を殺すことで、魔人は自我を保つのよ……」
「そんな……じゃあ……ッ!」
魔人。魔の、人――――人間。
「何で……言わなかったんだ……ッ!」
倒した、殺した。魔人を、殺した。
元々人だった存在を、俺は、俺は――――
俺はこの手で殺したんだ。
「何で言わなかったんだ! 魔人が元々人間だったって、何で黙ってたんだッ!?」
気が付けば、俺は勢いよく立ち上がってサバトの両肩を乱暴に掴んでいた。
「く、クラゲ!」
慌ててリルカが止めに来るが、俺はサバトの両肩を離さなかった。ジッと、彼女の目を見据える。いや、睨んでいたかも知れない。
「それを言えば……貴方はきっと、戦えなくなる……そう、思ったから」
酷く悲しそうな表情でサバトはそう答えた。
「方法は……ッ!? 魔人化した人間を、元に戻す方法はないのか!?」
もう殺してしまった魔人を、人間に戻すとでも言うのか。馬鹿げてる。意味のない質問をしたんだと、俺は言った後すぐに理解した。
「……ごめんなさい。戻す方法は、ないの」
そう言って、サバトはうつむいてしまった。
静寂が、その場に訪れた。
「そん……な……」
そこでふと気付く。俺の掴んでいる両肩が、小刻みに震えていることに。
「あ……」
すぐにサバトの肩を離し、半ば投げやりにソファへ座り込む。
「……ごめん」
「気にしないで……」
気まずい空気の中、サバトはそう答えた。
飯も喉を通らない。まさかそんなことはないだろう、と思いながら聞いていた言葉だが、本当に飯も喉を通らない状態があるのだと俺は知った。
魔人のことが――殺してしまったあの男性のことが、常に気にかかる。あの日以来、まともに食事が出来ていない程に。
「何故殺しタ」
自室の中、不意に背後から聞こえる声。
「何故私を殺シタ」
背後にいたのは、魔人だった。俺を殺し、そして俺が殺した、あの魔人だった。
「私ハ、人間ダったノに」
一つしかないその目玉から、ポロリと濁った涙が落ちる。魔人は、その目で俺をジッと見つめていた。
「来る……な……」
お前は俺を殺したんだ……! それに、他の人だって殺してる! おまけに化け物だ……!
退治するのは、当たり前じゃないか。
「生きタイ……」
生きタイ。生きたい。繰り返される魔人の言葉は、まるで耳鳴りのように俺の両耳を支配する。生きタイ。生きたい。生きタイ。生きたい。左右同時に聞こえる人と魔人の声。
ゆっくりと。魔人は俺へ歩み寄って来る。
「やめろ……来るな……!」
まるで、殺された報復をしにでも来たかのようだった。一つしかない目に涙を浮かべ、魔人は鋭く尖った右腕を、俺に向けた。
「う、うわああああああああッ!」
ガバリと。叫ぶと同時に身体を起こす。
「え……? は……?」
息が荒い。まるで長距離走でもした後のようだった。
身体はベットリとした厭な汗で濡れており、シャツが背中に貼りついている。額の汗を右手で拭い、先程の映像は夢だったのだと理解する。
「夢……」
あの夢は、何だ。
殺した魔人に襲われる夢。元々人だった魔人に、襲われる夢。
罪悪感。
人を殺したという罪悪感が、あの夢を俺に見せたのだろうか。
罪悪感など抱く必要はない、あの魔人は倒して然るべきだった。人を殺し続ける魔人、退治して当然なんだ。
なのに――消えない。
生きたい。夢でそう言った魔人の声が、頭から中々消えない。
本当に、殺して良かったの……か? 自問したところで、答えなど見つからなかった。
「今……何時だ?」
呟きつつ枕元の携帯を手に取るのと、携帯がけたたましく鳴り響いたのはほぼ同時だった。
「うおわッ!」
突然のことに声を上げ、枕へ携帯を取り落とす。
「で、電話……?」
ディスプレイには沢田と表示されていた。何でこんな時間にアイツから電話が……? 訝しげに首を傾げつつ、俺は通話ボタンを押した。
『グッモーニンクラゲ!』
「お、おう……」
慣れているとはいえ、起きぬけに沢田のテンションに対応するのは少ししんどい。
『カラオケ行こうぜ!』
「行くって……今からか?」
『あたぼーよ』
突然過ぎるだろ。
「何でまた急に……」
『良いからこーい今すぐこーい後五秒でこーい。聖志と白井さんもいるからお前は佐野先輩連れてこーい。後リルカたんもー』
そんな無茶苦茶な……と思いつつ、俺は苦笑した。先程あんな悪夢を見たばかりだったせいか、無茶苦茶な内容ではあるものの、沢田の声を今聞くことが出来て素直に安心した。
「……わかったよ。今から行く」
『おう、来い。いつもの店の前で待ってんぞー』
