其の二「クラゲと恐怖」
そんな会話をしている内に、俺達の前に一台の白い車が止まった。ガチャリとドアを開け、中から出てきたのはTシャツにジーンズというラフな格好をしたサバトだった。背には、テニスのラケットケースみたいなものを背負っている。
「あら、早かったのね」
「まあな……。それより、何で学校で訓練なんだよ?」
俺の問いに、サバトはニヤリと笑みを浮かべると、始まるまでヒ・ミ・ツと俺の前で右手の人差し指を左右に振った。
向かった場所は、学校のグラウンドだった。周囲は当然うす暗く、目を凝らさなければリルカやサバトを視認出来ない程だった。
「訓練って……確かにグラウンドは広さ的にも最適だけど、誰かに見られちゃまずくないか?」
ほとんど誰もいないとは言え、校舎の中には宿泊している先生や、見回りをしている警備員だっている。万が一のことを考えると、ここで訓練なんてするのは得策じゃない。
「大丈夫よ。私だって何も考えずにここを選んだわけじゃないわ」
そう言って笑みを浮かべると、サバトは持ってきたケースを開け、中からスプレー缶を取り出した。スプレー缶は銀色で、絵はおろか文字すら書かれていなかった。
「それ何だー?」
リルカの問いに答えるよりも先に、サバトはそのスプレーを自分へかけた。
「これは結社から預かったウィッチクラフトで、スプレーをかけた対象に特殊な魔術コーティングをかけて、存在感を希薄にするの」
「すまんサバト。日本語で喋ってくれ。俺はちょっとの英語と日本語くらいしか知らん」
サバトは短く溜め息を吐くと、俺とリルカにもスプレーをかけた。スプレーは色もなく無臭で、制汗剤スプレーをかけているのと同じような感覚だった。
「要は、このスプレーをかけたら周囲に認識されにくくなるの」
言葉の後にわかった? と付け足すサバトに、俺はコクコクと頷いた。
「空気みたいになるんだな?」
リルカが確認するようにそう問うと、サバトはコクリと頷いた。
「まあ、そんな感じね。例えるなら、クラスの中に高確率で一人はいる、いてもいなくてもわからない存在になるのと似たような感じかしら」
すごく嫌な例えだった。
「準備は出来たわね……。それじゃ、始めるわよ」
サバトは先程スプレーを取り出したケースの中から、二本の木剣を取り出すと、その内一本を俺へ投げてよこした。
「っと」
受け取った木剣は、昨晩渡されたリルカと同じような重さと長さで、持ってみた感じはほとんど変わらない。試しに、バットのように木剣を振ってみたが、思ったよりストレスなく振り抜くことが出来た。
「これで訓練するのか?」
「ええ。その木剣は重さも長さもほとんど同じだから、その木剣での訓練はそのまま実戦に繋がるわ」
「なるほどね……。それで訓練って? 素振りでもするのか?」
サバトは俺の言葉に首を左右に振ると、リルカへ離れてて、と言いつつ俺から少し距離を取った。リルカは言われた通りにサバトから距離を取り、ちょこんと地べたに座った。服が汚れることについて注意をしたかったが、不意にサバトから発せられた殺気を感じ取り、俺はすぐに身構えた。
「私は貴方に技術的なことを教えるつもりはないし、教えることは出来ないわ。でも、限りなく実戦に近い経験を積ませてあげることは出来る」
これからサバトがやろうとしていることは、訊くまでもない程に明確だった。
「お、おい……まさか……」
ニコリと。殺気を発したままサバトが微笑んだ。
「大丈夫。木剣だから当たっても打撲くらいにしかならないから」
打撲でも十分ヤバくねえ?
