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クラゲと魔人  作者: シクル


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2/7

其の一「クラゲと魔女」

 ゆっくりと。閉じていた目を開く。最初に視界へ入って来たのは、眩い電気の光だった。眩しくて一瞬目を閉じたが、すぐに目を開ける。

「あれ……?」

 いつの間にか、ベッドの上に寝かされている。暑いだろうという配慮なのか、身体にはタオルケットくらいしかかけられていなかった。

「は……?」

 身体を起こし、すぐに辺りを見回してみる。

 白い壁、白い天井。他には、タンスや机など、最低限の物しか置かれていない、殺風景な部屋。

 状況が飲み込めず、これまでの出来事を反芻する。

 起床。朝食。登校。授業。睡眠。昼食。睡眠……放課後。

「うわあああああッ!」

 身体を勢いよく起こし、その場でジタバタと暴れ回る。無意識の内に周囲をキョロキョロと見回し、あの化け物の姿を探してしまった。

「ああッ!」

 脳裏を過ぎるのは、突き刺された時の感覚。腹部に手を当て、傷を確認する――が、そこに傷はなかった。

「え……?」

 着ている制服に、貫かれた痕は確かに存在していたし、血の痕も付いている。しかし、肝心の傷が見当たらないのだ。首元から服の中をのぞき込んでも、化け物に突き刺された傷は存在しなかった。

 死んだハズだ。俺はさっき……いや、あれからどれだけの時間が経っているのかわからないが俺は既に、化け物に刺されて死んでいるハズだ。今、生きているハズがない。

 胸に手を当てると、右手を通して心臓の鼓動が伝わってくる。

「俺……生きてるのか……?」

 そう考える外ないらしい。信じ難いことだが、化け物に刺されて致命傷を負ったハズなのに、俺は無傷で生きている。いや、化け物に刺された、という夢を見ただけに過ぎないのかも知れない。

 先程まで荒かった呼吸が、少しずつ落ち着いていく。

「生きて……る……」

 どちらにせよ、今俺が生きているという事実だけは、確信出来る。

 それよりもここがどこで、何故俺が今こんな場所にいるのかがわからない。

「目、覚めたかしら?」

 ガチャリと。部屋のドアが開くと同時に、女性の声が聞こえてくる。と同時に、俺の脳裏を女性の声が過ぎった。

 ――――ねえ、助かりたい?

「アンタ……ッ!」

「覚えているのね。だったら話が早いわ」

 美しい、女性だった。

 驚く程に整った顔立ちに、やや釣り気味の目。長く美しい黒髪に、抜群のスタイル。彼女の着ている黒いワンピースを押し上げている大きな胸は、自然と俺の視線を釘付けにする。黒い髪、黒いワンピース。そして黒いトンガリ帽子。これでもかという程黒一色な彼女の服装は、明らかに「魔女」といった風貌だった。

「大丈夫? まだ痛い所はない?」

「いえ、特には……」

「興奮している部分は?」

「ええ、貴女のおかげで俺の頭に春が来て、俺の下のツクシさんが芽を……って何言わせんだー!」

「……自分で言ったんじゃない」

 そうでした。

「とにかく、軽口を叩けるくらい元気ってことね」

「まあ、とりあえずは……」

 俺がそう答えたのを確認すると、彼女は机の方へ歩み寄り、椅子を俺の寝ているベッドの傍まで持って行き、その椅子へ足を組んで座った。ワンピースから伸びる細い足が、俺の下のツクシさんに芽を出させ……何でもないです。

「簡単に説明すると、貴方は一度、死んでいる」

 静かに、真剣な表情で彼女はそう告げた。わかってはいたことだが、やはりショッキングな事実だった。

 一度、死んでいる。まるで、二度目が存在するのが当然であるかのような……そんな言い方。

「あの化け物に、刺された時にですか……?」

 俺の問いに、彼女は静かに頷いた。

「聞きたいたいことが幾つもあるだろうけど、一つずつ答えてあげるわ」

「わかりました。とりあえずスリーサイズを教えて下さい」

「上から百、百、百よ」

「丸太ですか?」

「柱よ」

 大差ねえ。

「冗談はいいから、真面目に質問しなさい」

 コツン、と拳骨で頭を軽く叩かれた。その時に見せた、彼女の少し呆れたような笑い顔に見惚れ、俺は一時言葉を失った。



 とりあえずお茶でも飲んで落ち着けとのこと(起き抜けに比べるとかなり落ち着いてはいるのだが、少し調子に乗ってふざけてしまった)で、彼女は一度部屋を出、紅茶をトレイに乗せて持って来た。ありがたく紅茶をいただき、一口飲んで安堵の溜息を吐く。

「そういえば、まだ名前を言ってなかったわね。私はサバト。貴方は?」

 サバト。聞き慣れない語感……というか、日本の名前じゃない。サバトさんは外人なのだろうか。見た感じでは日本人っぽいのだが……日本語ペラペラだし。

「俺は、天海月人です」

「漢字は?」

「天井の天に、海、月光の月に、人です」

「じゃあ貴方のことはこれからクラゲ君って呼ぶわね」

 どうしてそうなった。

「出来れば勘弁して下さい」

「私のことはサバトで良いわ」

 聞いちゃいねえ。

「サバト……さん。俺は本当に、死んだんですか?」

 俺の問いへ、サバトさんはええ、と頷く。

「貴方は確かに、魔人に一度殺されたわ。あ、それと、さん付けと敬語はいらないから」

 私、敬語とか苦手なのよ。と付け足し、彼女は静かに嘆息する。

 その言葉に俺は頷き、次の質問へと移る。

「魔人……?」

「貴方を殺した化け物のことよ。人を殺す……化け物」

 表情はあまり変わらないように見えたが、最後の「化け物」の部分だけ、サバトは憎々しげに力を込めて呟いた。

 魔人……。信じられない、ゲームのや漫画の中の存在でしかないハズだ。

 いるわけがない。というのが素直な意見だった。

「信じられない……って顔してるわね。でも貴方を一度殺したのは、貴方が今存在を疑っている『魔人』なのよ」

 ――――コロス。

 地の底から響くような声。常軌を完全に逸脱した姿。確かにあの時俺を殺したのは、魔人と呼んでも差し支えないような規格外の化け物だった。

 あれが、魔人。

「その魔人ってのに殺されたハズなのに、何で俺は生きてるんだ……?」

「私が、蘇生させた」

「蘇生って……!」

「ねえクラゲ君、その時私が言ったこと、覚えてる?」

 俺の目を見据え、サバトはそう問うた。

「……ああ、覚えてる」

 ――――ええ、助けるわ。でもその代わり……一つ条件がある。

 助ける代わりに、一つ条件がある、と。確かにサバトはそう言っていた。その時に俺は返答をしていないが、間違いなく俺は「それで良い」と答えていただろう。

 例えどんな要求をされようが、死ぬよりはマシなハズだ。

「魔人によって殺された貴方を蘇生するには、魔核(まかく)と呼ばれる魔力の塊を埋め込むことで蘇生を――」

「え……いや、ハァ?」

 魔力? 魔核?

