プロローグ「クラゲと死」
ズブリと。腹部を貫かれる感触。
何が起こったのか理解出来ず、目を白黒させつつ目の前の化け物と、化け物の腕によって貫かれた自分の腹部を、俺は交互に見た。
「コロ……ス……」
聞こえるのは、化け物の声。
すぐに理解する。
これから俺は、哀れにもここで死ぬのだと。
化け物が俺の腹部から腕を抜くと同時に、ドサリとその場に仰向けに倒れる。と同時に、そのまま意図せずに俺は空を見上げる。日の落ちかけた空はうっすらと暗く、所々に星々の輝きさえ見ることが出来た。
辺りは、静寂に包まれていた。
湯水のようにドクドクと、腹部から流れ出ている俺の血液。人間の体内にはこれ程までに大量の血液が詰まっているのかと、そんな悠長なことを、今から死ぬというのに考えた。
人間なんて、まるで血袋だ。
これまでの人生が、凄まじい速度で俺の脳裏を駆け巡る。噂に聞く、死ぬ前の意識状態。まるで走馬灯のように、ってやつらしい。
そういや俺は、何でこんな目に遭ってるんだっけ?
ボンヤリと思い出す。
そういえば、今朝は妙に暑かった。
倦怠感全開で、宿題以外の勉強はほとんどしなかったような夏休みは、あっという間に過ぎていった。正に光陰矢のごとし、人生は一秒足りとも無駄に出来ない。なんてことを理解しているのは頭だけで、身体の方はいつも気だるそうに、一秒一秒を無駄に過ごしている。
……やっぱり訂正しよう。頭の方もあまり理解していない。
グッとベッドの中で身体を伸ばし、ゆったりとした動作で身体を起こす。うん、今日も怖いくらい気だるい。その上、やたらと暑い。八月はもう終わり、休み明けテストも終わって完全に二学期……といった時期だというのに、暑さは止まることを知らない。
開き切らない目を右手でこすりつつ、俺は枕元に置いてある携帯の画面を確認する。時刻は七時三十分。どうやら今日は無事に起きられたらしい。
俺には、起こしてくれる親が家にいない。自分で起きるしかないのだ。
母は数年前に病気で他界、父はちょっと有名な俳優で、仕事の忙しさ故家にはほとんどいない。
結果的に俺、天海月人はこの広い家で一人暮らしをしている。
ベッドから降り、クローゼットから制服を取り出してノロノロと着替える。半袖カッターシャツのありふれた夏服。着崩すと泣く目に遭う(生活指導の丸本の手によって)ので、しっかりと着こなす。キコナス。カタカナで書くと何だかファンタジー系小説に出て来る地名みたいだ。
すごくどうでも良かった。
ポケットから折りたためるタイプの櫛を取り出し、机の上の鏡を見ながら髪を整える。邪魔にならない程度に切ってあったハズの髪が、もう目にかかり始めた。今度切ろう。
ある程度髪を整えると、俺は緩慢な動作で部屋を出て階段を下り、玄関まで来る。と、その時、我が家のインターフォンが鳴らされたらしく、ピンポーンという間の抜けた音(少なくとも俺には間抜けな音に聞こえる)が鳴り響く。
「はいよ」
気の抜けた返事とともに、ドアを開くと、そこに立っていたのはポニーテールの、制服姿の少女だった。青いチェックのスカートと半袖のカッターシャツ、カッターシャツには男子と違い、リボンが付いている。優しげな、おっとりとした垂れ目。俺よりやや高めの身長(ちなみに俺は普通くらい)は、女子としては高身長である。ポニーテールに結われた茶色い髪は、年に一度新任の先生と問題を起こす。地毛か否かの問題で。まあ、彼女のは地毛ですけどね。幼馴染の俺が言うんだから間違いない。
「月人、おはよ」
「おう」
彼女こそ、俺のお隣さんで幼馴染の佐野久美子さんである。同じ高校に通う二年生で、俺より一個上。何から何までお世話になりっ放しで申し訳なくなるくらい、俺は彼女の世話になってしまっている。いつか恩返しがしたい。
「朝ご飯、食べた?」
「まだだけど」
そう答えつつ、俺の視線は久美姉の手へくぎ付けだった。
なんかこの人鍋つかみ装着状態で小さめの鍋持ってる。鍋両手に持った状態でどうやってインターホン押したんだ久美姉。