そのことを俺が口にするよりも先に、サバトは右手に持った木剣を構えて驚異の速度でこちらへ突っ込んできた。美しい黒髪が、闇に紛れるようにしてなびいたが、それに見とれるような隙も余裕も俺には存在しなかった。
「おッわァッ」
一閃。
眼前へ迫ってきたサバトが振り抜いた木剣を、身体を後ろにそらして間一髪回避するので精一杯だった。
「ちょッ……待ッ……」
俺の言葉に耳を傾けようともせずに、サバトは木剣を振り抜いたまま速度を緩めず、そのまま自然な動作で俺の腹部目がけて左肘を俺の腹部へ叩き込んだ。
「ぐッ……!」
「クラゲ!」
声を上げたリルカの言葉に、返答することすら出来ないまま、俺は腹部を抑えてその場へうずくまる。
「ごめんね。でも容赦している余裕はないの……。短期間で貴方を魔人と戦えるレベルにするには、実戦レベルの訓練を繰り返して慣れてもらうしかないわ」
ビチャリと。俺の口から胃液が吐き出された。うずくまったまま繰り返しむせる俺の傍に、リルカが慌てて駆け寄って来る。
「大丈夫かクラゲ!」
リルカに揺さぶられるが、言葉で返答するような余力は、俺にはなかった。
「サバト……いくら何でも酷いぞ!」
「いや……良い。これで……」
ある程度呼吸が整った俺は、ゆっくりと顔を上げてリルカを制止する。
「どうする? 今日はもうやめておく?」
やや心配そうな表情でそう問うたサバトに、俺は首を左右に振った。
「ふざッ……けんな……やられっ放しで……終われる……かよッ……」
木剣を杖に、ゆらりと俺は立ち上がった。
「続ける限りは、容赦しないわよ?」
「上等だ」
荒い呼吸のまま、俺は木剣を構えた。
結局、訓練中俺はサバトに指一本触れることが出来なかった。流石に一回目のように胃液を吐き出すようなことにはならなかったが、倒された時の擦り傷や、木剣で打たれた肩や腕には痣が残っている。サバトが手当てしてくれた(救急セットはあのケースの中に入っていた)ところ、軽い打撲ですんでいるらしく、放っておけば腫れは引いて後は残らないらしい。恐らく、木剣で打つ瞬間に手加減していてくれたんだと思うが、サバトは手加減をしていないと言い張っていた。
「そういえばクラゲ君、昨日言い忘れていたことがあるの」
俺とサバトの訓練を待っている間に眠ってしまったリルカを背負って校門へ向かいながら、サバトはそう言った。
「……ん?」
「魔人のことなんだけど……」
そう、サバトが言いかけた時だった。不意に、俺の携帯から着信音が鳴り響く。
「ちょっとごめん」
すぐにポケットから携帯を取り出し、画面を確認すると「久美姉」と表示されていた。
「やべ……」
そういえば久美姉に訓練のこと伝えてなかった。
「もしもし……」
『月人! 今どこにいるの!?』
「ん、ああ……えっと……キコナス?」
下手な嘘だった。
『え? どこそこ?』
「いや、何でもない。とにかく今すぐ帰るから! 沢田ん家行ってただけだ!」
適当に答えて電話を切る。多分久美姉、俺ん家で夕飯作って待ってる。
別に良いのに。とは思う。カップ麺ですますなり、俺でも作れるような適当な料理ですますなり、夕飯にありつく方法は沢山ある。でも、久美姉の厚意を無駄にするようなことは絶対にしたくない。いつも世話になってるからこそ、だ。
「悪いサバト、急いで帰りたいんだけど、車で送ってもらえないか?」
我ながら図々しい要求だと思ったが、サバトは笑顔でええ、と頷いた。
あの後、俺は久美姉にこっ酷く叱られた。俺があんな時間に外出をしていたことよりも、それにリルカを同伴させていたことに腹が立ったらしい。リルカの心配までしてくれる久美姉はつくづくお人良しだと思う。
サバトには電話で改めて礼を言い、訓練の時間をもう少し早めにする約束をした。
「ねえ月人、リルカちゃん寝ちゃったんだけど」
「……ハァ?」
休日の昼下がりの、我が家の居間。ソファの上でぐっすりと眠るリルカへ、寄り添うようにして久美姉が座っている。小さな寝息を立てるリルカの頬を、そっと久美姉がなでる。
「まいったな……これから沢田達が来るってのに……」
嘆息し、リルカの寝顔を見つめる。あまりにも気持ち良さそうに眠っているため、起こす気には到底なれない。無理矢理起こしても良いのだが、それで機嫌を損ねられ、沢田達に不機嫌そうな態度を取られても困る。
発端は、俺とサバトが最初に訓練をした日の翌日である金曜日の、教室での会話だった。
学校へ侵入していたリルカについて、沢田達へ適当に説明していた俺は事件の詳しい説明を要求された。主に沢田から。
「リルカたんを紹介しろー!」