 立て続けにサバトの口から発せられる新出単語の数々に付いて行けず、俺は間の抜けた声を上げる。多分、アホな顔をしていたと思う。

「ああ……そっか。最初から説明しないと……」

 そう呟き、サバトは物憂げに髪をかき上げた後、小さく溜息を吐いた。

「クラゲ君、私は――魔女よ」

「……は?」

 諸君、中二病という言葉を知っているだろうか。それなりに有名だから知っている人も多いと思う。中二病というのは、中学二年生くらいの時期に発症する(それ以前の場合も、それ以降の場合もあるため、人によって発症時期はまちまち)病気っぽいもので、自分は他人とは違う特別な存在である、と思い込んでしまう病気である。中二病患者の多くは、自分にコテコテの設定を作り上げてしまう。例えば、自分の前世は戦士であり、現代に復活した魔物と戦うために前世の仲間を集めなければならない……とかである。中にはコスプレまでしてしまう程凝った中二病患者もおり――――

「今、失礼なこと考えてるでしょう?」

「いいえ全く」

 過去に、オカルト系雑誌の投稿欄に「私と前世で共に戦った記憶がある方、ご連絡下さい」などの投稿をしてしまう中二病患者が続出し――――

「中二病ですねわかりますって目してるわよ」

「目は口ほどにものを言いますもんね」

 軽くどつかれた。

「良い? この世に魔女はいて、魔術は存在する。魔人のような化け物が存在するのだから、それくらいいてもおかしくはないでしょう?」

 とは言われても、にわかには信じ難い。魔人の存在は信じざるを得ない。実際に俺はこの目で見、その上殺害までされている。そう、この目で見ているのだ。

 この目で見た物しか信じない、という主義ではないが、やはり魔女や魔術の存在を簡単に肯定する気にはなれない。

「魔術が存在する証拠は、貴方が今生きている……ということ」

「あ……」

 魔術。

 一度死んだハズの俺が、こうして無事生きている――否、生き返っているという事実を裏付けるには、魔術という突飛な存在は十分だった。

「貴方の体内には今、魔核と呼ばれる魔力の塊が埋め込まれている。魔力っていうのは、魔術を使用する際に使われるエネルギーのことよ」

 そんなことは語感でわかる。ゲームでいうMPみたいなものだろう。

「まあ、気とかそういうのと同じ類の力よ。厳密に言うと違うのだけど」

「俺はその魔核とかいう魔力の塊のおかげで生きてるってことか?」

「そう。貴方の身体は、生命活動が止まった時点で生命エネルギーが生成されなくなった……。人間は生命エネルギーで活動しているのだから、生命エネルギーの生成されなくなった身体は死体」

「生命エネルギーって……」

 信じられない、と言わんばかりの表情を見せる俺をよそに、サバトは言葉を続けた。

「今の貴方の身体は生命エネルギーが生成されない状態になってる。でも、今は魔核の魔力が生命エネルギーの代替になってくれてるから、貴方は今生きてるってワケ」

 いや、生きてるってワケとか言われても。

 どうも胡散臭い話だが、仮に死んでいなかったとしても一度致命傷を負った俺がこうして無事に生きているということだけは、信用しても良いのかも知れない。


 その先のサバトの説明を簡単にまとめると……この世界には、魔術が存在する。一部の人間は体内に魔力を宿しており、その魔力を活用し、奇跡を起こす技術……魔術を扱うことが出来る。もうここまでくると何でもアリである。

 その魔術を利用し、この世に生まれたのが――魔湖。魔湖は、負の魔力が蓄積されたプールのような存在で、負の魔力が大量に混ざった、正確な位置すらわからない魔の湖らしい。そしてその魔湖から生まれたのが――

「魔人」

「魔人……ね」

 先程、俺を殺した魔人の姿が俺の脳内で鮮明に蘇る。

 人の形をした、人ならざる存在。

「その魔人へ対抗するため、各地の魔術師達が集まって出来たのが……対魔人結社。通称、結社よ」

「名前はないのか? ショ○カーとか、ゴ○ゴムとか」

「あくまで、結社よ。っていうかショ○カーもゴ○ゴムも悪の組織じゃないの」

 結社と言われると、ついつい秘密結社を想像してしまう。

「私は、その結社からこの町の魔人を討伐するために来たのよ」

「なるほど……ね」

 まず殺されて、蘇生する、というあまりにも常識からぶっ飛んだショッキングな出来事に出くわしているため、もうあまり驚く気になれない。

「それで、サバトは俺に何をしてほしいんだ?」

「私が貴方にしてほしいのは、魔人を殺すこと」

 静かに頷くと、サバトはそう答えた。

「魔人を……ッ」

 魔人を、殺す。それは、俺を殺した化け物を殺すということだ。

「無茶言うなよ! 俺に魔人が殺せるわけないだろ!」

 無茶苦茶だ。それじゃあもう一度死に行けと言っているようなものだ。サバトがそうしてくれと言ったって、折角助かった命をまた無駄にするような真似はしたくない。

「貴方の体内に、魔核を埋め込んだ……と言ったわよね?」

「あ、ああ」

 俺が頷いたのを確認すると、サバトはクリクリと自分の長い髪を指先でいじくり始めた。癖なのだろうか。

「魔力を一切持たない、一般的な人間の身体だった貴方に、魔力の塊である魔核を埋め込むのは正直な話、かなり困難だった」

 でも、と付け足し、サバトは話を続ける。

「私が魔術で何とか魔核を貴方の身体に順応させたわ。その結果、私の魔力は今枯渇している状態なの」

「サバト……」

 自分の魔力を犠牲にしてまで、赤の他人である俺を蘇生させたというのか。

 サバトからすれば赤の他人である俺が魔人に殺された直後に、たまたま居合わせただけだというのに、サバトはわざわざ蘇生させたというのだ。簡単に出来ることならまだしも、自分の魔力を犠牲にしてまで。

