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君が捨てたのは、君の未来そのものだった ~才能と幸運を吸い尽くされた元カノと間男の末路~  作者: ledled


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第一話 裏切りのプレリュード

六畳一間の安アパート。その小さな城が、僕、天音奏あまね かなでの世界のすべてだった。壁には防音シートが雑に貼られ、部屋の隅にはキーボードとモニターが置かれた作曲スペース。そして、その隣には小さなキッチン。そこは恋人である星詠瑠奈ほしよみ るなの聖域だ。


「奏、ちょっと味見してくれる?」


振り返ると、エプロン姿の瑠奈が小さな皿を手に、期待に満ちた瞳でこちらを見ていた。艶やかな黒髪を無造作にまとめ、小麦粉を少しだけ頬につけたその姿は、どんな着飾った女性よりも輝いて見えた。


「もちろん。今日の新作?」

「うん。次のコンクールに出す試作品。フランボワーズとピスタチオのムース」


差し出されたスプーンを受け取り、淡い緑と鮮やかな赤が層をなすムースをそっと口に運ぶ。舌の上で溶けると同時に、ピスタチオの香ばしさとフランボワーズの甘酸っぱさが絶妙なハーモニーを奏でた。まるで音楽みたいだ、といつも思う。


「……すごいよ、瑠奈。今までで一番美味しいかもしれない。酸味と甘みのバランスが完璧だ」

「ほんと? よかったぁ……!」


心からの僕の言葉に、瑠奈は花が咲くように笑った。その笑顔を見るためなら、なんだってできる。そう本気で思っていた。


僕の本業は作曲家。しかし、それで食べていけるのはほんの一握りの天才だけだ。鳴かず飛ばずの僕は、深夜のコンビニと昼間の引越し業者、二つのアルバイトを掛け持ちして生活費を稼いでいた。自分の曲を作る時間は、眠る時間を削って捻出するしかない。


それでも、不幸だと思ったことは一度もなかった。僕には瑠奈がいたから。彼女が「世界一のパティシエになる」という夢を語る時、その瞳は星のようにきらめいていた。その夢を支えることが、いつしか僕自身の夢にもなっていた。


「奏の曲、最近すごく良い感じだよね。聴いてると、お菓子のアイデアがどんどん湧いてくるの」


瑠奈はよくそう言ってくれた。僕がヘッドフォンで作りかけのデモ音源を聴いていると、彼女は隣でデザイン画を描き始める。僕のメロディが、彼女の創造性を刺激する。彼女の作るケーキが、僕の心を癒してくれる。僕たちは、互いに影響を与え合い、二人で一つの未来を築いているのだと信じていた。


三年間、この小さな部屋で寄り添って生きてきた。瑠奈の才能は着実に開花し始めていた。最初は町の小さなコンテストでの入賞だったのが、やがて地方大会で優勝し、ついには全国規模のコンクールへの推薦を手にした。


「すごいじゃないか、瑠奈! 本当におめでとう!」


合格通知の手紙を抱きしめて泣きじゃくる彼女を、僕は強く抱きしめた。自分のこと以上に嬉しかった。僕の稼ぎのほとんどは、彼女の製菓道具や高価な材料費に消えていたが、後悔なんて微塵もなかった。この日のために頑張ってきたのだから。


しかし、その頃からだっただろうか。僕たちの間に、見えない亀裂が走り始めたのは。


全国コンクールが近づくにつれ、瑠奈の帰りはどんどん遅くなった。


「今日は、有名なパティシエの講習会があって」

「お店の先輩たちと、情報交換の食事会なの」


理由はいつも夢のため。僕はそれを疑うことなんてしなかった。疲れて帰ってくる彼女のために、温かい食事を用意して待つ。それが僕の役割だった。


けれど、彼女の態度は少しずつ、しかし確実に冷たくなっていった。僕が作った夜食に「太るからいらない」と手をつけなくなり、スマホの画面を僕に見せないように隠すようになった。以前は「奏の曲が一番」と言ってくれたのに、最近は僕が曲を流しても「ちょっと集中したいから」とイヤホンをしてしまう。