大真面目な顔で沢田が俺にそう言った時は、正直ドン引きした。たん付けの時点でかなり引くが、真顔で紹介を要求する沢田は紛れもなく大変な変態さんだった。
そういえばコイツ、ロリコンだったな。
ろりろり天国。
「ちょっと待て。親父の知り合いの外人さんから預かっただけのリルカを、何でお前に紹介する必要があるんだよ」
「幼女だから」
「それは理由にはならない」
そんな沢田を見て、白井は引くどころかクスクスと笑っていた。白井さん、そこは引くところです。
「まあでも、一度紹介してくれても良いんじゃないか? お前ん家に遊びに行くついでに」
喚く沢田をなだめつつ、穏やかな表情でそう言ったのは大宮だった。
「遊びに行くって……大宮は練習あるんじゃないのか?」
「ん? それなら大丈夫だ。明日は練習試合が三試合組まれてるから、日曜は休養しろってことで休みだからな。今度の日曜、俺と沢田で遊びに行っても良いか?」
ハードな部活だった。
いや、でも俺が野球部のことをよく知らないだけで、どこもこんな感じなのかも知れない。
それにしても、遊びに来ること自体は全く問題ないのだが、やはりリルカがネックになる。色々……めんどくさい。感覚的には、年の離れた下の妹が家にいるような感じなのかも知れない。
「よっしゃ日曜だな! 僕は行く気満々だぜ!」
鼻息を荒くしつつ、やや興奮気味の沢田を再度なだめつつ、大宮は駄目か? と問うてくる。
……断れる状況じゃないし、今の内にリルカを紹介しておいた方が良いとも思えた。後になって騒がれるのは面倒だし、一度紹介しておけばどこかへ遊びに行く時にリルカを留守番させなくてすむ。
「わかったよ。んじゃ日曜の午後な」
俺がそう答えると、沢田は突如俺の右手を握り締め、真剣な眼差しで真っ直ぐに俺の目を見据える。
「ありがとう。リルカたんのことは僕に任せてくれ」
「お前にリルカの何を任せるんだよ」
「将来とか」
「死んでも任せねえよ」
沢田が冗談で言ってるように見えないのがどうしようもなく不安だった。コイツ、いつか幼女相手に犯罪起こしたりしないだろうな……。
「あ、あの……」
妙な心配をしていると、不意に白井が小さく声を上げる。
「その……私も、天海君の家……行っても良い……?」
ただ遊びに行っても良いか確認するだけだと言うのに、驚く程不安そうな声音で白井は俺に問う。
「ああ、二人でも三人でも一緒だし、別に良いぞ」
「あ、ありがとう……」
ちなみにそれから数時間後、俺はサバトとハードな訓練を行った。
そんなやり取りがあって、日曜の午後、沢田達にリルカを紹介することになった。
沢田達が来る話をすると、久美姉も来たがったのでとりあえず了承した。別に三人が四人になったところで問題はないし、全員久美姉と面識があるから大丈夫だろう。
「それにしても……ぐっすり寝やがってコイツ……」
リルカの寝顔を眺めつつ、そんなことを呟いてみる。
「でも、かわいいね」
「……ああ」
久美姉に、そう返事をした時だった。玄関の方からピンポーンという間の抜けた音が響いた。
「で、そこのソファでぐっすり眠ってるのがリルカちゃん?」
大宮の問いに、俺はコクリと頷く。
「悪いな、昼寝中で」
申し訳なさそうにそう言うが、気を悪くした様子は誰にもない。それどころか、沢田は食い入るような目つきでリルカの寝顔を眺めている。
「沢田……色々大丈夫か?」
「ットーライッ(ストライク!)」
大丈夫じゃなかった。
「……久美姉、リルカを沢田の目の届かない場所へ」
「了解」
コクリと頷いて、久美姉はすぐにリルカを抱き上げる。
「ああああああ待って下さい後九百秒くらい!」
十五分って言えよ。
まあ冗談なので、久美姉に言ってリルカを元の位置に寝かせる。
「そ、そういえば……佐野先輩はどうしてここに?」
「ん、久美姉がいちゃまずかったか?」
「そういうわけじゃ……ないけど」
白井はうつむくと、そのまま黙り込んでしまった。どうして良いかわからず、とりあえず久美姉が来ている理由を説明すると、白井は納得したようにうんうんと頷いてくれた。
「そうして並ぶと、まるで夫婦と娘みたいだな」
リルカを挟んでソファに座る俺と久美姉を見、大宮は冗談っぽく笑った。
「えっ……不束者ですが……」
「いやいやいやいや、そこはマジに受け取るとこじゃないだろ」
相変わらずのマジ天っぷりを発揮する久美姉に、一同からどっと笑いが起こる。が、唯一白井だけはクスリとも笑わず、居心地の悪そうな顔で下を向いていた。
「白井、どうかしたか?」
「う、ううん。何でもない!」
慌てて否定すると、白井はポケットから携帯を取り出し、何やらカチャカチャとつつき始めた。
