第二話 才能のレクイエム
奏が消えたアパートに私が帰ってきたのは、コンクールの最終選考が終わった日の昼過ぎだった。結果は、惨敗。あんな醜態を晒したのは生まれて初めてだった。
あれほど完璧だったはずのレシピ。しかし、本番の舞台に立った瞬間、頭の中が真っ白になった。手順が思い出せない。あれほど体に染みついていたはずの感覚が、指先からすっぽりと抜け落ちてしまっていた。時間だけが過ぎていき、私が提出できたのは、見るも無惨な形に崩れたムースの残骸だった。
審査員たちの侮蔑するような視線が、今も脳裏に焼き付いて離れない。
「ただいま……」
返事はない。いつもなら「おかえり」と優しい声で迎えてくれる奏の姿は、どこにもなかった。部屋は、異様なほどに静まり返っていた。
そして、気づいた。奏の物が、作曲機材も、服も、何もかもが綺麗さっぱりなくなっていることに。テーブルの上には、花びらが散らされた一輪の薔薇の茎だけが、ぽつんと残されていた。
「……っ、出ていったんだ」
瞬間、胸に込み上げたのは悲しみではなかった。安堵と、解放感。
ちょうどよかった。これで面倒な別れ話をしなくて済む。都さんのマンションに引っ越すための好都合な口実ができた。奏も、私の重荷から解放されてせいせいしているのかもしれない。
私は携帯を取り出し、すぐに都さんに電話をかけた。
「都さん、私です。……奏、いなくなっちゃったみたい」
『そうか。それでいいじゃないか。ちょうど今、君にぴったりの仕事を持ってきたところだよ。僕が設計した新しいホテルの、デザート部門のプロデュースを君に任せたい』
「ほんと!? やる、やります!」
コンクールの失敗など、すぐに吹き飛んだ。奏がいなくなったことなんて、どうでもよかった。私には都さんがいる。新しい、輝かしい未来が待っている。私は、そう信じて疑わなかった。
しかし、その日から、私の世界は少しずつ、確実に崩壊を始めた。
都さんのマンションでの新しい生活。豪華な内装、窓から見えるきらびやかな夜景。奏のいたカビ臭いアパートとは何もかもが違った。なのに、私の心は少しも満たされなかった。それどころか、焦りばかりが募っていく。
あれほど泉のように湧き出てきたお菓子のアイデアが、ぱったりと浮かばなくなったのだ。
ホテルのプロデュースの仕事も、全く進まない。試作品を作ろうとしても、味が決まらない。分量を間違える。デコレーションは、まるで素人のように不格好になる。
「どうしたんだい、瑠奈。君の才能はこんなものじゃなかったはずだ」
都さんの言葉が、私を追い詰める。そんなこと、私が一番わかっている。でも、どうしてなのかわからない。まるで、自分の中から何かがごっそりと抜け落ちてしまったかのようだった。
それは、都さんも同じだった。
あれほど順風満帆だった彼の仕事にも、陰りが見え始めていた。鳴り物入りで参加した国際コンペで、まさかの惨敗。自信作だった設計案は「時代遅れで独りよがりだ」と酷評された。
「ありえない……! 審査員どもは見る目がないのか!」
プライドを傷つけられた都さんは荒れ、私に当たり散らすようになった。
「君のせいだ! 君といるようになってから、どうも運が悪い!」
「私のせい!? 何もかもうまくいかないのは、そっちでしょ! 私だって、あなたのせいでめちゃくちゃよ!」
かつて互いの才能に惹かれ合ったはずの私たちは、今や互いを罵り合うだけの醜い関係に成り下がっていた。幸運に見放され、才能が枯渇した者同士の、惨めな傷の舐め合い。
そんな生活が一年ほど続いた頃だろうか。私はホテルの仕事もクビになり、近所の小さなケーキ屋でパートとして働くのがやっとだった。都さんも、致命的な設計ミスが発覚して業界から干され、親の遺産を食い潰すだけの毎日を送っていた。
ある夜、私と都さんは、テレビから流れてきた音楽に釘付けになった。それは、世界的な音楽賞の授賞式の生中継だった。
『……今年の最優秀作曲家賞は、日本人アーティスト、KANADE!』
画面に映し出されたのは、見違えるように洗練された、知らない男の顔だった。高級なタキシードを着こなし、喝采を浴びながら、涼やかな笑みを浮かべている。
でも、私は知っていた。
あの声、あの瞳。
天音奏。私があっさりと捨てた、元恋人だった。
『この曲は、私に絶望と、そして再生のきっかけを与えてくれた、ある女性に捧げます』