それより、鍋って……。
「じゃあ、これ」
「先輩、これは何ですか」
「おでんです」
「オー先輩、今は夏だヨ」
「暑い時に熱い物を食べるのも乙なものだと思って」
例えそうだとしても、この夏場に朝からおでんはねえよ。
我が家の食卓まで久美姉を通し(ちなみにインターホンは一度鍋を地べたに置いてから押したらしい)、そのままキッチンへ向かわせる。キッチンへ着くと、久美姉は鍋の底を丁寧にふいた後、鍋に火を通し、中のおでんを温め始めた。
しばらくしてはい、という彼女の優しげな声と共に、机の上に出されたのは小皿に乗せられたハンペンやちくわだった。この蒸し暑い朝っぱらからホクホクと湯気を立てている。うっわスッゲー熱そう。
「久美姉、これは新手の嫌がらせか?」
「おでん、嫌いだった?」
いや、好きとか嫌いとかじゃなくてね。
本気で心配そうな顔してそんなことを聞いてくるものだから困る。久美姉はマジで天然入ってるから、全く悪気がないんだよなぁ……。
マジ天然、略してマジ天。
「いくら何でも、夏場のおでんは厳しいぞ久美姉」
「略して夏でん?」
「いや、略すとかの話じゃなくて」
俺も今さっきマジ天然を略したばっかだけども。
「夏ん?」
「更に略されても……」
「ナン?」
「略し過ぎてインドのパンみたいになってんじゃねーか」
まあ、良いか……。そう呟き、とりあえず箸でハンペンを口まで運ぶ。
「おいしい?」
「熱い」
「良かったぁ」
どこに良かった要素があったんだよ今。
マジ天なのはさておき、久美姉はよくこうして食生活が偏りがちな俺のために、朝食や夕食を持って来てくれる。というかほぼ毎日作りに来てくれる。今回のようなマジ天なケースもあるが、基本的にはまともな料理を持って来てくれるし、弁当まで作って来てくれる久美姉には本当に感謝している。夏場にアツアツのおでんは厳しいことには厳しいが、決しておいしくないわけではない。
喉元過ぎれば熱さを忘れる。言葉そのままの意味で。
「ごちそーさま。おいしかったよ」
皿に乗せられたアツアツのおでんを食べ終え、時計を確認する。八時五分。高校までは徒歩で十分程度だし、ホームルーム開始は八時三十五分だ。時間にはまだまだ余裕がある。
「じゃあ、私そろそろ鞄とか取って来るね」
「おう」
久美姉は鍋つかみを片手に持ち、そのままその場を立ち去ろうとする。が、その背中を、俺はすぐに呼び止める。
「ちょっと待て」
「なぁに?」
キョトンとした表情で、久美姉は振り返る。
「鍋、持って帰らないのか?」
「うん。月人におでんはあげる。お鍋は食べた後で返してね」
「……良いのか?」
「うん。月人が喜んでくれるなら」
いや、ありがた迷惑なんだけど。
「……今晩おでんかよ」
そんなことを呟きつつ、玄関の前で久美姉を待つ。待ち始めて数分もしない内に、鞄と袋に入った弁当箱を持った久美姉がパタパタと駆けて来た。
「はい、お弁当」
俺のすぐ傍まで駆け寄ると、久美姉は俺に弁当箱を差し出した。
「いつもすまないな……」
申し訳なさそうにそう言うと、久美姉は気にしないで、と微笑んだ。
良い奥さんになるだろうな……久美姉。マジ天だけど。
ちなみに、その弁当の中に冷えたおでんが入っていることに気が付くのは、これから五時間くらい後のことになる。
「おや、二人もこれから登校かい?」
不意に聞こえる、男性の声。二人で同時に声のした方向へ視線を向けると、そこには眼鏡をかけた、優しそうな男性――アゼさんがにこやかな表情でこちらを見ていた。
「おはようございます、校倉さん」
「おはよ、アゼさん」
二人で挨拶すると、アゼさんはにこやかな表情のままおはよう、と返してくれた。
校倉喜久夫。四月くらいに俺ん家の隣へ引っ越して来た大学生だ。俺も最初の頃は久美姉のように「校倉さん」と呼んでいたのだが、堅苦しいからあだ名でも付けてよ、と本人に言われて「アゼさん」と呼ぶようになった。ちなみに、久美姉が最初にアゼさんのことを「こうくらさん」と呼んでしまったのは、マジ天故だろうか。いや、単純に読み方知らなかっただけだろうけど。