「あ、お母さんからメールだ……」
そう呟き、ジッと携帯を見つめると、白井は携帯をパタンと閉じた。
「ごめん、お母さんが出かけるから帰って来いって」
「もう帰るの?」
そう言った沢田に、白井はうん、ごめんと答えると、すぐに立ち上がる。
「今日はなんかごめんね天海君、みんなもごめん」
「気にすんなよ。また遊ぼうぜ」
「うん……」
嬉しそうに頬を赤らめると、白井はそれじゃ、と居間を後にし、玄関から出る際にお邪魔しましたーと礼儀正しく挨拶して帰って行った。
どこか様子がおかしかった気もするが……まあ、気のせいだろう。
「ん……」
不意に声を上げ、リルカがゴロンと寝返りを打つ……と同時にソファから転げ落ちて体を右肩から床で強かに打った。そのあまりに間抜けな光景を、一同はキョトンとした表情で見つめる。
「痛た……」
眠そうな顔のまま、リルカは右肩をさすりつつ身体を起こす。
「おはようリルカたん!」
起きたばかりのリルカに抱きつこうとした沢田を、とりあえず俺と久美姉で阻止した。
その後は実に騒がしいもので、お菓子やジュースを楽しみつつ、四人でひたすら騒いだ。リルカはすぐにその場へ溶け込み、かなり楽しそうにしていた。何度か沢田が危険発言と危険行為を繰り返したが、その度に全力で阻止。無事、警察沙汰にはならずにすんだ。
なんだかんだで、騒がしいながらも楽しい一日を過ごすことが出来た。
ただ、白井のことが少しだけ気にかかる。久美姉はかなり気にしていたみたいで、沢田と大宮が帰った後、しきりに自分が悪かったのではないかと心配していた。しかしメールで確認する気にはあまりなれず、疲れていたせいかその日はすぐに寝ることにした。
「ハァッ……ハァッ……クッソ! まだ一発も入らねェ……ッ」
呼吸を荒げながら、悠然とした態度で立っているサバトを見る。こっちは汗ダラダラでゼェゼェ言いながら戦っているというのに、向こうは呼吸一つ乱さない。正直俺が代わりに戦わなくても、サバトならその木剣で魔人を倒してしまうんじゃないかと思ってしまう程に、サバトは強かった。しかし魔人を完全に消滅させるには、魔力を伴わなければならない。魔力が枯渇し、使えない状態のサバトでは、魔人を消滅させることは不可能……らしい。
最初の訓練から既に一週間が経過しているが、訓練中、俺は未だにサバトへ指一本触れることが出来なかった。相手がサバトとは言え、未だに一撃も入れられないのは流石に悔しかった。今まで格闘技をやっていたわけでも、剣道をやっていたわけでもない俺だが、まさかここまで差があるとは思っていなかった。
実戦経験。
強いとは言え、サバトの戦いは我流らしい。武道をやっていたわけでも、師がいるわけでもないとサバト自身は言っていた。俺とサバトの差は、その「実戦経験」にこそある。サバトは今まで、何度も魔人と戦ってきたのだろう。平凡な毎日を送ってきた俺じゃ想像も出来ないような壮絶な戦いを、彼女は今まで何度も経験してきたに違いない。
簡単に、勝てるハズがなかった。
「でも、一週間でこれなら多分かなり良い方よ?」
サバトのそんな言葉も、気休めにしか聞こえない程に俺は現状に納得出来ていなかった。一撃も入れることが出来ない、その事実があまりにも悔しくて、俺は歯噛みすることしか出来ずにいた。
何かが壊れるのが好きだった。
コップがあればとりあえず壊してみたし、鉛筆があればとりあえず折った。とにかく、何かが破壊される様を見るのが好きだった。それが原因で母には叱られたし、周囲からは気味悪がられた。
それでも、壊すことはやめない。やがて、物を壊すよりも生物を殺す方が楽しいことに気が付いた。
家で飼っていた猫は水に沈めて殺したし、隣の家で飼われていた犬は、トンカチで殴り殺した。とにかく、何か殺したかった。殺すことに快感を覚えていた。
しかしそれでは社会に出られないと悟り、殺しは控え、真っ当に生きようと努めた。
だが、殺した。
あまりの衝動に耐え切れず、私は人を殺した。その時の快感は、今でも鮮明に思い出され、消えることはなかった。
突き刺さるナイフ。裂かれていく肉。漂う死の香り。求めていたのはこれだ。何よりも自分は、人を壊したかった。
「く……ふふ……」
深夜徘徊。
夜の町を闊歩し、道行く人間をただ殺す。そうしている内、若い命を絶つのが心地良いと知った。夜の学校へ近づき、たまたま帰りの遅くなった女子生徒や、たまたま忘れ物を取りに来た男子生徒を無残に切り刻む。
何たる不運。何たる不幸。
夜の学校になど居合わせなければ死ぬことはなかったと言うのに!
