表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

あの日の君を、まだ書いている

作者: Romanoff726
掲載日:2026/04/25

中学時代の家庭崩壊と孤独の中で、唯一「居場所」を与えてくれた少女・藤崎陽菜。

しかしその関係は、友情と依存の境界を越え、やがて取り返しのつかない崩壊へと向かっていく。


数年後、成功したライトノベル作家となった主人公・牧野栞は、過去を抱えたままサイン会の日々を過ごしていた。

忘れたはずの名前、消したはずの記憶、そしてかつての“彼女”の影。


これは、救いではなく「選ばれなかった後」の物語。

青春の中で壊れた関係が、大人になった現在でもなお静かに心を締めつけ続ける、再会と喪失のドラマ。



私は最近、青春ライトノベル『君と嘘と春の日』の作者として名前を知られ始めている。

……それから、二十歳の美少女作家、などとも。自分で思い出すだけで居心地が悪い。


ライトノベルを読み始めたのは、小学六年生の頃だった。

書き始めたのは、三年ほど前。


そして今日、私は初めての大きなサイン会に向かう。


髪を整え、歯を磨き、昔の私なら絶対に選ばなかったような、明るい色のワンピースに袖を通す。


鏡の中の私は、少しだけ他人みたいだった。


――あの子が、今の私を見たら、なんて言うだろう。


たぶん、私のことも。

私の本のことも、もう知っている。


読んでくれただろうか。


そこまで考えて、私は小さく息を吐いた。

ずいぶん勝手な期待だ。


タクシーに乗り込み、秋葉原へ向かう。

会場は駅前の高層ビル、その最上階を貸し切っているらしい。


道の途中で、担当編集から電話が入った。


「牧野さん、ちゃんと向かってますよね?」


「……さすがに」


「初めての本格的なサイン会ですし、緊張してます?」


「してます。かなり」


電話の向こうで笑う気配がした。


「でも、牧野さんなら大丈夫ですよ」


通話が切れたあと、運転手に断って窓を少しだけ開ける。

五月の風が、耳元をすり抜けていった。


見上げた空は、痛いほど青かった。


あなたも、同じ空を見ているだろうか。


……私があなたを思い出すみたいに、

あなたも、少しだけ私を思い出したりするのだろうか。


会場のあるビルに着き、私はエレベーターに乗り込んだ。


ガラス越しに、秋葉原の街並みが一望できる。


――こんな場所でサイン会なんて。

しおり、あんた出世したじゃん。


笑いながらそう言う声が、耳の奥で聞こえた気がした。


藤崎陽菜。

もう何年も会っていない、あの子の声だった。


九階に着くと、すでに大勢の人が集まっていた。

扉が開き、私が降りた瞬間、いくつもの視線がこちらを向く。


「しおりこ先生だ」

「本当に若い……」

「写真より可愛い」


そんな囁きが聞こえて、少しだけ居心地が悪くなる。


やがてサイン会が始まり、用意された席はすべて埋まった。


誰もが私の本を抱えている。


その光景を見たとき、胸の奥がわずかに熱くなった。


ここにいる人たちと、私は繋がっている。

その真ん中にあるのが、私の書いた物語だった。


サイン会は滞りなく終わった。

褒め言葉も、差し入れも、記念撮影も、思っていたよりずっと多かった。


男性のファンが多かったけれど、女性の姿も少なくなかった。


その中に、ひとりだけ気になる人がいた。


少し濃い茶色の髪をポニーテールにまとめ、マスクをつけた若い女性。


目元が、陽菜に少し似ていた気がした。


……でも、陽菜をこんな近くで見たのは、もう三年前が最後だ。


私はもう、あの子の顔を少しずつ忘れ始めているのかもしれない。


そのあと私は、またタクシーで家へ戻った。


窓の外では、夕焼けが街を染めている。


どうして五月の空は、こんなにも綺麗なんだろう。


