1.
そのマンション、ヴェール・ド・リュミエールの三〇二号室に引っ越してきてから、高木が最も強く感じたのは「静寂」だった。
都心から少し離れた閑静な住宅街にあるその物件は、防音設備が整っている。隣人の生活音に悩まされることもなければ、深夜の道路を走る車の音も遠い。三十を過ぎた高木にとって、仕事に追われる日々の中、この静かな住環境は何よりの救いであり、癒しでった。
しかし、その静寂を破る存在が一つだけあった。
隣の三〇三号室、佐々木さん一家だ。
彼らは、あまりにも「幸福」だった。
朝、高木が出勤のために玄関を出ると、ちょうど佐々木家の扉も開く。
「いってらっしゃい、パパ! 今日も頑張ってね」
「ああ、行ってくるよ。
二人とも、ママの言うことを聞くんだぞ」
若く清潔感のある夫、エプロン姿が似合う美しい妻、そしてお揃いの服を着た天使のような仲良し兄妹。彼らは映画のワンシーンのように完璧な笑顔を交わし、ハイタッチをして別れる。その光景には一点の曇りもなく、現代社会が忘れてしまった理想の家族像がそこにあるようだった。
最初こそ、高木はそれを微笑ましく思っていた。独身の自分には縁のない眩しさだと、少しばかりの羨望さえ感じていた。
だが、一ヶ月も経つと、その眩しさが「違和感」に変わり始めた。
彼らはいつ見ても、全く同じテンションで笑っているのだ。
子供がぐずったり、駄々をこねたりしてるいることを一切見たことがない。夫婦が疲れた顔でゴミ出しをしているところを見たことがない。雨の日も、風の日も、月曜の朝も、彼らは常に「最高に幸せな瞬間」を維持しているように見えた。
まるで、「人形」かなにかのように。
違和感が恐怖に変わったのは、ある土曜日の午後のことだった。
ベランダで洗濯物を干していた高木の足元に、隣の三〇三号室から何かが飛んできた。
それは、小さな子供用の靴下だった。白地に青いラインが入った、どこにでもあるようなスポーツソックス。
高木はそれを拾い上げた。隣の佐々木家の息子、陽太くんのものだろう。
返してあげようと手にした瞬間、高木の指先が止まった。
靴下の裏側、土踏まずのあたりに、マジックで何かが書かれている。
名前ではない。
乱れた、震えるような筆跡で、こう書かれていた。
『たすけて パパがちがう』
心臓がドクリと跳ねた。いや、身体全体だったのかもしれない。
パパが、違う?
毎朝、玄関先で爽やかに挨拶を交わすあの父親のことだろうか。あの優しい笑顔の、非の打ち所がまるでないような男性のことだろうか。
高木は靴下を握りしめたまま、隣の三〇三号室との間にある隔て板を見つめた。
静かだった。
いつもなら、この時間帯は子供たちの楽しそうな笑い声や、母親の弾むような声が聞こえてくるはずなのに。今日は、耳を澄ましても何も聞こえない。
冷たいようなゆるいような汗が背中を伝う。
ただの悪戯だろうか。子供がふざけて書いたものだろうか。
しかし、あの「パパ」に向けられる陽太くんの笑顔は、いつも完璧だった。あの笑顔の下で、子供がこんなメッセージを隠し持っているなんてことがあるだろうか。
高木は意を決して、靴下を手に隣の玄関へと向かった。
呼び出しチャイムを押す指が、わずかに震える。
ピンポーン。と、軽やかな音が廊下に響く。
数秒後、内側からカチャリと鍵が開く音がした。
「はい、どなたですか?」
扉が開いた。
そこに立っていたのは、佐々木さんの奥さん――であるはずの女性だった。
しかし、高木は絶句した。
顔が、違う。
髪型は同じだ。服装も、昨日見かけた時と同じ淡いベージュのカーディガンを着ている。
だが、鼻の形が、目の開き方が、肌の質感が、明らかに昨日までの彼女とは別人だった。
それなのに、彼女は昨日までの「佐々木さんの奥さん」と全く同じ、完璧な、花が咲くような笑顔で高木を見つめていた。
「あら、お隣の高木さん。どうかなさいましたか?」
声まで、昨日とは違っていた。