 そうそう、出来ることじゃない。

 改めて、サバトに対して感謝の念を抱かずにはいられなかった。

「私がこの町に来たのは、最近この町に出没し始めている魔人を殺すため。でも、魔力の使えない私はただの人間と変わらない、だから――」

「体内に魔核を持つ俺に、魔人と戦えってことか」

 なるほど理にかなっている。

 俺が体内に宿している魔核は、サバトの説明によれば魔力の塊らしい。つまり今の俺は、ただの人間じゃない、体内に魔力を宿した――魔術を扱うことの出来る存在だ。

「理由はわかった。でも、俺じゃ魔人は殺せない。いくら魔力を持ってたって、俺には魔術の使い方なんてわからない」

 一度死んで、魔核を埋め込まれて蘇生したことを除けば、俺はただの一般人だ。魔力を持っていたところで、使い方がわからなければ持っていないのとほとんど変わらない。

 豚に真珠。猫に小判。

「その点については大丈夫。貴方でも魔人と戦えるようになるものがあるから」

 そう言い残すと、サバトはすぐにこの部屋を後にした。それから一分と経たない内に、部屋の中へと戻って来る。

「これ」

 そう言って、サバトが俺へ差し出したのは一本の剣だった。漫画やゲームでよく見る、西洋風の剣。

「これで戦えっていうのか?」

「ええ」

 長さは適当に見積もって、一メートルあるかないかくらいだ。装飾は簡素なもので、宝剣だとか伝説の剣だとか、そういった類の剣には見えない。

「魔人には、普通の武器は効かない。いえ、ダメージを与えることは可能だけれど、完全に消滅させることは出来ないわ。例え核兵器を使ったとしても、魔力を伴わなければ完全に消滅させることは不可能よ」

「核兵器って……」

 核兵器。すぐに連想したのは原子爆弾だった。広島と長崎を焼き尽くしたあの、最悪最凶の兵器。町一つ平気で焼き尽くすような代物でも、魔人を完全に消滅させることが不可能だと言うのか……。

「それじゃあ、この剣は魔力を伴ってるってのか?」

 俺の問いに、サバトはええ、と頷いて見せた。

「私の創った、対魔人武器リルカ。それがその剣の名前よ」

 リルカ……なんだか女の子の名前みたいだった。しかし、武器に人の名前が付いているのは別に珍しいことじゃない。ちょっと調べればいくらでも出てきそうなものだ。

「リルカは、使用者の魔力を利用して力を発揮するわ。だから、貴方のように魔力の使い方がわからなくても、戦うことは可能よ。」

「可能ったって……俺はただの高校生だぞ! 武器と魔力があったところで、戦い方なんかわかんねえよ! 格闘技やってたわけでも剣道やってたわけでもねえんだぞ!」

「それもそうよね。だったらこれから、私と訓練しましょう。魔力は使えなくても、私結構強いのよ?」

 そう言って微笑み、サバトは小さく溜息を吐くと、真っ直ぐに俺を見た。

「私が復帰するまでの間、魔人の討伐……やってもらえるかしら?」

 真摯な眼差しで、サバトは俺を見据えた。そこに「強制」だとか「無理矢理」だとか、そういったものは一切感じられなかった。

 あくまで、やれるか否かを問うている。

 俺がここで「出来ない」と答えれば、サバトはそのまま俺を帰して、一人でも何とかして戦うだろう。そんな確信が、不思議と俺の中にはあった。

「……わかったよ」

 ボソリと。呟くように答える。うまく聞き取れなかったのか、サバトはえ? と聞き返す。

「それでサバトへ恩が返せるなら、俺はやる。魔人とでも何でも、戦ってやる」

 サバトの真摯な眼差しに対抗するかの如く、真剣な目で俺はサバトの目を見据えた。

「でも、サバトが復帰するまでだからな……」

「……ありがとう」

 そう言って、サバトはニコリと微笑んだ。



 サバトから渡されたリルカを右手に、俺は早歩きで帰路に着いていた。左手には、サバトが拾っておいてくれた俺の鞄。

 夜中、剣片手に血だらけの破れた制服でふらふら歩いている男子高校生。異様な光景だった。

 俺が寝かされていた部屋はサバトが借りているアパートの一室で、俺の家からそう遠くない位置にあったため、そこから家に帰るのは容易だった。

 距離も短いし、こんな夜中だ。剣を持った高校生が歩いていても、気付かれる可能性は低いだろう。

「魔人……ねえ」

 呟き、片手に持っている剣へ目をやる。

 突如現れ、俺の命を奪った化け物――魔人。その魔人と、この剣でこれから戦わなければならないのかと考えると、少し怖くも感じる。しかしそれでも、俺は魔人と戦わなければならない。俺がうっかり死んだりさえしなければ、サバトの魔力が浪費されることはなかったのだ。それなのに、サバトはわざわざ膨大な量の魔力を使ってまで俺を蘇生した。その恩には、必ず報いるべきだ。とは思うのだが、あの化け物と素人の俺が剣一本で戦わなければならないと思うと、やはり不安で仕方がない。こんな状況に立たされれば、誰だってそうだろう。

 魔人と戦うには、魔人に出会う必要がある。サバトの属している組織――結社は既に魔人を探知するシステムを開発済みらしく、魔人が出現すればすぐにでもわかるらしい。サバトは、魔人出現時に結社から携帯へ送られてくる通知メールを見て魔人の出現を知るようだ。そのメールが届き次第、サバトは俺の携帯へ連絡をくれると約束してくれた。