車窓に映る自分の顔を、ぼんやり見つめた。


その夜、ソファに寝転んだ私は、妙に機嫌がよかった。


ねえ、陽菜。


もう私は、あなたがいなくても成功できたよ。


少し綺麗になって、売れ始めた新人作家にもなった。


……なのに。


それなのに、どうして私は、まだあなたを忘れられないんだろう。


答えのない問いを抱えたまま、私はいつの間にか眠っていた。


夢に出てきたのは、また陽菜だった。


もう何度見たかわからない夢。


私たちが初めて会った、中学の入学式の日。


家から学校へ向かう坂道には、桜並木が続いていた。


薄い桃色の花ばかりが揺れる中で、一本だけ、白い花を咲かせる木があった。


私はその木が好きだった。


明るくて、綺麗で、私とはまるで違うものみたいで。

それでも、目を離せなかった。


四月七日。


その白い桜の下に、藤崎陽菜は立っていた。


淡い茶色の短い髪。

愛嬌のある顔。

春の日差しみたいな笑顔。


四月のやわらかな光に照らされた彼女は、

青春映画のヒロインみたいに見えた。

誰かに話しかけたい。


そんな気持ちが、小学校を卒業したばかりの私の中に、ひどく久しぶりに湧いた。


けれど、小学生の頃、私から声をかけても皆すぐ離れていった。


殴られたり、お金を取られたりしたわけじゃない。


ただ、いないものみたいに扱われていただけだ。


……まあ、当然だったと思う。


長すぎる前髪。

地味な服。

暗くて、声も小さい。

勉強だってできない。


誰かに好かれる理由なんて、一つもなかった。


それでも私は、自分を変えようとは思わなかった。


変わったら負けだと、本気で思っていたから。


あの頃の私は、子どもだった。


でも、あの子は違った。


明るくて、きっと人気者で、私とは住む世界が違うように見えた。


このまま通り過ぎよう。

そう決めた、そのときだった。


「その木、好きなの?」


振り向くと、彼女が笑っていた。


笑うと、さっきよりずっと可愛く見えた。


けれど社会性なんてものを持っていなかった私は、何度も頷いて、


「……うん」


それだけしか言えなかった。


一年C組。


自分が一年生のとき何組だったか、私は今でも覚えている。


教室にはもう大勢の生徒がいて、あちこちで小さな会話が弾んでいた。


けれど、誰一人として私には興味を示さない。


……でも、それで少し安心もした。


昨日と同じ今日なら、少なくともこれ以上悪くはならないから。


その日の休み時間には、もう多くの子たちが友達探しを始めていた。


笑い声。

机を寄せ合う音。

自己紹介のやり取り。


私はというと、いつも通り一人で席に座り、ライトノベルを読んでいた。


当時少し流行っていた、異世界ものだった気がする。


そのとき。


朝、私に話しかけてきたあの子が、空いていた隣の席に腰を下ろした。


「ねえ、あんた。朝の子だよね?」


急に心臓がうるさくなって、私は小さく答える。


「……うん」


「白い桜の木、綺麗だよね。なんか特別って感じするし」


私はまともに相づちを打つことすらできず、ぎこちなく頷くだけだった。


普通なら、このへんで引かれてもおかしくない。


変な子。

話しづらい子。


そう思われて終わりだ。


でも、彼女は違った。


困ったようにも、呆れたようにもせず、ただ自然に会話を続けてくれた。


「私、藤崎陽菜っていうの。アニメ好きなんだ」


そこで少し照れたように笑う。


「まだハマったばっかりで、全然詳しくないんだけどね。……でも、仲良くなれたら嬉しい」


誰かが、自分の意思で私と仲良くなりたいと言う。


そんなことが、この世にあるんだろうか。


先生に気を遣われて押しつけられたわけでもなく。

罰ゲームでもなく。


昨日見たドッキリ動画みたいだ、と本気で思った。