そして、彼女の持ち物には、僕の知らないブランドの小物が増えていった。


「そのネックレス、綺麗だね。新しいやつ?」


ある日、彼女の首元で輝く繊細なプラチナのチェーンに気づいて尋ねると、瑠奈は一瞬、気まずそうに視線を泳がせた。


「あ、うん……自分へのご褒美、かな。コンクール頑張るための」


そう言って笑う彼女の笑顔は、どこか乾いて見えた。


胸の中に、小さな棘が刺さったような感覚。考えすぎだ、と自分に言い聞かせた。瑠奈は大事な時期なんだ。僕が彼女を信じなくてどうする。


運命の日。それは、瑠奈がコンクールの最終選考を翌日に控えた夜だった。


「最終調整で、今夜はアトリエに泊まり込むことになったから」


そうメッセージを残して、彼女は朝から出かけていた。僕は彼女を応援するため、奮発して花屋で一輪の薔薇を買い、ささやかなお祝いの準備をしていた。


その時、僕のスマホが鳴った。引越しのアルバイト仲間からだった。


「奏、悪い! 明日のシフト、急用で代わってくれないか?」

「ああ、いいよ。でもどうしたんだ?」

「いや、それがさっき駅前のフレンチレストランで荷下ろししてたら、有名な建築家の鳳条院都がすげえ美女とディナーしてるのを見ちまってさ。なんか急に自分の人生が虚しくなって、ヤケ酒でも呷りたくなったんだよ」


鳳条院都ほうじょう いんと。テレビや雑誌で何度も見た顔だ。若くして数々の建築賞を総なめにし、甘いマスクで世の女性たちを虜にしている天才建築家。僕とは住む世界が違う人間。


「そっか。まあ、元気出せよ」


電話を切った後、胸騒ぎが止まらなかった。嫌な予感が、背筋を冷たい汗となって伝う。まさか、そんなはずはない。


僕は、まるで何かに引き寄せられるようにアパートを飛び出した。駅前のフレンチレストラン。ガラス張りのその店は、中がよく見えた。


そして、見てしまった。


窓際の席で、キャンドルの灯りに照らされて微笑み合う二人。鳳条院都。そして、その向かいに座っているのは――アトリエに泊まり込んでいるはずの、僕の恋人、星詠瑠奈だった。


瑠奈は、僕が見たこともないような美しいドレスを身に纏い、幸せそうに笑っていた。院都が差し出したベルベットの小箱を開け、中に入っていたであろう指輪に歓喜の声を上げている。


足が、地面に縫い付けられたように動かない。頭が真っ白になり、心臓が氷の塊になったようだった。どれくらいそうしていただろうか。やがて二人は席を立ち、店から出てきた。僕は咄嗟に、物陰に身を隠す。


「都さん、本当にありがとう! こんな素敵なプレゼント……!」

「君のためなら当然さ、瑠奈。明日のコンクールが終わったら、あのカビ臭いアパートは引き払って、僕のマンションに来るといい。君の才能が、あんな貧乏作曲家と一緒にいてはもったいない」


院都の傲慢な声。そして、それに続く瑠奈の言葉が、僕の心を完全に粉砕した。


「うん……! 私も、もう限界だったの。将来性のない男の世話をするのは。奏には感謝してるけど、私はもっと上のステージに行きたい。都さんと一緒に、新しい世界を見たいの」