「くふ……ふ……」
警察から逃れつつ数十年、訪れたのは蔵咲町。そこで一人の男と出会う。
偶然か。必然か。
「何か欲しい物は、ありますか?」
黒いスーツを着た、細身の男だった。右手には、スーツと同じくらい黒い鞄を手にしている。深夜だったため、その男がどんな顔をしているかまではわからなかったが、眼鏡をかけていることだけはわかった。
何か欲しい物。
「そうだな、殺しの快感がもっと欲しい」
その言葉に、男はクスリと笑みをこぼすと、鞄から注射器を取り出し、こちらへゆっくりと歩み寄る。
「手を出して下さい」
言われたままに手を差し出すと、袖をまくり上げられ、剥き出しになった腕へ先程の注射器で何かを打ち込まれた。
「貴方の身体を作り変えました。貴方はきっと、更なる快感を得られます」
翌日、私は化け物となっていた。
薄暗い校舎の中を、不安げな表情でキョロキョロと辺りを見回しながら久美子は歩いていた。片手に、教室で回収した明日提出の課題用のノートを持ったまま、早歩きで久美子は廊下を歩いて行く。学校へ忘れ物をしてしまうことはよくあるのだが、次の日に提出しなければならないものを忘れてしまったのは随分と久しぶりだった。少し前まで慣れていた薄暗い校舎も、久々となると少し怖い。
「月人に来てもらえば良かったかな……」
そんなことをボソリと呟いたが、久美子はすぐにかぶりを振った。こんなことに、わざわざ月人を付き合わせるのは申し訳ない。
そんなことを考えている内に、下駄箱へと到着する。久美子は下駄箱で靴に履き替え、駆け足で校舎の外へ出た。薄暗い校舎よりも、外の方が幾分か恐怖は薄い気がした。
何とか校門を乗り越え、学校の外へ出ると、久美子はすぐに夕飯を作るために月人の家へ向かおうとした――その時だった。
不意に、背後から圧迫感のある何かを感じた。
恐怖を伴う圧迫感。久美子は、ピタリと動きを止めたまま一歩も動けなくなった。足はガクガクと震えている。逃げなければならないと頭では理解している。しかしそれでも、身体は思う通りに動こうとはしない。
「コロ……シ……」
まるで地の底から這い上がって来るかのような声。
久美子は、ガタガタと震えながら背後へ視線を向けた。
「――――っ!?」
背後に立つ異形の存在に、久美子は絶句することしか出来なかった。
あの後も何度か訓練を繰り返したが、結局俺はサバトに一撃も入れられないままでいた。クタクタになった身体を引きずるようにして、リルカと共に家へ戻ったが、久美姉はまだ来ていなかった。あの日こっ酷く叱られて以来、訓練の時間は沢田と遊んでいることにしてある。そのため、久美姉はその間俺ん家で夕食の用意をしているハズ――だったのだが、今日はまだ来ていなかった。
「久美姉はー?」
「ん、さあな。久美姉にも用事はあるだろうし、来れない時は来れない時で仕方ないだろ」
言いつつ、メールがきていなかと携帯を確認すると、案の定久美姉からメールが一通届いていた。学校に忘れ物したらしく、取りに行くから待っててくれとのことらしい。しっかりしているようで抜けてるな、久美姉……。
久美姉がいない理由を簡単にリルカへ話し、汗を流す前にソファで一休みしようと居間のソファへゆったりと座り込んだ時だった。
さっき確認したばかりの携帯が、突如鳴り響いた。
「電話だな」
呟き、確認するとサバトからの着信だった。
「もしもしー」
訓練の疲れもあいまって、やや気の抜けた声で返事をしたが、向こうから聞こえてきたのはやや焦り気味のサバトの声だった。
『クラゲ君……落ち着いて聞いて。魔人が出現したわ』
「魔人が……? サバト、場所はどこだ!?」
『場所は……蔵咲高校の校門前よ』
瞬間、久美姉の顔が脳裏を過った。
急いで蔵咲高校の校門前まで駆けつけると、そこにはグッタリとその場に倒れている久美姉と、今にも久美姉に針状の腕を突き刺さんとする――魔人の姿があった。