それでも、彼女が本気だということだけは、なぜかわかった。


「……牧野栞。よろしく」


それが、私たちの最初の会話だった。


そして昼休み、私は一日に二度も幸運に見舞われた。


陽菜が、私に一緒に昼食を食べようと言ったのだ。


「一緒に食べよ!」


そう笑う彼女に、私はたしか、


「……うん」


としか返せなかった。


陽菜は当然みたいな顔で私の隣に座り、弁当箱の蓋を開けた。


ケチャップで小さなキャラクターが描かれたオムライス。

プチトマト。

彩りのいい野菜のおかず。


それに比べて、私の昼食は。


コンビニで買った百円の菓子パンと、朝に自販機で買った緑茶だけだった。


誰も、私のために弁当なんて作らない。


そんな当たり前のことを、改めて見せつけられた気がした。


彼女の昼食は、ちゃんと誰かに愛されている色をしていた。


でも、陽菜は私のパンにも緑茶にも触れなかった。


可哀想とも、変だとも言わず、ただそこに座って、自分のオムライスを食べていた。


私たちは、一緒に昼食を食べただけだ。


入学初日の教室は、思ったより静かだった。

まだ互いに遠慮の残る声量で、あちこちに小さな会話が浮かんでは消える。


一人で食べている子も何人かいた。


その中で私は、生まれて初めて思った。


沈黙が、恥ずかしくない昼休みもあるんだと。


予想もしなかったことに、昼食を食べ終えたあと、陽菜は私のパンの袋を見てアニメの話を始めた。


袋の裏に描かれていたのは、当時私が好きだったキャラクターだ。


羊を擬人化した、ふわふわした女の子。


「この子、今期アニメ化するらしいよ?」


私は思わず陽菜の顔を見た。


パンの袋に載るくらいには人気がある。

でも、誰もが知っているほど有名なキャラではない。


それを陽菜が知っている。


ただそれだけのことが、信じられないくらい嬉しかった。


ここで早口で語ったら、きっと引かれる。


そう思った私は、いつものように小さく頷く。


「……うん」


「可愛いよね、この子」


「うん。好きなキャラ」


「アニメ始まったら観る?」


「……もちろん」


陽菜は、私のぎこちない返事にも、短すぎる言葉にも、まるで気にした様子がなかった。


ただ楽しそうに、普通に話してくれた。


そのとき私は思った。


ああ、私にもとうとう友達ができたんだって。


放課後、家へ帰る足取りは驚くほど軽かった。


入学初日だというのに、陽菜とはもう連絡先まで交換していた。


両親と、小学校の班活動で仕方なく追加した子を除けば。


私の携帯に、自分の意思で登録された初めての番号だった。


気分よく家に帰ったはずだった。


けれど、玄関の扉を開けた瞬間、その気持ちはいつもの怒りと無力感と、少しの悲しみに塗り替えられる。


働きもしない父が、私の顔を見るなり怒鳴った。


「この役立たず。酒買ってこい」


そう言って、百円玉を何枚か床に投げた。


すぐあとで、母の部屋から声が飛んでくる。


「ついでに私のタバコも頼んで!」


胸の奥が少しだけ冷たくなった。


でも、珍しいことじゃない。


私は何も言わず、床に散らばった硬貨を拾い集めて外へ出た。


まだ中学一年生だった。


酒もタバコも、本来なら私が買えるものじゃない。


それでも家の前のコンビニのおばさんは、事情を知っていて黙って売ってくれた。


買って帰らなければ、また怒鳴り声が響く。

もしかしたら、手も飛んでくる。


そんなことを、あの人は知っていた。


酒とタバコは渡してくれた。

でも、誰かに通報してくれることはなかった。


……たぶん、私自身もそれを望んでいなかった。


コンビニを出て、家へ戻る途中だった。


携帯が震えた。


差出人――藤崎陽菜。


胸が跳ねる。


『ちゃんと帰れた?

今日、しおりと話せて楽しかった!』


楽しかった。


……私と話すのが?