アゼさんは、久美姉並みに面倒見の良い人で、久美姉程頻繁にではないがたまにお世話になっている。どうも困っている人を放っておけない性格なのか、俺や久美姉に限らず、困っている人物を見つけては手助けしている(本人談)らしい。常に黒い鞄を持っているが、その中に何が入っているのかは知らない。多分、大学で使うノートとかそういう物だろう。
簡単に言い表せば、好青年。
その高い身長と、女性をメロメロにしそうな甘いマスクが実はうらやましい俺だった。
「二人共、二学期は気が抜けやすいから、気をつけるんだよ。僕も、高校生の時に苦い思いをしたからね……」
苦笑しつつも、まるで学校の教師みたいな忠告をするアゼさん。
「久美姉はともかく、俺はちょっとヤバイ……かな」
「はは、まあ気をつけていれば君なら大丈夫だよ」
そう言い残してアゼさんはそれじゃ、と手を振ると、俺達の向かう先とは逆方向へと歩いて行った。
「じゃ、私達も行こっか」
そう言って先に歩き出す久美姉の隣を、俺もゆっくりと付いて行く。
こんな風に一緒に登校するのは、もう小学校の時からだった。俺がこの町、蔵咲町へ引っ越して来たのが幼稚園卒園後の、小学校に上がる直前だったため、もう九年も久美姉と一緒にいることになる。久美姉のマジ天ぶりは昔からで、先生をお母さん呼ばわりするのは当たり前。一番酷かったのは、学芸会の演劇で、ロミオとジュリエットをやった際、ジュリエット役だった久美姉が、突如としてロミオを演じ始めた時だろう。もうあれは、天然とかそういうレベルじゃない気がする。
久美姉と雑談をしつつ、蔵咲高校へ到着した俺は、すぐに我がクラス、一年三組へと向かった。二年生の久美姉とは階段でお別れだ。
窓際の最後尾である俺の席(個人的に最高の位置だと思う)へ鞄を置いて座り、静かに息を吐く。
「グッモーニンクラゲ!」
朝からハイテンションな我が友人、沢田俊幸。小柄で背の低い、俺の中学時代からの友人だ。
ちなみに、クラゲというのは誠に不本意ながら俺のあだ名。どういうわけか中学時代から定着しており、今じゃ俺をクラゲと呼ばないのは親と久美姉と一部の人間だけだった。由来は至って簡単。天海月人、海月、クラゲ。酷い話だ。
「おはよう沢田。お前のそのテンションはどこから来るんだよ……」
「海の向こうから」
「なるほど、道理で『グッモーニン』とか言うわけだ。国内のテンションじゃなかったんだな」
「そうだ。四国からだ」
「国内じゃねーか!」
確かに、海の向こうと言えば海の向こうである。
そんなやり取りをしている俺達の元へ、一人の女子生徒が歩み寄って来る。ややパーマのかかった、セミロングの髪が特徴的で物静かな雰囲気の女子生徒だ。
「おはよう天海君、沢田君」
彼女は、俺をクラゲと呼ばない数少ない心優しき人、白井佑香だった。中学の時、図書委員として一緒に働いて以来仲良くなった子で、大人しめで頭の良い女の子だ。正直俺や沢田のようなアホ連中と一緒にいることが不思議なくらいに良い子。
「おはよ、白井」
「グッモーニン白井さん!」
ちなみに沢田の朝の挨拶は、デフォルト設定で「グッモーニン」だ。中学時代に英語の授業で「Good morning.」を習って以来ずっとそうだった。覚えたての言葉を嬉しくて使っている内に、そのまま習慣になってしまったのだろうと俺は推測している。いや、どうでも良いけども。
「そういや二人共、今朝のニュースは見た?」
沢田の問いに、白井は小さく頷いた。
「いや、見てない。おでん食ってた」
「この夏場におでん……?」
「熱かった」
「そうだろうね」
「今晩おでんなんだ。沢田、道連れ――――食べに来ないか?」
「今確実に道連れって言いかけたよなお前! お断りだよ!」
クソ。引っかからないか。
「それより、ニュースだ。最近この辺で起きてる殺人事件、またあったらしいよ」
「殺人事件ってあの、この高校付近で起きてるやつか?」
俺の問いに、沢田はうん、と答えた。