「んにしても、誘うんならちゃんと誘っとけよなー」
『いや、それはだな……』
答えにくそうに語尾を濁した後、沢田はそのまま通話を切ってしまった。やれやれと嘆息しつつも、俺は朝食を済ませるために一階へ向かおうとした――その時だった。もう一度、携帯の着信音が鳴り響く。
「ん、沢田か?」
ディスプレイを確認すると、そこにはサバトと表示されていた。サバトから電話……ということは、魔人関連か? と、考えてすぐに、先程見た悪夢の映像が脳裏を過った。正直なところ、今魔人関連の話題は聞きたくない。しかし出ないわけにもいかないので、俺は渋々と通話ボタンを押す。
「……もしもし」
『ごめん、クラゲ君。起きてる?』
「ん、まあ。さっき起きたばっかだけど……」
そう答えると、受話器の向こうで良かったぁ、という言葉と共にサバトが安堵の溜め息を吐いたのが聞こえた。
『ちょっとリルカのことでね』
「リルカに何かあるのか?」
『何かって程じゃないんだけど……。クラゲ君、この間魔人を一体消滅させたでしょう?』
「……ああ」
思い出したくない記憶だった。剣が背中を貫く感触。生温かい返り血を、顔に浴びた時の感触……。
『リルカの、対魔人武器としてのまともな戦闘は久しぶりだから、不具合がないか……メンテナンスしたいのよ。明日一日、リルカを預からせてくれない?』
メンテナンス……か。まるで機械でも取り扱うような言葉だった。しかし、それ以外に適切な言葉もない。サバトは「メンテナンス」という言葉を口にする時、少しだけ口籠っていた。やはりサバトも、リルカを物や機械のように言うのには抵抗があるのだろう。
今からカラオケだし、出来ればリルカも連れて行ってやりたかったのだが、そういうことなら仕方ないだろう。沢田は文句言うだろうが……アイツを犯罪者にしないためにもリルカは連れて行かない方が良いかも知れない。
「わかった。リルカはいつ頃帰って来るんだ?」
『そうねえ……。夕方までには……』
一日かかるかとも思ったが、どうやら日帰りらしい。少しだけ安心した。
『どうしたの? リルカと離れるのが寂しい?』
「ん、ああ……まあな」
変に誤魔化しはせず、そこは素直に答えておいた。
今まで、誰も家にいなかった。俺一人が、こんな大きな家に残されていた。そりゃ久美姉はしょっちゅう来るし、沢田達だって結構遊びに来てくれていた。
でも、家に帰れば必ず「おかえり」って言ってくれる存在。それだけで、俺は一人じゃないって確信出来ていた。
リルカには、感謝してる。
あの後家にサバトが来て、メンテナンスのためにリルカを連れて行ってしまった。カラオケのことを話すと、リルカはしばらく駄々をこねてカラオケに行きたがったが、結局サバトに諭されて泣く泣くリルカはカラオケを諦めた。
……今度連れてってやるかな。
「いぇー! 今日は思いっ切り歌うぜー!」
始まる前から既にハイテンションな沢田は、他人のふりをしたくなる程変にテンションが高かった。
「沢田、恥ずかしいからあんまりはしゃぐな」
「そう言うなよクラゲェ、お前だってホントははしゃぎたいんだろ? 大人ぶっちゃってコノコノー!」
明らかに人を小馬鹿にした表情で、沢田は肘で何度も俺の腕をつついてくる。これだけウザいと本格的に他人のふりしたくなるな。
「まあそう言うなよクラゲ。今日コイツがお前を朝突然誘ったのには理由があってな。最近元気のないお前を元気づけるために、最初は普通にカラオケに誘うつもりだったんだが、折角だから驚かせようぜ、ってコイツが言い出してな……」
「ちょ、馬鹿! 言うなよそれ!」
恥ずかしいのか、沢田は大宮に飛びかかってその口を塞ごうと躍起になっていた。そんな二人の様子を、久美姉と白井は微笑みながら眺めている。
元気づけるため、ねえ……。皆に心配かけてたんだな、俺。
「折角来たんだから、皆で楽しく歌おうよ」
ニコニコと柔らかな笑みを浮かべ、久美姉はそう言った。
「ですよね先輩! 折角なんだからはしゃぐべきですよね!」
「そうだね!」
二人で顔を見合わせ、二人はそのまま熱く握手を交わした。
……馬鹿二人。
「佐野先輩……」
そんな中、白井はどこか不満そうな顔で久美姉に声をかける。が、久美姉と沢田は熱く何かを語っており(主にカラオケについて)、白井のことなど気にもかけていない。
「どうした?」
「え、あ、いや、何でもないの」
俺が問いかけると、白井は慌てて否定した。この間と言い、どこか様子が変な気がしないでもない。心配だったが、雰囲気的にそれ以上問い詰めることが出来ず、俺達はそのまま店内へと向かった。
