表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
隣の幸福  作者: 喜國 畏友
第4部:幸福な街の住人

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/4

4.

「やめろ……来るな!」

 高木は背後にあるキッチンワゴンを掴み、狂ったように「母親」へと投げつけた。自身が生きるための必死の抵抗であった。


 陶器の皿が彼女の顔面に直撃し、乾いた音を立てて砕ける。しかし、彼女は怯まない。それどころか、うすら笑いを浮かべている。そう見える。剥がれかけた頬の皮膚の下で、複雑に絡み合った光ファイバーがチカチカと青白く発光していた。

「痛くありませんよ、高木さん。ほんの一瞬の『調整』で、貴方は明日から、世界で一っ番幸せな男になれるんです」

 無機質な声が響く。高木は陽太くんの細い腕を掴み、蹴り破ったベランダの隔て板へと走り出した。

 自分の部屋に戻り、玄関から外へ。エレベーターを待つ余裕はない。非常階段を駆け下りる高木の背後で、三〇三号室の扉が勢いよく開き、複数の「足音」が追いかけてくるのが分かった。

 一階のロビーに辿り着いた時、高木は絶望に足を止めた。

 そこには、管理人の山崎さんが立っていた。しかし、その顔はもはや以前の好々爺ではない。顔の皮膚が右半分だけ不自然に垂れ下がり、露出したカメラレンズのような眼球が高木をロックオンしていた。

「高木さん、どこへ行くんですか。今日はゴミ出しの日ですよ」

 山崎さんの声は、複数の人間の声を合成したような不気味な重低音に変わっていた。周囲の部屋からも、次々と住人たちが廊下へ這い出してくる。三〇一号室の主婦、四〇五号室の老夫婦。誰もが、あの「完璧な笑顔」の皮を顔に貼り付け、操り人形のようなぎこちない動きで高木を包囲していく。

「このマンションは、一つの生命体なんです。不幸せという『ウイルス』を許さない、完璧なシステムなんだ」

 高木は陽太くんを背中に隠し、必死に周囲を見渡した。マンションの自動ドアは、すでにロックされている。

 その時、背後から冷たい衝撃が走った。

 振り返ると、そこには三〇三号室の「父親」が立っていた。いつの間に回り込んだのか、その手には太い注射器が握られている。

「……あ……」

 視界が急速に暗転していく。膝の力が抜け、高木はその場に崩れ落ちた。

 遠のく意識の中で、陽太くんが誰かに抱き上げられるのが見えた。

「大丈夫だよ、陽太。

 新しいパパが、もうすぐ完成するからね」

 それが、高木が聞いた最後の「人間らしい」言葉だった。


 数週間後。

 ヴェール・ド・リュミエールの三〇二号室に、新しい入居者がやってきた。

 引越し業者が荷物を運び入れる中、隣の三〇三号室のドアが開く。

「こんにちは。お隣に越してきた方ですか?」

 そこには、一組の完璧な家族が立っていた。

 清潔感のある夫、エプロン姿の美しい妻、そしてお揃いの服を着た天使のような仲良し兄妹。

 夫は、以前この部屋に住んでいた「高木」によく似ていた。だが、その肌には一点のシミもなく、瞳には機械的なまでの輝きが宿っている。

「私は高木と言います。妻と、二人の子供と暮らしています。このマンションは最高ですよ。誰も悲しまないし、誰も怒らない。ただ、幸福だけがあるんです」

 新しく越してきた住人は、その眩しいばかりの笑顔に圧倒され、「はあ、よろしくお願いします」と気圧されたように頭を下げた。

 高木は、否。

 高木であったものは、満足げに微笑んだ。

 彼の足元では、息子の「陽太」が、新品の白い靴下を履いて行儀よく立っている。

 その靴下の裏に、助けを求める文字が書かれることは、もう二度とない。

 なぜなら、この街の「幸福」は、すでに完成してしまったのだから。

読んでいただいた方に感謝を。そして「幸福」があらんことを。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