「――ッ!」
魔人はこちらに気がついたのか、久美姉に突き刺そうとした腕をピタリと止めた。その隙にリルカが素早く魔人へ突進し、魔人を一瞬怯ませる。
「クラゲ! 久美姉を!」
「お、おう!」
戸惑いつつも、すぐに久美姉の傍に駆け寄り、抱き起こす。どうやら死んではいないらしいことを確認し、俺は安堵の溜息を吐いた。どうやら久美姉は気絶してしまっただけのようだ。
一度久美姉を抱き上げ、傍の電柱に寄りかからせておき、俺はリルカと魔人の方へ視線を戻した。
「無事だったか!?」
バックステップで俺の傍へ戻ってきてそう俺に問うたリルカへ、俺はああ、と頷く。
「アイツ……俺を殺した魔人……だな」
太い円筒形の頭に一つしかついていない、瞼のない目。そして針を巨大化させたかのような両腕……。それらの特徴を持つ灰色の体色をしたその化け物――魔人は、ギョロリと目を動かして、魔人はこちらへ視線を向けた。何を考えているのかわからないその視線に、俺はゾワリと怖気がしたのを感じた。
「コロ……ス……」
呟くような声でそういうと、魔人は素早く駆け出し、俺目掛けて右腕を勢いよく突き出した。間一髪身を屈めて避けるが、頭上をかすめた魔人の右腕の先端が、俺の髪の毛を数本宙に舞わせた。
「……ッッ……ッ!」
べチャリと音を立てて尻餅をついた俺へ、魔人は下から突き上げるように左腕の針を俺へと突き出した。下半身を引きずるようにして左腕を回避すると、俺は慌てて立ち上がった。
「こんな化け物と戦えってのかよッ」
悪態を吐きつつも、目の前の魔人へ視線を向ける。一つしかないその目からは、感情を一切読み取ることが出来ない。虫が何を考えているのか一切わからないのと同じで、全く別の種類の生き物だということを再確認させられる。
「リルカ……行くぞ……! 剣の姿になってくれ」
「わかった!」
リルカは頷くと、目を閉じて俺へと唇を突き出した――って何やってんだこんな時に!
「おいリルカ! ふざけてる場合じゃねえぞ!」
「ふざけていない! リルカは至って真面目だ!」
「真面目な奴がこんな緊急事態にキスなんて要求するかー!」
こちらへ迫り、再び突き出された魔人の右腕を、俺はリルカをかばうようにして横っ跳びに回避する。地面をゴロゴロと転がっている間も、リルカはキスをしろとでも言わんばかりに、俺へ唇を突き出したままだった。
「リルカ、今はマジでふざけてる場合じゃ――」
「キスだ」
起き上がり、俺が言葉を言い切るよりも先に、リルカはそう言った。
「リルカの対魔人武器としての始動キーは、キスなんだ!」
始動……キー……? 聞き覚えのない単語に、俺は唖然とした表情を浮かべた。
「サバトは説明していないのか?」
「されてねえよ! っていうか最初渡された時は剣の状態だったから、そのまま使うのかと思ってたよ!」
そんな会話をしている間、止まっていてくれるようなことはなく、魔人はこちらへ接近すると右腕を振り上げ、俺の頭上目掛けて振り下ろした。
「くっそ!」
リルカを抱き寄せ、魔人の右腕を回避する。地面に向かって振り下ろされた右腕が、コンクリートの地面を小さく穿った。
「とにかくキスだクラゲ! 死ぬぞ!」
それはわかってる。だがこんな形で、生死とキスがリンクするとは夢にも思わなかったし、普通ならない。今自分がとてつもなく奇異な状況にいるのだと、心底実感した。
これで、リルカの今朝の言動にも説明がつく。俺の「剣の姿に戻ってほしい」という要求を、リルカは真面目に飲もうとしていただけなのだ。決して、久美姉に変な誤解をさせるために、妙なことを言ったわけではなかったのだ。
「早くしないと……っ!」
「そうは言っても……!」
ああもう何なんだよこの状況! 死にたくなければ、今抱き抱えている金髪幼女とキスしろだぁ!? どんな神様だよ、俺をこういう運命に導いたのは!
