表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
隣の幸福  作者: 喜國 畏友
第1部:完璧な隣人

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/4

1.

 そのマンション、ヴェール・ド・リュミエールの三〇二号室に引っ越してきてから、高木が最も強く感じたのは「静寂」だった。

 都心から少し離れた閑静な住宅街にあるその物件は、防音設備が整っている。隣人の生活音に悩まされることもなければ、深夜の道路を走る車の音も遠い。三十を過ぎた高木にとって、仕事に追われる日々の中、この静かな住環境は何よりの救いであり、癒しでった。

 しかし、その静寂を破る存在が一つだけあった。

 隣の三〇三号室、佐々木さん一家だ。

 彼らは、あまりにも「幸福」だった。

 朝、高木が出勤のために玄関を出ると、ちょうど佐々木家の扉も開く。

「いってらっしゃい、パパ! 今日も頑張ってね」

「ああ、行ってくるよ。

 二人とも、ママの言うことを聞くんだぞ」


 若く清潔感のある夫、エプロン姿が似合う美しい妻、そしてお揃いの服を着た天使のような仲良し兄妹。彼らは映画のワンシーンのように完璧な笑顔を交わし、ハイタッチをして別れる。その光景には一点の曇りもなく、現代社会が忘れてしまった理想の家族像がそこにあるようだった。

 最初こそ、高木はそれを微笑ましく思っていた。独身の自分には縁のない眩しさだと、少しばかりの羨望さえ感じていた。

 だが、一ヶ月も経つと、その眩しさが「違和感」に変わり始めた。

 彼らはいつ見ても、全く同じテンションで笑っているのだ。

 子供がぐずったり、駄々をこねたりしてるいることを一切見たことがない。夫婦が疲れた顔でゴミ出しをしているところを見たことがない。雨の日も、風の日も、月曜の朝も、彼らは常に「最高に幸せな瞬間」を維持しているように見えた。

 

 まるで、「人形」かなにかのように。

 違和感が恐怖に変わったのは、ある土曜日の午後のことだった。

 ベランダで洗濯物を干していた高木の足元に、隣の三〇三号室から何かが飛んできた。

 それは、小さな子供用の靴下だった。白地に青いラインが入った、どこにでもあるようなスポーツソックス。

 高木はそれを拾い上げた。隣の佐々木家の息子、陽太(ようた)くんのものだろう。

 返してあげようと手にした瞬間、高木の指先が止まった。

 靴下の裏側、土踏まずのあたりに、マジックで何かが書かれている。

 名前ではない。

 乱れた、震えるような筆跡で、こう書かれていた。


『たすけて パパがちがう』


 心臓がドクリと跳ねた。いや、身体全体だったのかもしれない。

 パパが、違う?


 毎朝、玄関先で爽やかに挨拶を交わすあの父親のことだろうか。あの優しい笑顔の、非の打ち所がまるでないような男性のことだろうか。

 高木は靴下を握りしめたまま、隣の三〇三号室との間にある隔て板を見つめた。

 静かだった。

 いつもなら、この時間帯は子供たちの楽しそうな笑い声や、母親の弾むような声が聞こえてくるはずなのに。今日は、耳を澄ましても何も聞こえない。

 冷たいようなゆるいような汗が背中を伝う。

 ただの悪戯いたずらだろうか。子供がふざけて書いたものだろうか。

 しかし、あの「パパ」に向けられる陽太くんの笑顔は、いつも完璧だった。あの笑顔の下で、子供がこんなメッセージを隠し持っているなんてことがあるだろうか。

 高木は意を決して、靴下を手に隣の玄関へと向かった。

 呼び出しチャイムを押す指が、わずかに震える。


 ピンポーン。と、軽やかな音が廊下に響く。

 数秒後、内側からカチャリと鍵が開く音がした。

「はい、どなたですか?」

 扉が開いた。

 そこに立っていたのは、佐々木さんの奥さん――であるはずの女性だった。

 しかし、高木は絶句した。

 顔が、違う。

 髪型は同じだ。服装も、昨日見かけた時と同じ淡いベージュのカーディガンを着ている。

 だが、鼻の形が、目の開き方が、肌の質感が、明らかに昨日までの彼女とは別人だった。

 それなのに、彼女は昨日までの「佐々木さんの奥さん」と全く同じ、完璧な、花が咲くような笑顔で高木を見つめていた。

「あら、お隣の高木さん。どうかなさいましたか?」

 声まで、昨日とは違っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