 それに、俺があずかったこの武器、リルカにも魔人探知機能は簡素だが付いているらしい。

「探知機能……ホントに付いてんのか?」

 訝しげな表情で、剣を眺めるが探知機能が付いていそうな部分は見当たらなかった。



 自宅へ到着した頃には、既に時刻は午後九時前。夕飯時なんてとっくに過ぎている(俺の中では)時間だ。

 家へ無事帰れたことに安堵の溜息を吐き、すぐに家の鍵を開け、中へ駆け込むようにして入る。中は真っ暗だったが、見慣れた家の中が俺に安心感を与えてくれた。

 誰も、いないけれど。

 携帯を確認すると、久美姉からのメールが大量にきていた。どうやら心配してくれていたらしく、俺の安否を問うメールばかりだった。俺がすぐに「大丈夫、今帰った」と返信すると、一分と経たない内に久美姉から返信があった。相当心配してくれていたらしく、本当に申し訳なかった。

 その後、風呂を沸かすのは億劫だったのでシャワーで済まし、久美姉が今朝置いていった「マジ天全開! ~恐怖の夏場おでん~」を温めて食べた。暑くて仕方ない中、熱いおでんを食べるのは新手の嫌がらせかと思ったが、つい先程まで非日常の中にいたせいで、こんな大したことのない……俺にとっての日常を感じさせてくれるこのおでんが、妙においしく感じられた。

 就寝用のジャージに着替え、今日は何もせずに寝ることにした。まだ色々頭の整理が付かなくて、ゲームなどやっている余裕はないし、テレビなんて見ても今は楽しめないだろう。

 剣を机の傍に立て掛け、とりあえず俺は今日一日の疲れを癒すことにした。

 今はとにかく休みたい。色々考えるのは、明日で構わないだろう。

 目を閉じると、すぐに眠りへつくことが出来た。





 何か温かみを感じて、俺は目を覚ました。時計を見ると七時三十五分。

 とりあえず、感じた温かみの正体を確かめるため、ベッドの中をまさぐってみる。すると、サラリとした何かが右手に触れた。まるで髪の毛のような、そんな手触り。

「髪……?」

 俺の右手に触れた物、それは金色の長い髪の毛だった。俺の髪は黒だし、こんなに長くはない。

「………………は?」

 かけていたタオルケットをはぐり、事態の異常さにやっとのことで気が付いた。人間、寝ぼけていると判断力が極端に落ちるものだ。

「すぅ……すぅ……」

 小さな、かわいらしい寝息。

 心地良さそうな寝顔。


 金髪のかわいらしい少女が、俺の身体へ抱き付くようにして眠っていた。しかも全裸で。


 見た目は非常に幼く、小学校低学年くらいにも見える。ストレートロングの金髪なのだが、何故だか腰の辺りでクルンと左右にカーブしている。発育は見た目通りあまり良くないが、一糸まとわぬその姿は、なんだか犯罪的である。

「いや……ないないこれはない」

 あり得ない。

 嘆息し、夢だと信じて目を閉じる。

「んあ……」

 俺が目を閉じて数刻。目を覚ましたのであろう少女の声がすぐ傍で聞こえる。いや、夢だしね、うん。

「ここどこ……?」

 ボンヤリとした声で呟く少女。

 夢ですよ、キコナスですよここは。と、とりあえず心の内で答えておく。

「そっか! クラゲん家か!」

 クラゲ。今この子クラゲとおっしゃいましたか。

「おい、起きろクラゲ! おはよう!」

 何だか楽しげな声で、少女は俺をユサユサと揺さぶる。いや、起きるも何も夢ですし。

「起きろー!」

 次の瞬間、俺の顔面に少女の小さな拳が食い込んだ。

 痛ぇ。夢じゃねえ。

「痛……ッ! 何し――――」

 目を開き、身体を起こして少女を見る。言葉を言いかけで止めたのは、彼女が引き続き全裸だったからだ。すぐに俺は目を逸らす。

「おはようクラゲ!」

「初対面でクラゲ呼ばわりはねえだろ」

 っていうか服着ろ。

「え? サバトはお前のことクラゲって呼んでたぞ」

「サバトって……お前、サバトを知ってるのか?」

「知ってるも何も、私を創ったのはサバトだぞ」

 創ったのは……サバト? だとしたら……!

 すぐに、昨夜寝る前に机へ立て掛けておいた剣の方へ視線を移す。しかし、そこに剣は立て掛けられていなかった。

「まさかお前……昨日サバトに渡された……」

「ああ、リルカだ!」

 意気揚揚と、彼女はそう言い放った。

 っていうか服着ろ。



 彼女……リルカの説明はこうだった。

 サバトの創り出した対魔人武器リルカは意思を持つ剣で、今の状態――人間の姿になることが可能らしい。そしてリルカは基本的に、この姿でいるのだという。

 とりあえず全裸はまずいので、俺のシャツを適当に着せておいた。ぶかぶかなので何だかワンピースみたいだ。

「お前の説明通りだと、お前は昨日俺がサバトに渡された剣……リルカで間違いないんだな?」

「おう、その通りだ!」

 満面の笑みを浮かべ、なんだか嬉しそうにリルカはそう答えた。

「クラゲ、よろしくな!」

「あ、ああ……よろしく」

 そんなやり取りをしていると、下の階から足音が聞こえる。父さんはまだ帰って来られないハズだし……。

 そういえば、昨日の夜は鍵を閉めていなかった気がする。

「月人ー、いるー?」

 久美姉の声だった。

 いつものように朝食を持って来たは良いが、インターホンを押しても俺からの返答がなく、不審に思った久美姉は鍵が閉まっていないことに気が付き、中へ入って俺の安否を確認しようと思ったのだろう。

「って、今来られるのは……」

 まずい。非常にまずい。

 一人焦る俺の目の前、リルカはキョトンとした表情をしている。

「クラゲ、どうした?」

「リルカ、とりあえずお前今すぐ剣に戻れ」

 リルカが答えるよりも先に、階段をドタドタと上がって来る音がする。

「月人ー」

 まずい。部屋まで来る……!