そんなことを考えるながらも、何度も交互に突き出される魔人の両腕を後退しながらなんとか回避しているが、リルカを抱き抱えたままでは動き辛い。
覚悟を決めるしか、ないのか。
「おいリルカ、目閉じてろ」
「キスか!」
「ああ、そうだよ! やらなきゃ死ぬんだろ!?」
自棄。
自棄になってでもやるしかない。折角サバトに救ってもらったこの命だ。こんなところで、くだらない羞恥心が原因で無駄にするわけにはいかない。サバトにも、俺を生んだ両親にも申し訳が立たない。
「コ……ロス……ッ!」
「こッ……のォッ!」
魔人の腹部目掛けて勢いよく右足で前蹴りを喰らわせる。反撃されると思っていなかったのか、俺の前蹴りは思いの外容易く魔人へ直撃する。その勢いで、魔人はたたらを踏み、数歩後退する。
チャンスは、今しかない。
「行くぞ!」
「おう!」
躊躇している暇はもうない。
リルカが返答したのを確認すると、すぐに俺はリルカの唇へ自分の唇を重ねた。
柔らかく、暖かい感触。唇を通じて、まるで意識が重なり合うかのようにも感じた。
「うっ……ん」
リルカが喘ぐような声を上げると同時に、リルカの身体はボンヤリと光り始める。その光は徐々に強くなっていき、やがて閃光弾の如く俺の視界を遮った。
そして、次の瞬間には――――
「剣……!」
俺の右手には、昨夜サバトに手渡されたのと同じ、剣が握られていた。
「リルカ……?」
剣をまじまじと眺め、リルカの名を呼んでみる。とてもじゃないが、この剣が先程まで幼女だったなどとは考え難かった。
『クラゲ!』
不意に、脳へ直接響くリルカの声。剣が喋っているという感覚はなかった。リルカの声が、まるでテレパシーのように脳へ直接響いたのだ。
「リルカ……!? これって……!」
『さっきのキスで今、リルカの心は魔力でクラゲと直接つながってる! だから、一緒に戦うぞ!』
俺がリルカの言葉に答えるよりも、先程の蹴りに激怒したらしい魔人が、こちらへ接近して俺目がけて右腕を突き出す方が早かった。咄嗟に身を屈めて魔人の攻撃を回避し、かっこ悪くそのまま左に転がる。
「ッ……危ねェ!」
態勢を立て直すため、すぐに立ち上がろうとするが、無慈悲にも魔人の右足がそれを阻止する。蹴られた俺は、そのまま後方へゴロゴロと転がっていった。
『大丈夫か!?』
「あ、ああ!」
答えつつ立ち上がり、悠然とこちらへ歩み寄ってくる魔人へ視線を向ける。常軌を逸した規格外なその姿に、俺は戦慄した。
ジットリと。嫌な汗が額に浮かんだ。剣を握る手が汗に滲む。身体を支えなければならない両足が、ブルブルと頼りなく震える。まだそこまで激しい動きをしたわけでもないのに、いつの間にかまるで長距離走でもしたかのように呼吸が荒くなっていた。恐怖と、緊張。ないまぜになった感情は身体にさえ作用する。
『クラゲ! ボーっとするな!』
気がつけば、目の前まで魔物が迫っていた。魔人は低い呻き声を上げながら、俺の顔面目がけてその鋭い右腕を突き出した。上半身を右に傾けることで俺は右腕を回避するが、突き出された魔人の右腕は俺の左肩をかすめた。シャツを破り、生身の肩を針状の右腕がかすめる。
「――ッ!」
苦痛と共に、ジワリと血が滲んだ。と、同時に数日前の出来事がフラッシュバックする。
貫かれた腹部。まるで水道から流れ出る水のように止めどなく溢れ続ける血。魔人の声。それらを照らす月光。死の――感覚。
『クラゲ……?』
リルカの言葉に返事もせず、ただ鮮明に蘇る記憶に恐怖する俺へ、魔人は容赦なく右腕を向けた。その先端は、先程向けられた時の数倍、俺に恐怖を感じさせた。
死。肉体が活動を停止し、己という存在が消える現象。生き物はみな、それを本能的に恐れるものだ。人間だって例外じゃない。一度死を経験した俺なら、尚更だった。
殺される。今度こそ殺される。
サバトにもう一度俺を蘇生するような猶予はない。次に死ねば今度こそ終わりだ。あの右腕に貫かれて俺は――終わる。
嫌だ。まだ嫌だ。
死ぬには早過ぎる。
久美姉に何一つ礼が出来てないし、やり残したことが多過ぎる。死ぬのはまだ――
「クラゲっ!」
不意に、胸に重みを感じた。見れば、いつの間にか人の姿に戻ったリルカが、俺を押し倒すようにして俺の胸へ抱きついていた。そのままリルカに押し倒されて俺が仰向けに倒れるのと同時に、俺とリルカの上を魔人の右腕が通り過ぎた。
「何を怯えている! お前は、何のためにサバトと訓練したんだ!?」
「怯え……てたのか、俺」
俺が、サバトと特訓していた理由?
「くっそ……!」
思考する暇すら与えない、とでも言わんばかりに、魔人は右腕を俺とリルカへ振り下ろした。俺はリルカを抱きかかえるようにしてその場をそのまま転がり、右腕を回避する。と同時に素早く魔人と距離をとる。
俺がリルカと訓練をしていたのは、魔人を倒すためだ。今俺がここにいるのも、魔人を倒すためだ。魔人を倒して――久美姉を助けるためだ!
