ソナ・フラフニルの歓迎会 4/4
ティーバは2人乗り箒をケースから出し、上着の襟元をきっちりと締め直す。
「──で、どこの職員寮なの?」
「え、あ、レグリー通りの単身寮です」
「ああ、あそこね」
「確かに駅から遠い」と帽子を目深にかぶり、ティーバは頷いた。
運転席側に立ってソナに振り返る。
「早く乗って」
…………
月も傾きかけた深夜である。
冷たい風を切って、2人乗り箒は滑るように夜空を飛ぶ。
大小のドーム型の遺跡の結界が、道しるべのように地上で輝いていた。
2人乗り箒に乗れる嬉しさはあったが、前に立つティーバは終始無言で、この2人きりの状況での沈黙は何となく辛かった。
「あ、あの……本当にすみません。乗せてもらって」
やや間を開けてからティーバは口を開く。風の音にも紛れてしまいそうな覇気のない声だ。
「そう思うんなら、今度から気をつけて」
「はい。その……お酒も初めてで、飲酒運転になるとか全然思い至らなくて」
「初めて?」
ティーバが前を向いたまま聞き返す。
「君、とっくに成人してるよね」
「ええと……」
ソナは言い淀んだ。
「母が、お酒が嫌いで、飲む人のことも嫌いなので」
「ああそう」
短く答えて沈黙したのち、「でも」とティーバはちらりと振り返る。
「君は家を出ることを選べたわけだ」
その声には微かに温かみがあった。
「……はい」
「大変だったんじゃないの。あのお母さんなら」
「はい、とても」
迷わずに頷いてしまう。
本当に、ひとり暮らしをすると告げた時の母との一悶着は大変だった。
でもそれも過去だ。今はこうして、選んだ結果を手にしている。
くっと、ティーバが小さく笑ったような気がした。
「まあでも、酒はいいことばかりじゃないから」
「……はい」
「トレックが」とティーバは意外にも話を広げる。
「前に係で飲んだ席で、他の客と揉め事を起こしたことがあって」
「え」
「近くにいた客がカイリのことを侮辱したんだ。それでトレックが怒って、酒が入ってたぶんキレ方も酷くて、危うく処分ものだった。……でも、あいつがやらなきゃ僕がやってたけど。素面でもね」
「……」
トレックの酒にまつわる失敗はどうやらこのことらしい。
彼らしいような気もした。
箒はゆったりと下降を始める。
「カギモトさんは、お酒に弱いって言ってました。好きなのに飲めないって残念ですね」
何の気なしに酒の話題を続ける。
しかし、ティーバを纏う温度がすっと下がったように思えた。
「カイリは弱いわけじゃない。人前で酔わないようにしてるだけだ」
「そう、なんですか?」
「気が緩むから」
「……」
ティーバはハンドルを握り直す。
「うっかり本音が出たりするだろう。それが嫌なんだよ、あいつは」
返す言葉もなく、箒は寮の前の門近くに静かに着陸した。
「本当にお手数おかけしました」
箒を降り、職員寮の古びた門の前でティーバに頭を下げた。
「いいよ、別に」とティーバは素っ気なく、また箒を起動させようとする。
「あの」
そのうしろ姿を反射的に呼び止めていた。
ティーバはゆっくりと振り返る。
「──何?」
「私、今日初めてお酒を飲んで、皆さんとお話してとても……楽しかったんです」
「……」
「普段なら言えないことも、言えたりして、その……お酒の力に頼るのはいけないとは思いますが、でも」
いつも、穏やかな笑顔を見せるカギモト。
“海向こうの世界”から来た彼は、あの宴の後、地下の部屋でひとり、何を思うのか。
「いつでも本音を言えないって、さ……淋しいことじゃないですか……?」
鼻の奥が痛くなる。
ティーバは長い前髪越しに、じっとソナを見つめていた。
それから口端を僅かに持ち上げる。
「まだお酒残ってる? もしかして泣き上戸?」
「……」
「冗談だよ」とティーバは肩をすくめ、真顔になった。
「言いたいことはわかるよ。僕もそう思ってる。もっと気楽に、誰かに頼ればいいのにってね」
でも、と上着のポケットに手を入れて低い月を見上げる。
「あいつも子どもじゃない。自分で考えて、そうしようって決めてるんだろ」
ソナは俯いた。
「人との間には、想像よりも大きな隔たりがあると僕は思ってる。そこに、無理に踏み込むのはいけない」
諭されているような気分だ。自分の吐く白い息をじっと見つめていた。
「──とは思ってるけど」
そんなティーバの言葉に顔を上げる。
口元には優しげな笑みが浮かんでいた。