「一件目、校門前で男子生徒が刺されて死亡。二件目、校舎内で女子生徒が首をロープか何かで絞められて死亡。三件目が……今回の事件だよ」
これで三件目、か。ここ最近、この蔵咲高校内、もしくはその付近で殺人事件が連続して起こっている。一件目と二件目は夏休み中に。そして今回が三件目らしい。二件目の事件が起きた時は、流石に校内ということもあり、数日間立ち入り禁止になった程だ。
白井は、沢田の話を聞きつつ、険しい表情を見せた。罪のない誰かが殺される、というのが不愉快なのだろう。俺だってそうだ。
「三件目が起きたのは昨日の放課後。学校に忘れ物をして、七時頃に取りに行った男子生徒が一人。その帰り道に一件目の事件と同じ殺され方で死んでたらしいよ。場所は……校門からは少し離れた場所だったかな。伏せてあったから、名前まではわかんないけど……」
「犯人はまだ、捕まっていないみたいね……」
少し暗い表情で、白井は呟くようにそう言った。
「まあ、警察ならいつか捕まえるだろ」
楽観的だが、正直なところこれが俺の意見だ。俺達が首を突っ込んだところで、解決するような事件じゃない。苦戦しているようだが、そういう犯人はいつかきっと捕まる。そしてしかるべき罰を与えられるに違いない。
そうでなきゃ、おかしいだろ。
「そうだと、良いよね……」
まだ少し暗い表情のまま、白井がそう呟いた。
「おはよ」
不意に、話していた俺達に声をかける男子生徒がいた。見れば、そこにいたのは坊主頭で背の高い男子生徒――大宮聖志だった。
「聖志! グッモ―ニン!」
大宮は沢田の親友で青春を全力で謳歌する野球部員の一人だ。キャッチャー志望らしいが、現在は一年生として球拾いに甘んじているらしい。ちなみに、彼の登校が遅いのは朝練を頑張っているからであって、決してだらしないわけではない。
「よう大宮」
「おはよう大宮君」
俺と白井が挨拶するのとほぼ同時に、チャイムが鳴り響く。適当な言葉を交わし、沢田達は各々の席へと戻って行く。
数秒待つと、教室へ担任の教師が入って来て、ホームルームが開始された。気だるくて暑い一日の、始まりだった。
「天海君、天海君、ホームルーム終わったよ」
白井の声と共に、ユサユサと身体を揺らされ、ボンヤリとした意識のまま俺は目を開けた。見えるのは自分の腕と机、六時間目の途中で寝たまま、ホームルームも終わってしまったらしい。六時間目の担当教師だけでなく、担任にまでスルーされていたということか。俺はゆっくりと身体を起こし、グッと身体を伸ばす。
「ついで言うと掃除も終わったよ」
「いや、流石に起こしてくれよそれは!」
「大丈夫、天海君の机の下以外は綺麗にしたから」
「俺が悪いのは確かだけどなんか嫌だなそれ!」
「天海君の上は綺麗にしたよ。沢田君がぞうきんで」
「なんかベタベタすると思ったらアイツの仕業か! それ単なる嫌がらせだろ!」
ってかそれで起きない俺スゲエ。その上まだ眠い。
「いやぁ、それにしても……うっかりキコナスまで行ってたよ」
「キコナス?」
いや、夢の話。
「……ふわぁ」
そうこう言ってる内にあくびが自然と出てしまう。どうやら俺の身体はまだ睡眠を求めているらしい。
「よし、そろそろ帰るかな」
「あ、あの……天海君?」
「ん?」
「その……これから……」
うつむき、指をいじくりつつ白井は言うが、要領を得ない上に、小声なので何を言っているのかよくわからない。
「やっぱり、何でもない……。それじゃ、また明日ね」
「ん、あ……おう」
まるで何かから逃げるかのように、白井は教室から走り去って行った。
「何だったんだ……?」
訝しげに呟き、俺は机の中の教科書やノートを鞄の中に入れ、机の上に置いた。そしてその鞄を枕に、もう一度机に突っ伏す。
「眠い。後五分」
呟き、ゆっくりと俺は目を閉じた。二度寝する時の「後五分」が五分じゃないことに、俺はこの時気づくべきだった。
ゆっくりと。閉じていた目を開ける。視界に入るのは腕と机。どうやら眠っていたらしい……って、いつからだ?