ゆっくりと。久美姉と白井と並んで帰路へ着く。
およそ五時間にも及ぶカラオケの果て、ペース配分を間違えたせいで、正直歌い疲れてくたくたである。沢田とはしゃいでいた久美姉の表情にも、やはり疲労の色がうかがえる。白井のことは心配していたのだが、カラオケ中は楽しそうにしていたので安心した。あまり歌ってはいなかったのだが、満足そうな表情で俺の隣を歩いている。
馬鹿みたいに叫びながら歌っている間に、ここしばらくの陰鬱な気分は少しずつ晴れていった。晴れやかな気分とはいかないまでも、腹が減って、普通に何か食べたいと思えたり、沢田達と冗談を言い合えるくらいには気分が回復していた。
蔵咲川の上に建てられた橋の上を、三人でゆったりとしたペースで渡って行く。夕日が水面で反射し、キラキラと光っていた。いつもならどうとも思わないのだが、ふと見た時に気付くとこういうのはとても綺麗に見える。
そして、右に白井、左に久美姉。
両手に花だった。
「楽しかったねー」
ニッコリと笑って、久美姉はそんなことを言いながら俺の左手を掴んだ。
「お、おい……」
「良いじゃない。小さい時はこうして家に帰ったよねー」
それは小さい時の話であって、お互いを異性として認識している現在では出来る限り勘弁していただきたい。
「恥ずかしいだろーが。白井も見てるし……」
チラリと。白井へ視線を向ける。
苦笑いをしているかと思ったが、その表情は予想外に冷たかった。無表情、というよりは、静かに怒っている――といった感じの表情だった。
何故か、何とも言えない悪寒がした。
「佐野先輩」
静かに、白井が口を開いた。呟くような、そんな言い方。
「ん? なぁに?」
白井から発せられる冷たい怒気に気付いていないのか、久美姉は呑気な表情で応答する。
「佐野先輩は……天海君と、付き合ってるんですか?」
ピタリと足を止め、白井は久美姉を真っ直ぐに見据えた。
何だ? 何を怒っているんだ? 状況が把握し切れず、俺は狼狽するばかりだった。こんなに怒っている白井を、俺は今までに見たことがない。
「えっ……私が、月人と……?」
言われた途端、久美姉は素早く俺から手を離した。
「ち、違う違う! まだ付き合ってないよ!」
まだって何だよまだって。
久美姉は顔を真っ赤にして、顔の前で両手を振って否定している。そんなに恥ずかしがるなら最初から手なんか繋がなきゃ良かったのに……。
「……ったら……んで……」
くぐもった声が、白井の口から漏れた。うつむいてしまったせいか、何を言っているのか上手く聞き取れない。
この段階で、やっと久美姉も白井から発せられる怒気を感じ取ったのか、数歩後退り、白井から距離を取った。
「だったら何で、天海君と手なんか繋いでんのよっ!」
凄まじい剣幕だった。普段の彼女からは想像も付かない程、彼女の表情は怒りで歪められていた。その怒気は全て、久美姉へと向けられている。
あまりのことに呆気に取られたのか、久美姉は動きを止めたまま目を丸くしている。
「お、おい白井……」
俺の声を無視し、白井は久美姉の方をじっと見つめ、やがてゆっくりと歩み寄って行く。白井が一歩近寄るごとに、久美姉は一歩ずつ後退していった。
「許さない許さない許さない……。アンタも、あのリルカとかいう子もっ!」
次の瞬間、俺は自分の目を疑った。
ぐにゃりと。まるで粘土のように白井の身体が変形する。膨張と収縮を繰り返し、白井の身体は徐々に異形へと変形していく。まるで、人型の粘土を一度崩して化け物へ作り変えるかのように。
「ユルサナイ」
白井が立っていたハズの場所に立っていたのは、赤銅色の化け物だった。
「嘘……だろ……」
あまりのことに足がすくみ、俺はその場へ尻餅をついた。
頭からつま先まで赤銅色一色の化け物。顔にはまるで赤銅色の包帯が巻き付けられているかのようで、目や鼻などは一切見当たらない。赤銅色の身体には、一定間隔ごとにライン状の窪みが存在している。
一目で理解した――魔人だと。
「ユルサナイ……ッ」
まるで、ボイスチェンジャーで無理矢理低くしたかのような白井の声。何が何だかわからないのか、久美姉は停止したまま動かない。
「――久美姉ッ!」
白井の――魔人の右腕がロープ状に変化し、久美姉へ伸ばされる。
「クソッ!」
すかさず俺は立ち上がり、久美姉の元まで駆け寄ると、押し倒すように腕から回避させる。その衝撃でやっと我に返ったのか、久美姉は呆けた顔で月人? と呟いた。