「リルカ、早く!」

「く、クラゲがしたいって言うなら……」

「何をだよ!」

 と、俺がリルカへ怒鳴りつけるのとほぼ同時に、部屋のドアはガチャリと開かれた。

「月――」

 ピタリと。久美姉が動きを停止させた。その顔に表情はなく、ただジッとこちらを見つめている。無表情だった顔には、徐々に怒りの色が映されていき……

「月人っ!」

 勢いよく、久美姉は俺を怒鳴りつけた。

「そんな小さな女の子連れ込んで……セ、セ、セ……」

「いや違うから。ロリコン違うから」

「年端もいかない女の子を……」

「ロリコンじゃないよ」

「酷い、酷すぎる……! 警察に連絡を――」

「ロリコンジャナイヨ」

 ダラッダラ流れ出る冷や汗が不快だったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。

「久美姉、これには大いなる誤解があってだな」

「クラゲー早くー。しないのかー?」

 やや不満げな表情で、両手でシーツをパンパン叩きながらリルカが、更なる誤解を招きそうなお言葉。

「なあリルカちゃん。誤解を招くような冗談はやめよう、な? お菓子あげるから」

 うっかり付け足した言葉が変質者全開だった。

「えー、クラゲがするって言ったのにー」

 うわあ。俺が何をするって言ったのさ?

「や、やっぱり……!」

 口元に両手を当て、久美姉はまるで危ない物でも見るような目で俺を見た後、すぐに携帯を取り出してボタンを押し始める。

「えっと……5、5、5……!」

「落ち着け久美姉、変身する気か。警察は110だ」

 っていうか連絡しないで下さいお願いします。



 何とか久美姉を説得し、とりあえず久美姉とリルカを連れて朝食がてら食卓へ。今日の久美姉はおかずとして焼き魚を持って来てくれていた。タッパーに入れて米まで持って来てくれたので、ご飯と焼き魚でおいしくいだたくことにした。一応米はリルカの分も用意し、焼き魚は半分ずつ食べることにした。

「おい、リルカ」

「何だ?」

「今から俺が久美姉にお前のことを説明するから、お前は黙ってろよ?」

「わかった。リルカ黙ってる」

 そう言って唇を結び、得意げな表情を見せ、すぐにリルカは黙々と焼き魚を食べ始める。金髪だからパン派かと思った(俺による独断と偏見)が意外にそうでもないらしく、箸を器用に使って焼き魚を米と一緒に食べている。

「久美姉。実はこの子……」

「隠し子?」

「最後まで聞けよ」

 というか普通に俺の年齢から考えて隠し子はないだろ。

 マジ天。

「実はな、この子……リルカは、父さんの友人である外人のジョニーさんの娘さんなんだ」

 勿論、出任せだ。隣でリルカが怪訝そうな表情を見せたが、黙ってろと言われたのを忠実に守っているのか、何も口を挟もうとしない。

「ジョニーさん、妻に逃げられた挙句会社をクビになってな……リルカを養う力がなくなってしまったんだ……」

「ジョニーさん……」

 あれ、久美姉真に受けてる。

「だから、ジョニーさんの働き口が見つかるまで、俺が預かることにしたんだ。リルカが俺のシャツを着てるのは、着替えがなかったからだ」

 着替えがないというか、元々全裸でしたけどね。

「わかってくれるか? 久美姉」

 俺の言葉に、久美姉は涙を拭いつつ静かに頷いた。

 ……えー。

「リルカちゃん、服ないの?」

 涙を拭いきった久美姉は、リルカの傍まで近寄ると、リルカの視線に合わせるために耐性を低くし、優しく問うた。

「……」

 しかし、リルカは黙ったまま答えない。久美姉の方を見てはいるのだが、一向に口を開こうとしない。

「おい、リルカ」

 名前を呼んでも返事をしない。と、そこでリルカが返事をしない理由に気が付く。

「リルカ、喋って良いぞ」

「クラゲの嘘吐きー」

「第一声がそれか」

 まあ、嘘吐きだけど。

 俺がすぐ傍で口から出任せの嘘を並べる姿に対して、リルカなりに思うところがあったのだろう。やや不満げな表情で、リルカは俺を見つめている。

「それでリルカちゃん、服ないの?」

 久美姉の問いに、リルカはコクリと頷いた。

「それじゃあ、ちょっと待っててね」

 そう言って久美姉はリルカへ微笑みかけると、パタパタと慌しくその場を後にした。やがて、バタンとドアの閉まる音が、玄関から聞こえてくる。

「嘘吐きー」

 俺が嘘を吐いたのが気に入らないのか、まだ不満げな表情でリルカは俺を見つめる。

「確かに嘘吐きだが、久美姉に魔人だの魔女だの説明して、わかると思うか?」

「うぅん……」

「な? 無理だろ?」

「そこは気合で」

「何故ここで根性論を……」

「合気で」

「技かけてどうすんだよ」

 俺があの時、魔女だの魔力だの魔人だのと簡単に信じることが出来たのは、実際に魔人を見てソレに殺され、その後蘇生したからだ。普通、それくらいのことがないとあんな突飛な話は信じられない。

「とにかく、普通はあんな話は信じてもらえないから、ああして嘘を吐くしかなかったんだよ」

「そっかー」

 いやに納得した様子で、リルカはコクコクと頷いた。

「お待たせー」

 ドアの開く音と共に、久美姉の声がこちらまで響いてくる。

 久美姉が持って来たのは、大き目の紙袋だった。中には服が大量に入っており、ナイロン袋に入れられたサンダルや靴なんかも入っていた。一目で、久美姉のお古だと見て取れた。

「はいこれ、リルカちゃんの服」

 久美姉が紙袋を差し出すと、リルカは嬉しそうに表情を明るくし、紙袋を受け取ってギュッと抱き締めた。

「ありがとなー!」

 はしゃぐリルカを見つつ、俺と久美姉は目を見合わせて微笑した。



 遅刻確定。リルカが服を受け取った時点で、既にホームルーム開始十分前だった。

 リルカを学校へ連れて行くわけにはいかないので、昼食を用意して家で待機させることになった。昼食を用意するのに手間取り、結局俺と久美姉が学校へ向かったのは一時間目が始まった頃だった。