感謝。その言葉が、鋭利なナイフとなって僕の胸を突き刺した。

僕の三年間は、彼女にとって「世話」でしかなかったのか。僕の愛は、彼女が飛び立つための踏み台に過ぎなかったのか。


二人が高級車に乗り込み、夜の闇に消えていくのを、僕はただ呆然と見送ることしかできなかった。


アパートに戻り、冷え切った部屋の床に崩れ落ちる。テーブルの上には、彼女のために用意した一輪の薔薇。それがひどく滑稽に見えた。


涙も出なかった。感情が、感覚が、すべて麻痺してしまったかのようだった。絶望。それは、こんなにも静かで、冷たいものなのか。


その時だった。


僕の頭の中に、今まで感じたことのない奇妙な感覚が流れ込んできた。それは、無数の光の糸だった。その糸の一本一本が、僕の過去の記憶と繋がっている。


――瑠奈が初めてコンテストで入賞した日。彼女は僕の作った曲を聴きながらレシピを考えていた。僕の頭の中から、輝く光の粒子が彼女へと流れ込んでいくビジョンが見える。


――瑠奈がスランプに陥り、ケーキが作れなくなった時。僕は彼女の手を握り、「瑠奈なら大丈夫」と励まし続けた。僕の手のひらから、温かいエネルギーが彼女に注がれていく。そして翌日、彼女は嘘のように素晴らしいケーキを完成させた。


――鳳条院都。彼が大きなコンペで勝利したというニュースを見た時、瑠奈は興奮して「この人、すごいのよ!」と話していた。その時、テレビ画面の彼から、細く、しかし確かな光の糸が瑠奈を経由して、僕へと繋がっていたのが見えた。


なんだ、これは。


理解が追いつかない。しかし、脳が、魂が、直接理解する。


これが、僕の力。


僕が心から愛し、信頼した相手と繋がることで、その人間の持つ「才能」の原石や、その人間を取り巻く「幸運」を、無自覚に吸い上げ、増幅させ、自身の力に変えてしまう。

その力を、僕は無意識のうちに瑠奈に分け与えていたのだ。僕が側にいたから、彼女の才能は開花した。僕というフィルターを通して幸運を引き寄せていたから、院都は成功し続けていた。


僕が、彼女たちの力の源泉だった。


「あ……あはは……あはははははは!」


乾いた笑いが、喉から迸った。なんて滑稽な喜劇だ。僕が与えた力で成功した女が、僕を「将来性がない」と捨て、僕が与えた幸運で成功した男が、僕を「貧乏作曲家」と見下す。


絶望が、ふつふつと煮え滾るような黒い感情に変わっていく。憎悪。復讐心。


許さない。絶対に。


僕を裏切ったあの二人を、ただでは済まさない。

彼らが最も執着し、自分たちのものだと信じて疑わないもの。

瑠奈の「才能」。院都の「幸運」。


それを、根こそぎ奪い取ってやる。僕が与えたものなのだから、取り返す権利は僕にあるはずだ。


僕はゆっくりと立ち上がった。もう涙は一滴も流れなかった。心は、凍てつく冬の湖のように静まり返っていた。


僕は、瑠奈と繋がっていた光の糸を、意識して手繰り寄せる。それは、これまで感じたことのないほどの強烈なエネルギーとなって、僕の全身に流れ込んできた。脳が焼き切れそうなほどの情報と霊感が、奔流となって押し寄せる。


同時に、院都に繋がっていた幸運の糸も、瑠奈を経由して僕のもとへ。


ああ、そうか。これが僕の本当の力。

『共鳴』。

愛する相手と同調し、才能を吸い上げる力。そして、憎む相手と同調し、幸運を奪い尽くす力。


僕は静かにパソコンの電源を入れた。ディスプレイの明かりが、冷たい表情の僕を照らし出す。指が自然とキーボードの上を滑り始めた。


頭の中に鳴り響く、壮絶なメロディ。それは、復讐の序曲。


明日のコンクール、瑠奈は最高の作品を作ることなどできはしないだろう。

そして鳳条院都、お前の幸運もここまでだ。


僕は黙って、自分の荷物をボストンバッグに詰め始めた。服、楽譜、そしてパソコン。この部屋に残すものは何もない。瑠奈との思い出が詰まった品々も、今の僕にとってはただのガラクタだ。


テーブルの上の一輪の薔薇を手に取る。その花弁を一枚、また一枚と引きちぎり、床に散らした。


さようなら、僕の愛した人。

そして、これから始まる絶望へようこそ。


夜が明ける前に、僕は静かにアパートの扉を開け、振り返ることなく闇の中へと歩き出した。復讐の旋律を心に奏でながら。

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