「何ボーっとしてんだ! 逃げろ!」
白井が……魔人。
しかしそのことに驚く暇も、考える暇も今の俺にはない。今は、久美姉を逃がさなければ。
「あ、あれ……何……?」
怯えた久美姉の声。やがて、久美姉はその場で意識を失った。理解が追いつかず、意識を手放したのだろう。久美姉を抱き抱え、片手でポケットから携帯を取り出す。
「……ッ! ッッ!」
声にならない怒号を飛ばし、魔人は俺の方へと駆けて来る。
「サバトッ!」
横っ跳びに魔人から逃げ、慌ててサバトの番号へ電話をかける。幸い、サバトはすぐに電話へ出てくれた。
「サバト! 今すぐリルカを連れて来てくれ! 緊急事態だ!」
『蔵咲川に出現した魔人のことね……!? もしかしてクラゲ君、今その場にいるの!?』
「ああ、今魔人に襲われてる! とにかく来てくれ!」
『わかったわ』
と、サバトが返事すると同時に、再び魔人のロープ状の右腕が、俺の方へ伸ばされる。それを慌てて回避し、その衝撃で携帯をその場へ取り落とす。
素早く、魔人の右腕が元に戻った。
「白井! 白井なんだろ!?」
俺の言葉に、魔人は反応を示さない。表情の見えないその顔で、ただジッとこちらを見ているかのようだった。
「どうなってんだよおい! 返事してくれよッ! クソッ」
動きを止めはしているが、魔人はやはり反応を示さなかった。
「タス……ケテ……」
「え……?」
聞き返すが、魔人は答えなかった。無言のまま、ゆっくりと右腕をこちらへ向ける。
――来る。
すぐに体勢を低くし、伸ばされたロープ状の右腕を避ける。
「アアッ!」
避けられたことに苛立ったのか、魔人は怒号を上げ、右腕を下へ振り下ろした。
「久美姉ッ!」
久美姉をかばうように、俺の身体で久美姉を覆い隠す。鞭のようにしなった右腕が、俺の背中へ叩きつけられた。
「痛ゥ……ッ!」
背中から全身へ駆け巡る苦痛。あまりの痛さにのた打ち回りかけたが、それでは折角久美姉を助けたというのに、再び久美姉を危険に晒すことになる。
「く……ゥッ!」
呻き声を漏らしつつ、何とかこらえる。今のは、人間の腕と同じ太さのロープで叩かれたのと同じようなものだ。だが、久美姉を守るためには耐えるしかない。
「ア……ア……!」
呻きつつ、魔人へチラリと視線を向ける。すると、魔人はどういうわけかあたふたと首を振って戸惑っており、ロープ状だった腕は既に元の形に戻っていた。
逃げるための絶好のチャンス。まだ少しだけ痛むが、久美姉を抱き上げて立ち上がる。
「――ッ!」
それに気付いたのか、魔人はピタリと首を振るのを止め、こちらへ再び向けた――その時だった。
「アアッ!」
突如辺りへ響くブレーキ音。見れば、白い車が勢いよく魔人へ激突しているのではないか。
車に跳ねられ、呻き声と共に魔人の身体が勢いよくこちら目掛けて吹っ飛んだ。咄嗟に身を屈めた俺の頭上を飛び越え、ドサリと後方で倒れる。
「まさか……!」
ガチャリと運転席のドアを開け、中から顔を出したのはサバトだった。
「クラゲ君!」
次に後部座席のドアが開き、リルカは飛び降りるように車から出て来ると、俺の方へ駆けて来た。
「クラゲ!」
「……リルカ!」
リルカは倒れている魔人を見て状況を察したのか、質問はしなかった。
「サバト! 久美姉を、俺の家まで運んでくれ!」
すぐに車の方へ駆け、空いたままの後部座席のドアから中へ入り、ゆっくりと久美姉を座席に寝かせる。そしてポケットから家の鍵を取り出し、助手席の方へ投げた。
「頼む!」
「わかったわ」
サバトは力強く頷き、俺が車から出たのを確認するとすぐに車を俺ん家の方向へ走らせた。
その車を見送り、俺はそっと胸をなでおろす。
そのまま一緒に逃げても良かったのだが、魔人は既に立ち上がり、こちらへ頭を向けている。目のないその顔がどこを見ているのか見た目にはわからないが、恐らくこちらをジッと見ているに違いない。
「クラゲ!」
「……わかってる」
あの魔人が――白井……? 何かの間違いだと信じたい。しかし俺は、彼女が魔人へと変化する姿を見てしまっている。
「早く!」
急かすように、リルカは目を閉じ、俺の方へ唇を突き出した。とにかく、今はためらっている場合じゃない。
素早く、乱暴とも言える動作でリルカにキスをする。すると、この間と同じ光に包まれ、視界を奪われている内に、俺の右手には剣が握られていた。
『アイツ……学校にいた魔人!?』
「な……ッ!?」
学校にいた魔人は、この間倒した奴じゃなかったのか?
