2.
「あ、あの……これ、ベランダに落ちていたので」
高木は震える手で、例の靴下を差し出した。
目の前の女性——「佐々木さんの奥さん」を名乗る、しかし全く見覚えのない顔の女は、細く白い指でそれを受け取った。
まるで、我が子の大切にしている物にそっと手を触れるように。
「まあ!
陽太ったら、またお騒がせして。わざわざ届けてくださってありがとうございます、高木さん」
彼女は鈴を転がすような声で笑った。その笑顔は、あまりにも訓練されたかのように完璧で、不自然だった。昨日の奥さんはもう少し目が細く、笑うと左の頬に小さなえくぼができたはずだ。目の前の女には、それがない。
「あの……陽太くんは、お元気ですか?」
「ええ、もちろん。今は奥でパパとお絵描きをしていますよ。呼んでまいりましょうか?」
女が家の中に声をかけようとした瞬間、高木は反射的に「いえ!」と制した。もし、中から出てくる「パパ」までもが別人だったら。その恐怖に耐えられる自信がなかった。
高木は逃げるように自分の部屋へ戻り、内側から鍵を二重にかけた。
心臓が早鐘を打っている。
ありえない。整形手術で一日で顔を変えることなんて不可能だ。そもそも、家族全員が入れ替わっているとしたら、それはもう事件ではないか。
翌日、高木は意を決して、マンションの一階に住む管理人の山崎さんを訪ねた。山崎さんはこのマンションが建った当初から管理をしており、住人の顔をすべて覚えているのが自慢の老人だ。
引っ越したばかりの頃から高木を常に気にかけており、高木がとても頼りにしている人物であった。
「山崎さん、お忙しいところすみません。三〇三号室の佐々木さんのことなんですが……」
「ああ、佐々木さんね。あそこは本当に素晴らしいご家族だよ。挨拶もしっかりしているし、お子さんも礼儀正しくてねぇ。このマンションの鑑ですよ」
山崎さんは、いつもの好々爺とした表情で頷いた。
「あの、実は昨日……奥様にお会いしたんですが、なんだか以前とお顔が違うような気がして。もしかして、親戚の方か何かが泊まりに来ているんでしょうか?」
高木が慎重に言葉を選ぶと、山崎さんは不思議そうに首を傾げた。
「お顔が違う? はぁ.....何を言ってるんですか、高木さん。奥さんはずっとあの方ですよ。色白で、いつもベージュのカーディガンを着ていらっしゃる、あのお綺麗な方でしょう?」
高木の背筋に、氷を流し込まれたような戦慄が走った。
管理人だけではない。その日の夕方、ゴミ捨て場で会った三〇一号室の主婦にも、さりげなく佐々木家のことを聞いてみた。
「佐々木さん? ああ、素敵な奥様よね。いつも変わらずお綺麗で。昨日もお会いしたけど、相変わらず幸せそうだったわよ。いいわよね〜、見ているだけでほっこりするわ〜」
誰も、異変に気づいていないというのだろうか。
いや、違う。誰もが「昨日までの佐々木さん」と「今日の佐々木さん」を同一人物として認識しているのだ。
その夜、高木は眠れなかった。何故だろう。身体は仕事で疲れているはずなのに。
壁一枚隔てた隣から、微かな音が聞こえてくる。
それは生活音というにはあまりに無機質な、「シュルシュル」という機械の駆動音のような、あるいは「ペタペタ」と何かが剥がれては貼り付くような音だった。
高木は反射的に、いや本能的に壁に耳を押し当てた。
すると、反対側から小さな声が聞こえてきた。
「……次は、もう少し口角を上げて」
「了解。適合率は九十八パーセント」
「明日の朝食は、エプロンの色を青に変えよう。その方が『幸福度』が高く見える」
それは、大人の男と女の声だった。しかし、そこには感情の機微が一切なかった。まるで、明日の舞台のセリフを確認し合う役者のような、冷徹な打ち合わせ。
ガタッ。
高木が驚きのあまり、壁を少し叩いてしまった。
音が止まった。
隣の部屋が、一瞬で完全な静寂に包まれる。
高木は息を殺した。
しばらくして、壁の向こうから、聞き覚えのある「あの声」がした。
それは、靴下にメッセージを書いたはずの、陽太くんの声だった。
「……ねえ、パパ。お隣の人が、見てるよ」
その直後、高木のスマートフォンの通知が鳴った。
画面を見ると、マンションの全住人が登録している防災用グループチャットに、メッセージが届いていた。
『三〇二号室の高木様。夜分に壁を叩くのはお控えください。皆様の「幸福な睡眠」の妨げになりますので。 ——三〇三号室 佐々木より』
メッセージの末尾には、にっこりと笑う家族の絵文字が添えられていた。




