4.
「やめろ……来るな!」
高木は背後にあるキッチンワゴンを掴み、狂ったように「母親」へと投げつけた。自身が生きるための必死の抵抗であった。
陶器の皿が彼女の顔面に直撃し、乾いた音を立てて砕ける。しかし、彼女は怯まない。それどころか、うすら笑いを浮かべている。そう見える。剥がれかけた頬の皮膚の下で、複雑に絡み合った光ファイバーがチカチカと青白く発光していた。
「痛くありませんよ、高木さん。ほんの一瞬の『調整』で、貴方は明日から、世界で一っ番幸せな男になれるんです」
無機質な声が響く。高木は陽太くんの細い腕を掴み、蹴り破ったベランダの隔て板へと走り出した。
自分の部屋に戻り、玄関から外へ。エレベーターを待つ余裕はない。非常階段を駆け下りる高木の背後で、三〇三号室の扉が勢いよく開き、複数の「足音」が追いかけてくるのが分かった。
一階のロビーに辿り着いた時、高木は絶望に足を止めた。
そこには、管理人の山崎さんが立っていた。しかし、その顔はもはや以前の好々爺ではない。顔の皮膚が右半分だけ不自然に垂れ下がり、露出したカメラレンズのような眼球が高木をロックオンしていた。
「高木さん、どこへ行くんですか。今日はゴミ出しの日ですよ」
山崎さんの声は、複数の人間の声を合成したような不気味な重低音に変わっていた。周囲の部屋からも、次々と住人たちが廊下へ這い出してくる。三〇一号室の主婦、四〇五号室の老夫婦。誰もが、あの「完璧な笑顔」の皮を顔に貼り付け、操り人形のようなぎこちない動きで高木を包囲していく。
「このマンションは、一つの生命体なんです。不幸せという『ウイルス』を許さない、完璧なシステムなんだ」
高木は陽太くんを背中に隠し、必死に周囲を見渡した。マンションの自動ドアは、すでにロックされている。
その時、背後から冷たい衝撃が走った。
振り返ると、そこには三〇三号室の「父親」が立っていた。いつの間に回り込んだのか、その手には太い注射器が握られている。
「……あ……」
視界が急速に暗転していく。膝の力が抜け、高木はその場に崩れ落ちた。
遠のく意識の中で、陽太くんが誰かに抱き上げられるのが見えた。
「大丈夫だよ、陽太。
新しいパパが、もうすぐ完成するからね」
それが、高木が聞いた最後の「人間らしい」言葉だった。
数週間後。
ヴェール・ド・リュミエールの三〇二号室に、新しい入居者がやってきた。
引越し業者が荷物を運び入れる中、隣の三〇三号室のドアが開く。
「こんにちは。お隣に越してきた方ですか?」
そこには、一組の完璧な家族が立っていた。
清潔感のある夫、エプロン姿の美しい妻、そしてお揃いの服を着た天使のような仲良し兄妹。
夫は、以前この部屋に住んでいた「高木」によく似ていた。だが、その肌には一点のシミもなく、瞳には機械的なまでの輝きが宿っている。
「私は高木と言います。妻と、二人の子供と暮らしています。このマンションは最高ですよ。誰も悲しまないし、誰も怒らない。ただ、幸福だけがあるんです」
新しく越してきた住人は、その眩しいばかりの笑顔に圧倒され、「はあ、よろしくお願いします」と気圧されたように頭を下げた。
高木は、否。
高木であったものは、満足げに微笑んだ。
彼の足元では、息子の「陽太」が、新品の白い靴下を履いて行儀よく立っている。
その靴下の裏に、助けを求める文字が書かれることは、もう二度とない。
なぜなら、この街の「幸福」は、すでに完成してしまったのだから。
読んでいただいた方に感謝を。そして「幸福」があらんことを。




