3.
グループチャットの通知が、暗い部屋の中で青白く高木の顔を照らしていた。
指先が凍りついたように動かない。管理人の山崎さんも、隣の主婦も、誰もが「あの家族」の異変に気づかないふりをしているのではない。彼らにとって、あの笑顔こそが「正解」であり、それに疑いを持つ高木の方が「ノイズ」なのだ。
翌朝、高木は意を決した。
このままでは、自分もあの「静寂」の中に飲み込まれてしまう。
彼は会社を休み、三〇三号室の様子を伺った。午前十時、父親役の男が出勤し、子供たちが幼稚園バスに乗り込む。残されたのは「母親」一人。
高木は合鍵を取り出した。
このマンションの構造上、ベランダの仕切り板は非常時に突き破れるようになっている。彼はベランダに出ると、隣の三〇三号室との境にある板を、自身の渾身の力で蹴り破った。
思えば、何かを本気で蹴るのは高校生でサッカーをしていた時以来かもしれない。
バリィッ!
乾いた音が響き、プラスチックの破片が飛び散る。
高木は隣のベランダへと這い出し、鍵の開いていた窓から室内へ滑り込んだ。
室内は、異様なほど無機質だった。
モデルルームのように整えられ、生活感が一切ない。テーブルの上には、食べかけのトーストが置かれていたが、それはプラスチック製のサンプルのように乾燥し、色褪せていた。
「誰……?」
背後から声がした。
振り返ると、そこにいたのは「母親」ではなかった。
廊下の隅にうずくまっていたのは、ボロボロのパジャマを着た、本物の陽太くんだった。彼の顔は涙と泥で汚れ、玄関で見せる「完璧な息子」の面影はどこにもない。
「陽太くん! 大丈夫か?」
「おじさん……逃げて。もうすぐ、ママが戻ってくる」
「ママって、あの女のことか?」
「違うよ.....あれは……『皮』だよ」
陽太くんが指差した先、リビングのクローゼットが開いていた。
そこには、衣服と一緒に「人間」が吊るされていた。
正確には、人間の形をした精巧なシリコン製の着ぐるみだ。
昨日の奥さんの顔、一昨日の奥さんの顔。そして、かつて高木が知っていた「本当の奥さん」の顔。
それらがハンガーに掛けられ、無残に並んでいる。
「このマンションはねぇ、幸福じゃなきゃいけないんだ。パパが会社をクビになったり、ママが病気になったりすると、管理会社が『交換』しに来るんだよ」
陽太くんの言葉に、高木は息を呑んだ。
管理会社のサービス。それは、住人の不幸を隠蔽し、常に「理想の家族」を維持するための代行システム。本物の住人は地下かどこかに監禁され、代わりに訓練された「アクター」たちが、その家族の皮を被って生活を演じ続けるのだ。
「僕のパパは、もう一ヶ月も帰ってきてない。今のパパは、夜になると皮を脱いで、充電器に繋がってるんだ」
陽太くんが震える手で高木の袖を掴んだその時、玄関の鍵が開く音がした。
「ただいま、陽太。お隣さんと仲良くしているのかしら?」
現れたのは、あの「母親」だった。
しかし、彼女の首筋には深い亀裂が入っていた。そこから覗くのは血の通った肉ではなく、鈍く光る金属と這い回る配線。
「高木さん。貴方は、少し知りすぎましたね」
彼女の笑顔は崩れない。口角だけが異常な角度まで吊り上がり、頬の皮膚がピリピリと裂ける音がした。
「でも、ご安心ください。貴方の『独身の寂しさ』も、私たちが解決してあげます。明日には、貴方の部屋にも素敵な奥様と、可愛らしいお子さんが用意されますから」
彼女の手が、高木の喉元へ伸びてきた。
その指先は、人間とは思えないほど冷たく、硬かった。