奏は、流暢な英語でそうスピーチした。その言葉が、私の胸に突き刺さる。
どうして。なんで、あんな男が。
奏が作った曲は、世界中を席巻していた。私が捨てた、あの貧乏作曲家が、今や世界的な成功者になっていた。
それから数日後。一通の招待状が、荒れ果てたマンションのポストに届いた。
差出人は、奏が新たに設立した音楽レーベル。都心の一等地に新しく建てられた、自社ビルの完成披露パーティーへの招待状だった。私と、都さんの連名で。
これは、屈辱的な見せつけだ。わかっていた。でも、行かずにはいられなかった。確かめなければいけない。そして、できることなら――。
パーティー会場は、かつての私たちが夢見た世界そのものだった。着飾った業界人たち、シャンパンの泡、そして中央で談笑する奏。彼は、私たちがいることに気づくと、人垣を分けてまっすぐこちらへ歩いてきた。その瞳は、昔の優しさが嘘のように、絶対零度の光を宿していた。
「やあ、久しぶり。来てくれたんだね、瑠奈。……それから、鳳条院都さん」
奏の声は、穏やかでありながら、有無を言わせぬ威圧感をまとっていた。
「奏……あなた、どうして……」
声が震える。都さんは、プライドが邪魔をしているのか、苦々しい顔で黙り込んでいる。
奏は、ふっと笑った。それは、すべてを見下すような、冷たい笑みだった。
「どうして、か。君たちが一番よく知っているんじゃないかな。君たちが失ったもの。それがどこへ行ったのか」
奏はそう言うと、シャンパングラスを片手に、信じられない言葉を続けた。
「君のその素晴らしいお菓子の才能も、そちらさんの強運も、もとはと言えば全部僕のものだったんだ。僕が君を愛することで、僕の力が君に流れ込み、君の才能は花開いた。そして、君と関係を持ったこの男にも、おこぼれの幸運が流れていた。ただそれだけのことさ」
何を言っているの、この男は。頭がおかしくなったんだ。そう思おうとした。
しかし、奏の瞳は、それが紛れもない真実なのだと物語っていた。
私が才能を失った日。奏が消えた日。すべてが、繋がった。
「僕を裏切ったあの日、僕は自分の力に気づいた。そして決めたんだ。君たちから、僕が与えたものをすべて回収させてもらおう、とね」
足元から、地面が崩れ落ちていくような感覚。眩暈がして、立っていられなかった。
「う、嘘よ……そんな……奏、お願い、もう一度、私とやり直して! 私、あなたが必要なの! あなたがいないと、私……!」
私は、みっともなく彼の足元に縋り付いていた。才能を失った今の私は、ただの抜け殻だ。もう一度、あの輝かしい日々を取り戻したい。そのためなら、どんなプライドも捨てられる。
しかし、奏は冷たく私を見下ろしただけだった。
「もう遅いよ、瑠奈」
その声には、一片の感情もこもっていなかった。
「君が捨てたのは、将来性のない貧乏作曲家じゃない。君の才能そのもの、君の未来そのものだったんだ。気づくのが、あまりにも遅すぎたね」
隣で、都さんがわなわなと震えている。
「ふざけるな……! 俺の成功は、俺自身の力だ! お前のような貧乏神の力であるものか……!」
絞り出すような都さんの言葉に、奏は一瞥をくれただけだった。
「ああ、そう思いたいならそれでもいいさ。せいぜい、幸運に見放された人生を足掻きながら生きていくといい。もっとも、君に残されたのは、才能の枯れた女と、莫大な負債だけだったかな?」
その言葉は、残酷な事実だった。院都はもう、再起不能なほどの借金を抱えている。
奏は、私たちに背を向けた。
「さようなら。君たちは、僕の作った新しい世界の礎になってくれた。その点だけは、感謝しているよ」
その背中は、あまりにも大きく、遠かった。
私はその場に泣き崩れ、都さんは、まるで魂が抜けたように立ち尽くしていた。パーティーの喧騒が、遠い世界の出来事のように聞こえる。
私たちはすべてを失った。才能も、幸運も、富も、名声も。
そして残されたのは、互いを憎み合うことしかできない、空っぽの二人だけ。
奏が言った通りだった。私たちは、彼の新しい世界の礎になったのだ。才能と幸運を吸い尽くされた、ただの抜け殻として。
この絶望から、私たちに逃れる術はもうない。お互いの顔を見るたびに、失ったものの大きさを思い知らされる。この地獄は、これから永遠に続いていくのだ。