魔人を倒したあの日のことを思い返す。
――――何かまだ、クラゲに言わなきゃいけないことがあったような……。
リルカがあの日、俺に伝えたのは「校内に魔人がいたこと」だ。なら、その日リルカが俺に言い忘れていたこと……それこそが、あの日俺とリルカで倒した魔人のことなのかも知れない。
魔人関係のことはちゃんと言えって言ったろ……。
だが、今はそのことについて言及しているような余裕はない。
「アアアアアアッ!!」
魔人は激昂したのか、右足で地団駄を踏んでいる。
今あの魔人は、何に対して激昂したんだ……?
『クラゲ、来るぞ!』
脳に響くリルカの声。それとほぼ同時に、魔人の右腕がロープ状に変化し、こちらへ伸ばされた。
剣で右腕を弾き、そのまま魔人目掛けて俺は駆け出した。が、魔人はロープ状に変化した左腕をしならせ、下から突き上げるように俺へと伸ばす。
「ぐ……ッ!」
何とか剣で防ぐが、動きは止められた。すぐに右腕が横からこちらへ伸ばされる。
「こ……のッ!」
伸ばされている右腕目掛けて、思い切り剣を振ろうとした――――が、振り降ろせなかった。
『クラゲ!?』
リルカが戸惑いの声を上げた頃には既に遅く、魔人の右腕は俺の肩へと直撃していた。
「ぐああッ!」
そのまま横へ弾き飛ばされ、橋の手すりへと激突する。
『大丈夫か!?』
「ああ……何とか……」
苦痛。しかし、耐える以外に選択肢はない。肩を軽く動かしてみると、無事に動いた。痛いが、悪くても打ち身程度だろう。大したことじゃない。
身体を起こし、魔人を見据えた、その時だった。
「アア……アアッ!」
「――――ッ!?」
突如、魔人は奇声を上げながら頭を抱えて悶え始める。どういうわけかわからず、俺は目を見開いてそれを見ていた。
『クラゲ! チャンスだ! ……クラゲ?』
魔人はしばらく奇声を上げた後、やがてこちらへ背を向けてどこかへと走り去って行く。
『おい、クラゲ!』
走り去って行く魔人を、俺は追いかけることが出来なかった。
「白……井」
俺が呟くと同時に、剣が発光し、リルカの姿へと戻る。リルカはすぐに俺の両肩を小さな両手で掴み、俺の顔を睨み付ける。
「クラゲ! 何であの時魔人の腕を切らなかった!?」
「……悪い」
「悪いって……クラゲ!」
あの魔人が、白井。そう考えるだけで、俺は剣を振れなかった。もしあの時剣を振って、白井の右腕を切り落としでもしたら――
考えただけで、寒気がする。
「クラゲ……?」
怒鳴るのを止め、キョトンとした表情でリルカは俺の顔を覗き込んだ。
「一体、どうしたんだ……?」
「ごめん、リルカ」
「謝るだけじゃわからないぞ! 一体どうしたんだ!?」
俺は、俺は――
「リルカ、俺は……」
「クラゲ……?」
「あの魔人とは……いや、あの魔人とだけじゃない。俺は――――俺はもう、戦えない」
白井と戦うなんて、出来ない。