その言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。


次の瞬間、胸の奥で何かが弾けたみたいに、嬉しさが込み上げてきた。


でも、そのすぐあとで、涙が出た。


誰かが私を特別みたいに扱ってくれることなんて、今まで一度もなかった。


喉が痛くなるほど、泣きたくなった。


けれど、泣いた顔で家に入るのは最悪だ。


理由を聞かれる。

笑われる。

面倒が増える。


私は家の前で立ち止まり、制服の袖で急いで目元を拭った。


あの日から、私たちはすぐに親友みたいになった。


学校で一緒にいるだけじゃない。

家に帰ってからも、毎日のようにメッセージを送り合った。


電話に誘われることもあったけれど、それだけは断っていた。


家の中で、あの人たちに声を聞かせたくなかったから。


昼休みも、いつも一緒だった。


私の昼食は相変わらず百円のパン。

少し余裕のある日だけ、二百円のパンになる。


陽菜はそんなことを一度も気にしなかった。


可哀想とも言わず、比べもせず、ただ隣で自分の弁当を食べていた。


それが、たまらなく嬉しかった。


私は陽菜とアニメの話をする時間が好きだった。


おすすめの作品や、好きなキャラや、次の新作の話。


私がライトノベルやアニメを教えると、陽菜は代わりにメイクを教えてくれた。


眉の整え方。

リップの塗り方。

前髪の分け方。


初めて少しだけ化粧をした私は、鏡の中で別人みたいだった。


「しおり、普通にかなり可愛いじゃん」


陽菜はそう言って笑った。


……でも、その顔のまま家に帰った日、父は怒鳴った。


中学生のくせに、何を色気づいているんだと。


その日以来、私は陽菜の前でしか化粧をしなくなった。


そうして時間は過ぎていった。


家は相変わらず息苦しかった。

けれど学校へ行く朝だけは、少しだけ足取りが軽い。


授業が楽しいからでも、友達がたくさんいるからでもない。


藤崎陽菜が、私の隣にいてくれたからだ。


何もかも上手くいっているように見えた頃だった。


家では、父と母の私への扱いが少しずつ悪化していた。


前までは怒鳴り声や罵倒が中心だったのに、いつしか手が出ることも増えていった。


頬を叩かれる。

腕を掴まれる。

物を投げつけられる。


それでも私は通報できなかった。


施設に入るのが怖かった。

本当に一人になるのが怖かった。


どれだけ最低な親でも、最初から誰もいないよりはましだと、本気で思っていた。


一度だけ、夜中に検索したことがある。


親の家庭内暴力 通報 方法


でも出てきたのは、希望より諦めに近い言葉ばかりだった。


通報しても変わらなかった。

むしろ悪化した。

大人になるまで耐えて出ていけ。


画面を閉じた私は、そのまま何もできなかった。


学校でも、少しずつ空気が変わり始めていた。


陽菜は可愛くて、明るくて、誰とでも話せる子だった。


私は髪だけ無駄に長くて、地味で、暗くて、オタクで、友達も陽菜しかいない。


そんな二人がいつも一緒にいることを、クラスは不思議そうに見ていた。


私ですら、それに気づくくらいには。


たぶん陽菜は、もっと前から知っていた。


そしてその頃、陽菜には新しい友達ができた。


今となっては、その子の名前すら思い出せない。


でも、かなり可愛かったこと。

明るくて、私なんかよりずっと陽菜に似合っていたことだけは覚えている。


陽菜と同じ班になり、二人で楽しそうに話していた。


化粧品のこと。

芸能人のこと。

私にはよくわからない話題ばかりだった。


それでも、陽菜はとても楽しそうだった。


だから私は、あの二人の時間を邪魔できなかった。


それなのに。


休み時間になるたび、私は何度も陽菜のところへ行ってしまった。


陽菜は、そのたび少し困ったような顔をした。


ぎこちない笑い方をした。


……こんなの、いつもの陽菜じゃない。


そう思った。


やがて陽菜は、その子たちのグループと過ごす時間が増えていった。


輪の中にいる陽菜は、最初からそこにいたみたいに自然だった。


明るく笑って、誰とでも話して、場の空気に溶け込んでいた。


じゃあ、そこに私が入ったらどうなるんだろう。


答えは、考えるまでもなかった。


似合わない。

浮く。

無理に混ざれても、きっとまたすぐに離れていく。


その頃から、私は陽菜に執着するようになった。


当時はそんな言葉を知らなかったけれど、今思えば、かなり歪んでいたと思う。


