短編 トレック・バウハーの憂鬱な休日出勤 5話
トレックが抱き上げても少し唸るだけで、子どもは目を覚まさない。
「肝が据わってるな、こいつ」とトレックが可笑しそうに微笑んだ。
そのまま外の母親へと知らせに行った。
母親は涙を滲ませて何度も頭を下げた。そこで子どもはようやく目を覚まし、何が何だかわからないという顔をしていて、その場にいた皆がほっとしたように笑った。
子どもが無事だったのはもちろん良かったが、トレックがいつもどおりの笑顔を見せていることに、言葉にならないほどの安堵を感じていたのは自分だった。
そのことに少し、驚いている。
「すげえだろ、俺。空間認識能力には自信がある」
窓から穏やかな日の入る廊下を歩きながら、トレックが得意気に振り返る。
「うん、すごい。俺にはできなかった」
正直にそう答えると、トレックは歯を見せて笑った。
「総務係じゃあまり使えねえ特技だけどな」
その自虐的な言葉に苦笑いを返す。
先の消沈していたあいつとは違う。
もう……大丈夫そうだ。
日は高く上り、いつの間にか探索士試験の終了時間を迎えていた。
§
受験者達はぞろぞろと会場を後にしていく。
「君たちねぇ」
マティアスは色白の額に青筋をうかべていた。
試験会場の後片付けが一斉に行われており、体育館も職員が慌ただしく動き回っている。
「今日の仕事と関係ありませんよね? そういうことは警察にでも任せておけばよかったんですよ。試験中に関係ない放送までして、試験に影響が出たら君たちに責任取れるんですか? しかも扉まで壊して……」
「はあ、ほんとすみません。──とりあえず片付け手伝ってきますね」
「あっ、ちょっと君たち……」
一応の報告をしには来たが、説教が始まりそうだったのでトレック、ティーバとともに片付けに逃げる。
「どうせやることもなかったんだ。人助けしたっていいじゃねえか。なあ」
体育館で他の職員と同様椅子を重ねて運ぶトレックの言葉に、「そうだね」とティーバも頷く。
「あ、貼り紙も剥がさないと」
ふと思い出して口にすると、トレックが「俺が行く」と軽やかに体育館を出て行った。
「……大丈夫だったみたいでよかった。子どものこともそうだけど」
その背を見るともなく見送り、ティーバがぽつりと言う。
「あいつが静かだと、こっちが落ち着かない」
笑って同意した。
続けて体育館の床に貼られた目印のテープを剥がしていると、剥がそうとしていた先を大きな靴に踏みつけられた。
見上げれば、バルー・ウッドランドが壁のように立っていた。
「──あの、踏んでるんですけど」
「あいつの同僚が“杖無し”とか笑えるな」
退く気配はなく一旦テープを諦めて立ち上がると、ティーバも近くに来てバルーに言う。
「暇なんですかあなた。試験課の皆さん、忙しそうにしてますよ」
「こういう雑務は俺はやらねえんだよ」とバルーは低く笑った。
「なあ、あいつが何で調査係を辞めたか知ってるか? 知らないよな」
「……興味ないです。受付の片付け行こう、ティーバ」
「調査係の相棒を見捨てたんだぜ、あいつは」
向けた背にバルーの声が投げられ、思わず足を止める。
「案内役のくせにミスって危険な場所に行っちまった。自分が助かるために相棒を……俺の弟を置き去りにしたんだ。あいつも怪我をしたが、職務中の怪我だからって国から金までもらって」
「……」
バルーの声はよく響いた。他の職員は巻き込まれたくないのか、聞こえてはいるだろうが黙々と各自の作業をやっている。
「そんな卑怯な奴が──“掃き溜め”みたいな職場に飛ばされた奴が、そこで楽しそうにやってるなんてなあ、おかしいだろ」
ふと見ると、体育館の開け放された入口で、剥がした紙を手にしたトレックが無表情に立っていた。
何か、言わなければという思いに駆られた。
「……トレックが、自分の口で語らないことを、他人の口から聞く気はありません」
はっ、とバルーは馬鹿にするように笑った。
「いい同僚に恵まれたもんだ、トレック・バウハー。今度は大事にできるといいな」
ティーバが固まっているトレックの肩に触れ、「行こう」と囁いた。
僅かに唇を噛み、トレックはティーバの後に続く。
そんなトレックの背を押し出すようにして体育館の扉を閉めた。