慌てて身体を起こし、時計へと目を向ける。
「……げ」
午後七時二十分。寝過ぎだろこれ。後五分ってレベルじゃねえよ。
「やっべ……」
窓から外を見れば、既に外はうっすらと暗くなっている。もう良い子はお家に帰り、悪い子が外を闊歩する時間だ。どうやら俺も悪い子の仲間入りらしい。
立ち上がって鞄を手に取り、内側から鍵を開けてすぐに教室を後にする。誰が閉めたか知らないが、鍵を閉める時に俺が中で寝てることに気付いてほしかった。
いや、寝てる俺が悪いけども。
暗くなったせいでちょっと怖い廊下を駆け抜け、俺は下駄箱へ向かう。校門は閉められているだろうが、まあ乗り越えれば出られるだろう。
下駄箱で靴を履き替え、正門へと小走りで向かう。いや、別に走る必要はなかったのだが、薄暗い校舎から少しでも早く出たかった。やはり夜の学校は怖い。
「やっぱ閉まってるか」
校門の前へ辿り着き、小さく溜息を吐くと、俺は校門へよじ登った。そうでもしないと家に帰れないし、校舎内で幽霊っぽいラップ音と一晩過ごすような勇気など、俺の中にはなかった。
「……ん?」
校門の上に乗った時、不意にどこかから足音が聞こえた。校舎からではない、校舎外からこちらへ向かって、足音が徐々に近づいて来ている。
「こんな時間に――」
言いかけ、今朝沢田が話していた事件のことを思い出す。
――――学校に忘れ物をして、七時頃に取りに行った男子生徒が一人。その帰り道に一件目の事件と同じ殺され方で死んでたらしいよ。
さっき確認した時、時間は七時二十分だった。そして今、俺は家へ帰る途中……。
「まさか……な」
ゆっくりと校門から降り、静かに呟く。
七時頃。帰り道。校門付近。全ての条件が一致している。
いや、だからと言って昨夜起きた事件と同じことが今から起こると決まったわけではない。それに、近づいてくる足音だって、例の殺人犯のものとは限らないのだ。
「よし、帰るか…………」
足音の聞こえる方向へは背を向け、家へ向かって歩き出そうとする。するとその時、ピタリと足音が、俺の真後ろで止まった。
「は……はは……何の用ですか……?」
苦し紛れに笑みを作り、後ろの気配に問う。が、答えはない。
「ちょっと俺、急いでるんで……帰ります……ね」
威圧感。背後から感じる威圧感が、俺の足が動くことを許さなかった。まるで蛇に睨まれた蛙のように、俺は動くことが出来なかった。
「コロス……」
コロス。ころす。殺す。殺。
背後で呟かれた言葉は至ってシンプル。それ故に、シンプルな恐怖を感じた。
背後から心臓を鷲掴みにされるような、そんな感覚。
「コロス」
低く、まるで地の底から響くかのような声。やっとのことで、俺は後ろを振り向いた。
「――――ッ!」
背後にいたのは、人間のシルエットを持ちながらも、人間と呼べるような存在ではなかった。
言うならば――――化け物。
太い、円筒型の頭。その頭には、中心部に一つだけ瞼のない目がついている。体色は全体的に灰色で、衣類は一切身に着けていない。体色と同じ色の、つたのようなものが足や腕にも巻きついている。
そして、両腕。鋭く尖った、針を巨大化させたかのような両腕だった。
すぐにわかった。その腕で、貫かれるのだと。
「コロ……シ……キモ……チイ……」
何を言っているのかわからないし、わかろうとするような余裕は俺にはなかった。
「うわ――――」
逃げ出そうとした、その次の瞬間。
化け物の腕が、俺の腹部へ勢いよく突き刺さった。
意識が徐々に薄れていく。もう自分が何を考えているのかすら明確にはわからない。
死。確実な死が、俺の目の前まで迫って来ていた。
「遅かったみたい……ね」
ボソリと。誰かの呟くような声が聞こえた。閉じかけていた目をどうにか開き、眼球を動かして声の主を捜す。
「ごめんね、間に合わなくて……」
申し訳なさそうな、女性の声。見れば、一人の女性が倒れている俺を見下ろしていた。
死ぬ前に見れたのが、綺麗な女性で良かった。最期に見た生き物が化け物だなんて、死ぬにしてもなんか嫌だ。
「ねえ、助かりたい?」
ああ、助かれるモンなら今すぐにでも助かりたい。助かるなら、基本的にはどんなことも出来る。
「……かり……たい。助かり……たい……!」
かすれた声で、必死に意思を伝える。ちゃんと聞き取ってもらえたのかはわからないが、女性はコクリと頷いた。
「ええ、助けるわ。でもその代わり……一つ条件がある」
女性はまだ何か続きを言いそうだったのだが、彼女が続きを言うよりも、俺の意識がブラックアウトする方が、遥かに早かった。