「アイツ……大丈夫かな」

 急いでも仕方ないので、ゆっくりと学校へ向かいながら呟く。

「そうだねえ……。ちょっと心配かな」

 リルカの安否を確認するかのように、久美姉は後ろを振り返ったが、すぐに視線を前へ戻す。

「脱走しなきゃ良いけどな」

「ペットじゃないんだから……」

「ああ、ボトルではないな」

「いや、そうじゃなくてね……」

 マジ天の久美姉だと、どうもツッコミのテンポが微妙だった。

 まあ、どうでも良いけど。



 ボンヤリと。特にすることもなく、薄手の白いワンピース一枚という涼しげな格好で、リルカは月人のベッドへ寝転がっていた。

 時計を見れば、午後一時半。昼食をとり、満腹になったリルカは月人のベッドで昼寝をしていたのだった。

「クラゲまだかなー」

 独り呟き、枕へ顔を埋める。

 もうこの家の中は探索し切ったし、大してすることはない。

「ひーまー」

 ベッドの上でゴロゴロと転がるが、退屈であることに変わりはない。

「あ」

 ゴロリとベッドから転がり落ち、床へ背中から激突。背中を強かに打ったリルカは、呻き声を上げつつ、身体を起こして背中をさすった。

「……ん?」

 ふと、ベッドの下を見ると、詰まれた小さめのダンボールの上に、何か雑誌が挟まっているのを発見した。

 ――――良いかリルカ。俺の部屋の中を勝手に漁るんじゃないぞ。

 脳裏を過ぎるのは、出かける前に月人が言っていた言葉。雑誌へ伸ばしかけていた右手を、ピタリと止める。

「う……!」

 見たい。

 そこに挟まっている雑誌が一体何なのか、確認したい。こんな所に置いてあるのだから、きっといらないのだろう。いらない雑誌を、捨てるのが億劫でベッドの下に置いているに過ぎないのだろう。

 いらない物なら、別に漁っても構わないだろう。

 リルカの右手は、その雑誌に向かって伸ばされた。

「ちょっとだけだ……ちょっとだけだから……」

 まるで呪文のように唱えつつ、リルカはその雑誌を引き抜いた。簡素な作りの、コンビニなどでよく売っている雑誌だった。

 コンビニへは昔、サバトと一緒に行ったことがある。この雑誌と似たようなものを、リルカはその時に見た記憶がある。

「ろりろり天国……?」

 いかがわしいその雑誌のタイトルを読み上げ、中をゆっくりと開く。そこには、年端もいかぬ少女達が、あられもない格好で怪しげなポージングをして写っている。いくつかモザイクのかけてある部分があり、見えにくい所があったが、構わずリルカはページをめくっていく。

「これは……」

 訝しげな表情で、雑誌の一ページを眺め、やがて何かに気付いたかのように、リルカは表情を明るくする。

「そうか! 図鑑だな!」

 馬鹿だった。



 先程ベッドの下で発見した雑誌を月人の机の上に置くと、リルカは再び退屈の中へ戻された。月人が帰宅するのは午後四時くらいだと言っていた。今午後二時なので、後二時間は待つ必要がある。

「そうだ。学校、行こう」

 まるで京都にでも行くかのようなノリで、思い立ったリルカは早速下の階へと下りて行く。そして置きっ放しにしている紙袋の中から、ピンク色のサンダルを取り出して玄関で履いた。

「クラゲのいる学校は……」

 位置などわからない。だが、家の中で待ち続けるのも退屈で仕方がなかった。

「誰かに聞けば良いかー」

 呟き、リルカは鍵もかけずに玄関から飛び出した。

「うわぁ……!」

 そこに広がっていたのは、外の世界だった。昨夜も見たには見たが、剣の状態だったし、暗くてよく見えなかった。しかし今は、人の姿で明るい外の世界を自由に歩き回れる。サバトと一緒にいる時は、こんなに明るい時間に外を自由に歩き回ったことはなかった。

 涼しい風が、ワンピースの裾を揺らした。

「よぉし……」

 何だか楽しくなってきたらしく、リルカは満面の笑みを浮かべると、特に何も考えずにその場から駆け出した。

 偶然、その進行方向は、学校へ向かう方向であった。

 しばらくそのまま走り続け、不意に誰かへぶつかる。

「おっと」

 ぶつかった相手は、恰幅の良い中年男性だった。ハゲではないが、全体的に髪は薄く、生え際も何だか危なっかしい感じだった。

「む、すまん!」

 リルカは数歩後退し、ペコリと頭を下げて謝罪の意を示す。それに対し、男性はニコリと微笑んで良いよ、と答えた。しかしそこで、頭を下げた状態のままリルカは訝しげな表情をする。

 ――――人じゃない……?

 対魔人武器であるリルカには、傍にいる人間の形をしたものが、人間であるかどうかくらいは容易にわかる。そのため、その男が魔人であることくらいはすぐに見抜くことが出来た。

 しかし、クラゲのいない今では、戦うことは出来ない。向こうもこちらを敵だと認識していない限り、襲われる可能性はあまり高くない。

 気付かない振りをするのが無難だろう。

「それじゃお嬢ちゃん……またね」

「お、おう」

 ややぎこちない返事だったが、男性はあまり気にしていないようだった。

「そういえば、学校ってどこだかわかるか?」

 そう、男性へ問うてみる。相手は魔人だが、質問にくらいは答えられるだろう。元々は好奇心だったが、今この男――魔人と出会ったことを月人へ伝えなければならない。故に、学校へ向かう理由が出来た。

「学校……。蔵咲高校なら、そこの建物だよ」

 そう言った男性の指差す方向へ視線を向けると、そこには確かに学校らしき建物が存在した。

「おー。ありがとな!」

 そう言ってリルカが微笑むと、男性もそれに微笑み返した。



 蔵咲高校の中へと入って行く少女の背中を見つめ、男は右手を彼女の背中へかざす。

 ぐにゃりと。男の右腕が気味悪く変質し始める。膨張と収縮を繰り返し、全く別の形へと変形する。まるで粘土細工のようだった。徐々に腕は伸びていき、鋭く尖っていく。

 鋭く尖った、針を拡大したかのような右腕。その右腕には、灰色の蔦のような物が巻き付いていた。

「いや、やめておくか」

 呟き、男はその右腕を降ろす。と同時に、再び先程と似たような変化が腕に訪れ、やがて元の形へと戻る。

「今日は殺しの日じゃない……」

 ククッと不気味に笑い、男はその場を後にした。





 リルカという不安要素を抱えたまま、俺はなんとか五時限目を終えた。とは言え、五時限目は半分以上キコナス(夢の町)にいたので、意外と早く終わったように感じられた。

「大丈夫かな……」

 呟くが、今の俺にリルカの様子を確認する術はない。次の授業、化学が終わって家へ帰らないことには……。

 リルカの安否が心配――否、リルカの安否だけではない、家の中の安否も非常に心配だ。特に自室のベッドの下にあるヘブンを見られると困る。非常に困る。あそこに今収められているのは沢田に借りた(正確には、半ば強引に渡された)とある雑誌だ。リルカだろうが誰だろうが、アレを見られるのは非常にまずい。俺の性癖が本格的に疑われることになる。