怯えている暇なんかない。ビビって勝てませんでした、じゃ折角訓練してくれたサバトに顔向けが出来ない。それに、それじゃあ久美姉を守れない。
「リルカ……もっかい、剣の姿になってくれ」
「……勿論だ」
右腕を突き出し、こちらへ駆けてくる魔人の姿は――木剣で俺へ突きを繰り出すサバトの姿と重なった。俺はそれを訓練の時と同じように身をかわして回避し、それと同時に魔人の一つしかない目玉に裏拳を叩き込んだ。
呻き声を上げて魔人がたたらを踏んだのを確認すると、俺は半ば強引にリルカを抱き寄せ。その唇へ自分の唇を重ねた――その瞬間、先程と同じ眩い光が周囲を照らす。
そして次の瞬間には、俺の手には一本の剣が握られていた。
「今度こそ行くぞ、リルカ」
『……おう!』
恐れが消えたわけじゃない。今だって少し震えてるし、死ぬのは怖い。
しかしそれでも、今俺がやらなきゃいけないことが何なのかは、さっきよりわかっているつもりだ。
「うおおおおおおッ!」
恐怖を振り払うかのように叫び、俺は剣を構えて魔人へ突っ込み、剣を魔人へ振り下ろす。すると、思いの外簡単に剣は魔人の身体を引き裂いた。
生き物を剣で切り裂く感覚は、ゲームや漫画で見る程爽快感がなかった。むしろ、不愉快ですらあった。魔人の返り血が、ビチャリと音を立てて俺の顔へ飛び散った。
「ォォォォオオォオォォオッ!」
魔人は大声を上げて唸ると、苦しそうに少し悶えたが、やがて怒り狂ったように針状の両腕を俺へ向かって振り回し始めた。後退しつつ両腕を避けつつ、サバトの言葉を思い出す。
――――良い? クラゲ君。魔人は、そのほとんどが理性や知性を失っているわ。だから少しダメージを与えただけでも、奴らはすぐに闇雲に攻撃をし始める。その時は――チャンスよ。
「チャンス……ね」
日常生活では普通味わえないような、寿命を縮めてしまいそうな程の緊張感。失敗すれば死ぬ。死は免れても、確実に致命傷を負う。今にでも背を向けて逃げ出たくなるような……そんな状況だった。
『クラゲ!』
「……わかってる! 今のコイツは――」
隙だらけだ!
身を屈めて、魔人の隙だらけな部分――――足元へ視線を向ける。両腕を振り回すことに集中しているせいで、足元がお留守になっている。
ゴクリと生唾を飲み込むと同時に、俺は魔人の足目掛けて右足を突き出した。
「ッだァァッ!」
自分でも何て言ったのかわからないような声を上げ、俺は魔人の足を思い切り右足で蹴り飛ばす。
「――ッ!?」
バランスを崩した魔人は、一つしかない目玉をギョロギョロと忙しなく動かしながら、こちらへうつ伏せに倒れてくる。俺がバックステップでそれを避けるのと同時に、ドサリと音がして魔人はその場に倒れた。
『クラゲ、今だ!』
「ああ!」
リルカの言葉にそう答えるのと同時に、俺はうつ伏せになっている魔人へ馬乗りになる。ジタバタともがく魔人を体重で抑えつけ、剣の刃先を魔人へ向けて思い切り振り上げ――
「おおおおおッ!」
振り下ろす!
ズブリと。振り下ろした剣は魔人の背中へ突き刺さった。噴き出した血が、俺のシャツや顔を赤く汚した。
「コ……ロ……ッ」
呻くような声を上げてしばら痙攣した後、魔人はピクリとも動かなくなった。剣を抜いても、魔人は何の反応も示さない。
『やったの……か?』
「多分、な」
そう答え、俺が魔人から降りた――その時だった。魔人の身体が、グネグネと膨張と収縮を繰り返し、まるで映画のCGのように別の形へと変化していく。
「おい……嘘、だろ……?」
魔人が変わっていくその姿に、俺は目を見張った。
針状だった太い腕の先端は、五本の指と手首に。筒状だった頭は、丸く変化していく。
「冗談……だろ、おい……なあ……ふざっ……けんなよッ……!」
背中から血を流し、そこに倒れているのは――
「はは……笑えねえよ、これ……」
どこにでもいそうな普通の、恰幅の良い中年男性だった。
魔人の姿が中年男性に変わってからすぐに、その身体はバシャリと音を立てて水へと変化し、その場へ濁った水溜りを形成した。
「人間、かよ」