「さっきも言ったけど、何もしなかったことへの後悔だけはしたくない。だから僕は、あいつがいくら迷惑に思ってても、やりたいようにやろうと思ってる」
「……」
「君も好きにすればいい」
言葉とは裏腹に、突き放すような響きはなかった。
「はい」と頷くと、ティーバはまた小さく笑った。
それから帽子を外し、長い前髪を鬱陶しそうにかき上げた。本当に邪魔だったのだろう。ごく、自然な動作だった。
俯きがちで、いつも髪に隠れていた顔が、柔らかな月の光の下で顕になる。
「……え?」
思わず声が漏れた。
整った高い鼻筋。
分厚い黒縁眼鏡の奥でも目を引く──紫の瞳。
どこかで見たことがある。どこで。
ソナの脈が速くなる。
夜の街。月明かりの下。
「ああ、うっかりした」とティーバは前髪を上げたまま、少し困ったように笑う。作り物めいたように整った、美しい笑顔だった。
「……月の精」
真っ先に出たのはそんな言葉だ。
前に夜に家を飛び出した時、繁華街で遭遇した“杖無し”から引き離してくれた、月の光を放つような金髪の青年。
ぷっ、とティーバが吹き出す。
「な、何を言うかと思えば」
さも可笑しそうに、人差し指をソナに向ける。
「意外とメルヘンなんだ。頭の中」
「……っ」
確かに今の言葉は幼い子供のようだった。しかしそんなに笑わなくても。
顔が熱くなり、唇を噛む。
「ひ、人を指差さないでください……」
ティーバは普段の猫背をぐっと伸ばして眼鏡を外し、美しくも悪そうな笑みを浮かべた。
「躾がなってないもんで、悪いね」
「……」
ティーバに対して“躾がなっていない”などと思ったことはない。
その発言の真意もわからず、ソナはまだ信じられない思いで、見慣れぬ同僚の顔を凝視していた。
「あの時は」
口元を皮肉げに歪めたままティーバが言う。
「本当にたまたま居合わせただけだ。君につきまとってたわけじゃないから、誤解しないでほしい」
「別にしてませんが」
乾いた風が、門の脇に立つ木々の枝をざっと揺らした。
「……何なんですか、ティーバさんは」
同じ質問を、カギモトにもした気がする。
「僕にも事情はある。まあ一番は、面倒事を避けたいだけだけど」
言いながら髪の毛をぐしゃぐしゃとやり、眼鏡をかけ直す。猫背に俯いて、口調もいつもの陰気なものに戻っていた。
「……とりあえず、職場の僕とは別の人間だと思ってくれていい」
人に対して“踏み込むべきではない”とティーバは言い、一方で“好きにすればいい”とも言った。
ティーバに対してはまだ何も、選べなかった。
結局それ以上何の言葉も出ないソナをよそに、ティーバは箒に乗り込んだ。
「それじゃあ。来週からも、今までどおりでよろしく」
静かに浮上したかと思うと、勢いよく夜空へと飛んでいく。
すぐに見えなくなった。
──みんな、隠し事ばかりだ。
宴の余熱は、いずれ冷める。
思い出したような寒さに身を震わせ、ソナは寮の門へと入っていった。
………
歓迎会から数日後、出勤すると机の上に茶封筒が置かれていた。他の職員の席にもあるようだ。
不思議に思ってソナが中を見ると、写真が1枚滑り出てきた。
月鍋亭での写真だった。
皆それぞれに笑顔を浮かべているが、自分だけがどうにも不器用に笑っているように見えてならない。
同じ写真を皆が持っていると思うと何とも恥ずかしい。
でも、あの時の温かさや楽しげな会話が蘇るような、そんな気がして。
──休みの日に写真立てを買おう。
ソナはそう思い、とりあえずは机の隅に立てかけておくことにした。
……… …
セヴィンさんから渡された、この間の歓迎会の写真を見て、ほっとした。
なごやかなみんなと遜色のない、にこやかな顔で映る自分がいた。
──我ながら、よく笑えている。
皆それぞれ“らしい”笑みを浮かべているが、真ん中で、戸惑うような、はにかむようなソナの笑顔を見て思わず口元が緩んでしまい ──すぐに表情を戻す。
机の隅に何とか写真を立てかけようと苦戦しているソナを横目に、業務日誌が入っているのとは違う、あまり開閉しない引出しの奥に、裏返して滑り込ませた。
この世界での新しい思い出は。
ましてや写真なんて、いらない。
温かく鮮やかな記録は、過去の思い出を褪せたものにするだけだ。
総務係はなぜか写真が好きで事あるごとに撮られているが、すべてはこの引出しの中に眠っている。
どれもこの先、見返すことはない。
……………
完