 一人で暮らしているとはいえ、ああいう物はやはり隠しておきたいし、あの家は久美姉が頻繁に出入りするのだ。何かの拍子に見つかれば、マジ天の久美姉はきっと今朝のように突拍子もない想像をして、妙な説教を俺にするだろう。出来れば……いや、出来なくても勘弁してほしい。

「天海君……そろそろ化学室、行かないと」

「ん、ああ」

 白井の言葉にそう答え、俺はすぐに教科書等を机の中から取り出し、席を立つ。教室の入り口では、沢田と大宮が喋りながら待ってくれている。

「お、クラゲー。さっさと行こうぜー」

「おう、今行く」

 教室を出、化学室へ向かおうと歩き出した時だった。

「あ」

 前方に、一人の女の子がいた。

 目立つ金髪の女の子で、真っ白なワンピースを着ている。何だか昔、久美姉が着ていたワンピースとそっくりだ。

「クラゲー!」

「……」

「やっぱりここにいたんだな!」

「…………」

「捜したんだぞクラゲ!」

 間違いなくリルカだった。

 あれだけ家で待っていろと言っておいたハズなのに、リルカは平然と家を抜け出し、あろうことかこの蔵咲高校まで来てしまっていたのだ。

「沢田、俺ちょっと化学の授業抜けるわ」

「う、うん。それよりクラゲ、あの幼女は一体……」

 沢田の言葉には答えず、俺は素早くリルカの元まで駆け寄ると、その華奢で小さな身体を抱え込み。

「すいませーんちょっとどいて下さーい」

 集ってきた野次馬共を掻き分け、校舎の外へ全力で駆け抜けた。

 多分今記録計ったらいつもよりすごいと思う。いや、マジで。



 キョトンとした表情で、沢田達は走り去っていく月人の背中を見つめていた。

「一体どうしたんだ……クラゲの奴」

「さあ?」

 訝しげな表情で呟く大宮に、沢田は肩をすくめて見せる。他の生徒達も似たような会話をしながら、月人の走り去った先を見つめている。

「天海君……」

 ひどく狼狽した様子で、白井佑香は呟いた。月人の連れて行ったあの少女が一体誰だったのか……。佑香にとっては何よりもそのことが気にかかる。

「まあいいや、行こうぜ」

 沢田に促され、三人は先程のことを気にしつつも化学室へと向かった。



「あれだけ家で待っていろと、口をすっぱくして言っただろ!」

「クラゲ、すっぱいのか? リルカもすっぱいのは苦手だ」

「そうじゃねえよ」

 あの後校舎を抜け出し、人気の少ない校舎裏までリルカを連れて全力で駆け抜けて来た。途中で何人かに目撃されただろうが、もう過ぎたことを悔やんでも仕方がない。とりあえず今は、目の前の阿呆をどうにかしなければ……。

「今すぐ帰れ。ここは危険だ」

「危険? 何かいるのか?」

 不思議そうに、小首を傾げてリルカは問うた。

「ああ。ここには、朝は足が四本、昼は二本、夜は三本に変わる化け物が住んでいてな、人の言いつけを守らずに学校へ来た子供を、何かよくわからない力で爆破して殺す」

「魔人か!?」

 答えは人間です。

「魔人じゃない。学校の神様だ」

「神様……」

 心底驚いた、と言った様子で目を見開くリルカ。どうやらこんな大嘘を信じているらしい。馬鹿だろコイツ、小学生でももっとマシな嘘吐くっつの。

 マジ天。

 嘘を吐いたことに多少の罪悪感はあるものの、今はこうやって騙してでも家に帰らせなければならない。

「わかった……すぐ帰る……。でもクラゲ、一つ言わなきゃいけないことがある」

「何だ?」

 俺が聞くと、リルカはしばらく考え込むような仕草を見せ、何だっけ? と呟きながら首を傾げ、うんうんと唸り始める。かわいらしいと言えばかわいらしいのだが、出来るだけ早くしてほしい。抜けるとは言ったものの、出来れば化学の授業を欠課にはしたくない。

「あ、そうだ!」

 やっとのことで思い出したらしく、リルカは両手を胸の前でパンと叩いた。

「クラゲ、学校内に魔人がいたぞ」

「な――――ッ」

 対魔人武器。魔人を探知する能力は本当にあったらしい。

 しかしあんな目立つ化け物が……学校のどこに?

「リルカ、どこにいたんだ!?」

「わからない……。気配はわかるけど、正確な位置まではわからないんだ」

 昨夜、俺を殺した化け物……魔人。あの化け物が、学校の中に潜んでいるというのか。だとしたら、やはりあの連続殺人犯はあの魔人でほぼ確定だろう。これまでの三人の被害者、そして四人目の被害者――俺。

「魔人が校内に潜んでいて、俺達を狙っている……って可能性はあるだろうな。昼間に襲わないのは目撃されるのを避けてのことか……」

「うぅん……」

 再び、首を傾げてリルカは唸り始める。

「どうした?」

「何かまだ、クラゲに言わなきゃいけないことがあったような……」

 物忘れ激しいな。おばあちゃんかお前は。

 しばらく待ってみるものの、リルカは一向に思い出す気配がない。やがて諦めたのか、まあ良いか、とリルカは楽観的な表情で呟く。

「思い出せないってことは、大したことじゃないのかも知れない!」

「一理あるが、魔人関係のことだったらちゃんと思い出せよ」

「おう!」

 自信満々の表情で頷いているが、本当に大丈夫なんだろうかコイツは……。

「とりあえず、一旦帰れ。俺も授業とホームルームが終わったらすぐ帰る」

 俺の言葉に、リルカは納得したようにコクリと頷くと、じゃあな! と元気に挨拶して正門の方へと駆けて行った。

「……ふぅ」

 嘆息し、リルカの背中を見つめる。とりあえずリルカは家に帰したが、問題はこれからだ。

 リルカのことを、教師達や沢田達に説明しなければならない。





 リルカに関する説明は実に簡素なものだった。知り合いの外人から預かっている子供、ただそれだけだ。しかし、これを説明したのは沢田達にだけで、教師達には説明をしていない。というか、関係あるということを明言していない。