後悔するには、何もかもが、もう遅すぎた。
奏は、私たちに背を向けた。
「さようなら。君たちは、僕の作った新しい世界の礎になってくれた。その点だけは、感謝しているよ」
その背中は、あまりにも大きく、遠かった。
私はその場に泣き崩れ、都さんは、まるで魂が抜けたように立ち尽くしていた。パーティーの喧騒が、遠い世界の出来事のように聞こえる。
私たちはすべてを失った。才能も、幸運も、富も、名声も。
そして残されたのは、互いを憎み合うことしかできない、空っぽの二人だけ。
奏が言った通りだった。私たちは、彼の新しい世界の礎になったのだ。才能と幸運を吸い尽くされた、ただの抜け殻として。
この絶望から、私たちに逃れる術はもうない。お互いの顔を見るたびに、失ったものの大きさを思い知らされる。この地獄は、これから永遠に続いていくのだ。
後悔するには、何もかもが、もう遅すぎた。
あのパーティーの後、私と都さんはすぐに破綻した。互いの存在そのものが、失われた輝かしい過去を突きつける拷問でしかなかったからだ。都さんは私を殴り、私は彼を罵った。そして、借金取りがマンションになだれ込んできた日を境に、私たちは二度と会うことはなかった。
あれから、五年が過ぎた。
私は今、都心から遠く離れた、古びた木造アパートの一室で一人暮らしている。かつて奏と暮らした部屋よりもさらに狭く、陽も差さない薄暗い部屋だ。
ケーキ屋のパートは、結局どこへ行っても使い物にならず、すぐにクビになった。今の私の仕事は、深夜のオフィスビルの清掃。誰とも顔を合わせず、ただ黙々と床を磨くだけの毎日。
鏡を見れば、そこにいるのは生気の失せた中年女。艶やかだった髪はパサつき、肌は荒れ放題。おしゃれをする気力も、金もない。時折、コンビニの雑誌コーナーで、奏の姿を見かけることがある。世界中を飛び回り、若き天才女性画家を新しいパートナーとして紹介している記事だった。彼女の絵は、奏と出会ってから、色彩がより豊かになったと絶賛されていた。
その記事を見るたび、私の心臓は黒い氷で握り潰されるような痛みに襲われる。
もし、あの時、私が奏を裏切らなかったら。
あの貧しいけれど幸せだった部屋で、彼のそばに居続けていたら。
今、彼の隣で微笑んでいるのは、私だったのかもしれない。世界一のパティシエとして、彼と共に輝かしい未来を生きていたのかもしれない。
「あ……ああ……」
意味のない「もしも」が頭を巡るたび、私はその場にうずくまって嗚咽するしかできない。それは決して届くことのない、自業自得の悲鳴。才能を失った私が作れるのは、もう塩辛い涙の味しかしなかった。
先日、仕事帰りの早朝、駅前で日雇い労働者の人だかりの中に、見覚えのある男を見つけた。
鳳条院都だった。
かつての自信に満ちた面影はどこにもなく、汚れた作業着を着て、虚ろな目で地面を見つめていた。彼の周りだけ、不運のオーラが漂っているように見える。私に気づいた彼と一瞬だけ視線が合ったが、そこには憎悪と軽蔑の色が浮かぶだけ。私たちは何も言わず、汚物でも見るかのように顔をそむけ、すれ違った。彼もまた、幸運という名の翼をもがれ、地面を這いずり回るだけの人生を送っているのだ。
一方、奏は、どうしているだろうか。
彼はきっと、私たちのことなどもう覚えてもいないのだろう。彼の世界はあまりにも高く、光に満ちている。私たちが生きるこの薄暗い底辺からは、その姿をぼんやりと見上げることしかできない。
彼の音楽は、今も世界中で愛されている。特に、彼が賞を獲ったあの曲――私に絶望を、そして彼に再生を与えたというあの曲は、今やクラシックのスタンダードナンバーとして、未来永劫語り継がれていくという。
曲のタイトルは、『レクイエム・フォー・フールズ』。
――愚か者たちへの鎮魂歌。
そう、私たちは愚か者だった。自らの手で、自分たちの未来そのものを葬り去った、救いようのない愚か者。
そしてこの鎮魂歌は、私たちを生きたまま弔い続ける。
才能と幸運を根こそぎ奪われ、絶望という名の墓碑銘を背負って、私たちはこれからも生きていく。互いを呪い、過去を悔やみ、そして、決して手が届かない場所で輝き続ける奏の存在に、永遠に苛まれながら。
それが、私たち二人に与えられた、無慈悲で、あまりにも当然の、因果応報なのだから。