陽菜のSNSの投稿を何度も見返して、保存して。

他の子の名前が会話に出るだけで、露骨に機嫌が悪くなった。


声の温度まで変わっていたはずだ。


ある日、陽菜が何気なく言った。


「今日、私この子たちと先に帰るね!」


私は笑って、


「うん、わかった」


と答えた。


嫌そうな顔なんて、一つもしなかった。


でも、家に帰ってベッドへ倒れ込んだ途端、涙が止まらなくなった。


枕が濡れるほど泣いた。


結局、この世に本当に私のものなんて、一つもないんだと思った。


毎日、家では傷つけられて。

学校では、少しずつ居場所を失っていた。


そんな私が、とうとう取り返しのつかないことをした。


陽菜があの子たちと笑っているのを見た瞬間だった。


頭の中で何かが切れた。


私は教室の真ん中で、突然声を張り上げていた。


「そんなにあの子たちがいいの?」


周囲のざわめきが止まる。


「私にはあんなに優しくしておいて、結局そっち行くんだ」


自分でも止められなかった。


「最初から期待なんてさせないでよ……!」


教室がしんと静まり返った。


クラス全員の視線が、私に集まっていた。


陽菜は、ひどく驚いた顔をしていた。


怒っているわけでもなく、軽蔑でもなく。


ただ、傷ついたような顔だった。


それを見た瞬間、私はもっと壊れた。


「あんたたちなんか、みんな嫌い」


そう吐き捨てて、まだ授業が一時間残っていたのに、私はそのまま教室を飛び出した。


震える手のまま、私は家に帰った。


玄関を開けて、靴を脱いで、自分の部屋に倒れ込むまでの記憶が曖昧だった。


次の日、私は学校へ行かなかった。


……いや、行けなかった。


陽菜からメッセージが来るんじゃないかと、心のどこかでずっと待っていた。


謝れば、何か変わるんじゃないか。

まだ間に合うんじゃないか。


でも、携帯は一度も鳴らなかった。


私が学校を休んでも、両親は何も気にしなかった。


いつも通り怒鳴って、いつも通り自分のことだけしていた。


そんなことすら、もうどうでもよかった。


ベッドに横たわったまま、私は思った。


このまま消えてしまえたら楽なのに、と。


そして数日後、私はまた学校へ行った。


陽菜は、私に何も言わなかった。


責めもしない。

怒りもしない。

ただ、何も言わなかった。


クラスの他の子たちも同じだった。


誰も私をいじめなかった。


ただ、見ないだけだった。


存在しないみたいに。


小学校の頃より、ずっと徹底的に。


あのあと私は、中学の間ずっと透明人間みたいに過ごした。


誰とも深く関わらず、目立たず、ただ卒業の日を待つだけの三年間だった。


そして高校生になる前の春休み。


私は勇気を振り絞って、陽菜にInstagramでDMを送った。


『あのときは本当にごめん。

いろいろあって、余裕がなくて、陽菜にひどいことをした。

今さらだってわかってる。

それでも、もし少しでも話せたら嬉しい』


陽菜は返事をくれた。


文面は優しかった。


責める言葉もなく、昔みたいに柔らかい言い方だった。


でも、そこにはもう昔の近さはなかった。


返信は少しずつ遅くなっていった。


一時間。

半日。

一日。


やがて既読もつかなくなった。


そしてある日、私は気づいた。


陽菜は、私を完全にブロックしていた。


その日、私は初めて知った。


人は許されても、もう一度選ばれるとは限らないのだと。


夢を見た次の日、私は陽菜と初めて出会った場所へ向かった。


両親と縁を切ってから、一度も近づかなかった町だった。


どうして行こうと思ったのか、自分でもよくわからない。


たぶん、感情なんていつだって理屈より先に動くものなのだ。


そこへ着くと、もう五月だった。


桜はとっくに散っていて、木々には青い葉だけが揺れていた。


そして、私はそこで彼女を見た。


変わらず軽やかな服装。

やわらかな茶色の髪。

見間違えるはずもない顔。


藤崎陽菜だった。


その瞬間、彼女も私に気づいた。


目が合う。


けれど、彼女の表情から感情は読み取れなかった。


ただ、もう昔みたいには笑わなかった。


私も、昔みたいに名前を呼ばなかった。


すれ違う直前、私はほんの少しだけ微笑んで、


そのまま、自分の行く先へ歩き出した。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