 リルカ出現時、俺が彼女を抱えて連れ去ったという目撃証言はいくつかあったらしいが、知らぬ存ぜぬの一点張り。無理矢理に人違いだということにしておいた。教師の方は半ば呆れ気味だったが、どうにか信じてくれたようだ。

「という風に、お前のおかげで俺は色々大変だった」

 午後六時五十分。俺とリルカは学校へ向かっていた。

「マジかー」

 こっちは大変な目に遭った、という話をしているのに、俺を大変な目に遭わせた当の本人は、ぽけーっとした表情で適当な返事をする。

 生返事。

「まあアレだ。クラゲ、無事で良かった」

「ん、ああ……」

 校内に魔人。よく考えれば、俺達は校内に魔人が潜んでいる状態で平然と授業を受けていたことになる。昼間に襲って来る可能性が低いとはいえ、随分と危険な状態だったのは確かだ。

「学校の神様に食べられなくて、本当に良かった」

「そっちかよ」

「それとも、昼間は足が二本しかないから弱いのか?」

「足の数=強さにはならねえよ。それだとムカデは最強じゃねえか」

 ムカデ。百足。今のリルカの基準だと、マジで最強レベルの生物となり得る。

「それにしても……サバトは何で訓練の場所に学校なんか選んだんだろうな……」

「うーん……さあ?」

 小首を傾げるリルカ。

 俺とリルカは、サバトとの訓練のため、サバトが指定した場所――学校へと向かっていた。制服で行く気にはなれず、俺は薄手のシャツにジーンズというラフな格好で、リルカは昼間に着ていたワンピースのままだ。

 武器と魔力があったところで、戦い方を知らなければ意味がない。それじゃあ死にに行くようなものだ。正直な話、こんな時間に外に出て訓練だなんて面倒で仕方がない。しかし、だからって訓練をサボって魔人にぶっ殺されるわけにもいかない。サバトの要求を飲んだ以上、俺は魔人と戦わなければならない。今まで何度かこのままなかったことにしようとか、逃げれば良いんじゃないかとか、そんな考えが脳裏を過ぎったが、命を救ってもらっておいてそんな恩知らずな真似は出来るだけしたくなかった。

 学校の校門前に到着した俺とリルカは、塀にすがった状態でサバトの到着を待つことにした。

「クラゲ……眠い」

「早ぇよ。まだ七時前だぜ?」

 本当に眠いらしく、リルカはトロンとした表情でこちらを見ている。やがて耐え切れなくなったのか、塀にすがったままその場へうずくまってあくびをした。

「寝て良い?」

「左手で左肘を触れたら寝て良いぞ」

「わかった!」

 強く頷き、早速リルカは左手で左肘を触ろうと、必死に手首や肩、肘を動かし始める。しばらくそうし続け、やがて身体の構造的に不可能なことに気が付いたらしく、不満げな表情で俺の方を睨みつける。

「無理だー!」

 そりゃそうだろ。

「クラゲの馬鹿! ろりろり天国!」

「ろりろり天国って名前を罵倒に使うなー!」

 学校が終わった後帰宅し、自室へ戻ってみるとあらビックリ。ベッドの下のヘブンが俺の机の上へ普通に置かれていた。そんな間抜けなことをした覚えはないので、すぐさまリルカの仕業だと判断した俺は、人の部屋を勝手に漁らぬよう厳しめに叱りつけておいた。こういうのは最初が肝心。最初の段階でなめられると、子供は調子に乗るって沢田が言っていた。アイツ兄弟多いからなぁ……。

 それにしても、サバト遅いな……。サバトからの指定は七時ジャストに校門前だったのだが、既に五分も過ぎている。

「なあリルカ、お前って人間とほとんど変わらないよな」

 ふと、問うてみる。

「何が?」

「何がって、基本的に。元々剣だったなんて想像出来ねえよ」

 喋るし、動くし、食べるし、寝る。どう見たって人間だし、そうじゃないにしても生き物であることは確かだとも言える。

「リルカは、自分のことを人間だなんて思ったこと、一度もない」

 不意に、リルカは表情を曇らせた。

「やっぱりリルカは武器だし、生き物じゃない。物を食べるのだって、タダのエネルギー供給みたいなものだ……。リルカは、人じゃない」

 そう言ったリルカの表情は、今までの彼女からは想像出来ない程に寂しげだった。

 人。人の定義って、何なんだ。生物学的に人間なら人なのか、人の形をしていれば人なのか。結局、人って何だ。

 らしくもない、哲学的な思考。長続きせず、すぐに打ち切る。

「人だよ」

 ポンと。優しくリルカの頭の上に手を置いた。暖かい、人間の温もり。この温もりが、人の物じゃないなら何なんだ。

「人だ、お前は。誰が何と言おうが、俺はお前のことを人だと思ってる」

 妙な感じだった。

 今朝会ったばかりの、どちらかと言えば厄介物に近いリルカを、今たまらなく愛しく感じた。あんなにはしゃいで、あんなに無邪気で、ただの人間よりもよっぽど人間らしいのに、コイツ自身は自分を人じゃないと、否定している。そんなリルカが、何だか愛しかった。

「クラゲ……」

「お前は人で、俺の新しい家族だ。これから……よろしくな」

 他界した母、家にいない父。思えば俺は、久美姉が帰ると家ではいつも一人だった。おかえり、だなんて言葉、もう何年も家では聞いていない気がする。

 ――――クラゲ、おかえりー!

 今日の夕方、家に帰った俺へ、リルカが最初に言った言葉だ。当たり前のようだが、これがあるのとないのとじゃかなり違う。

 一人じゃないんだって、久々に思えた。

 だからだろうか、今朝出会ったばかりの彼女を、こんなに愛しく感じるのは……。

 新しい家族。

 まるで妹でも出来たみたいな気分だった。

「ありがとう、クラゲ」

 ニコリと。リルカが屈託なく笑った。


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