第83話 所長室にて
所長室に行くのはいつも気が引ける。
暗く足の踏み場もないあの部屋の埃っぽい空気、圧迫してくるような大量の蔵書、辛辣なヘルベティア、そして──所長の底しれない青い瞳。
苦手、というわけではない。
ただただ気が滅入る。
しかし行かないわけにもいかない。
それが所長との契約だからだ。
塗装の剥げた重厚感ある扉。
どうせ返事はないとわかっていながら、ノックをする。
……やはり、返事はない。
「──失礼します」
言いながら、重たく軋む扉をゆっくりと押し開けた。
冬の夕暮れのように心許ない照明。
足元の本や書類を容赦なく踏みつけて、真っ直ぐに執務机の前へ向かう。
その男──西部遺跡管理事務所所長のキィト・ザクソンは、予想していたとおり、いつものようにだらしなく頬杖をついて本をめくっていた。
「──ん? やあ」
こちらにようやく気がついた所長は、煌めく青い瞳でにやりとする。
「待ってたよ、カギモトくん」
「いや、全然待ってなかったですよね」
溜め息が出た。
所長の前だと何を取り繕う気にもならない。
見回してみたが、ヘルベティアはいないようだ。
「……これ、今月の分です」
手にしていた紫色の表紙の、厚めのノート。
“西部遺跡管理事務所 業務日誌”
タイトルと自分の名前だけを日本語で記したその冊子を、置く場所もないほどに物が積まれた所長の机に無理やり置いた。
「うん、ご苦労さんだね」
所長はそれに手を伸ばし、ぱらぱらと中を見て、わずかに眉をひそめる。
「うーん、相変わらず……君の下手くそな字は上達しないよね、全く。読む方の身にもなってくれよ」
「それは言わない約束です。こっちの世界の字、全然慣れないんですって」
「そういう問題じゃなくて、そもそも君には字を書くセンスが壊滅的にない」
それは否定できない。
子どものころからずっと、字の汚さを注意され、からかわれてきたのだ。
「……それなら手書きじゃなくていいですよねって何度も提案してますけど」
「いやいや、手書きだからこそリアルな気持ちが表れるというものだよ」
そう嘯きながら所長はページをめくる。
“西部遺跡管理事務所での出来事について、日誌を書き、定期的に提出すること”
それが“杖無し”である自分、鍵本海里を遺跡管理事務所職員に採用するために、所長が提示した条件だった。
──君を僕の研究対象にしよう。
出会ったばかりの所長に満面の笑みでそう言われた時には、怪しい人体実験でも行われるのかと心底怯えたが、何のことはない。
ただ日誌を書いて出すだけだった。
それが所長にとって何の役に立つのかはわからないし、毎日手書きで書くのは億劫だが、これで安定した収入が得られる職に就けるのなら、ありがたいというほかない。
──たとえそこが針の筵であったとしても。
「ところで例の暴走した探索士の件だけれどね」
いつの間にか俯いていた顔を上げた。
「……ドードーさん、ですか」
「今、研究所の方で色々と調べてるんだけど、彼が持ち出したアレ、やっぱり古代魔法文明の未知の技術のものだね。兵器の類だとは思うけど、魔力を人為的に付加させて強化させるものだと思われる」
「そんなことより、ドードーさんは大丈夫なんですか? いつ解放されるんですか?」
「そんなことより、かい」
所長は少しだけ残念そうに繰り返した。が、すぐに表情を戻す。
「まあ、まだ会話もできないが、このまま治療も並行していけばそのうち元通りになるだろうさ。時間はかかるだろうけれどね」
「そうですか……」
早くクルベ通りの子供達に、ドードーさんの元気な姿を見せてあげられるといいが。
あれだけ街が破壊され、怪我人も多数出たクルベ通りの事件。
探索士試験を受けるつもりだったリケもそれどころではなくなり、今回は受験を見送ることとなったと聞いた。
残念だが、とりあえずはあの規模の事件で死者が出なかったことが、不幸中の幸いといえるだろう。
包帯の巻かれた左肩を何となく擦る。
自分の怪我も、思ったより大したことはない。仕事に支障が出るようなことにならなくて、本当によかった。
「……なんか機嫌がいいですよね、所長」
微かに鼻歌交じりの所長を見て、気がついたら言っていた。
「あの事件の後からずっと」
「そうかな」
所長はきょとんとする。が、すぐに「そうだね」とにこやかに微笑んだ。
「なぜなら臨時収入があったからだろうねぇ」
あけっぴろげにそう言えるその神経が信じられない。
「それって口止め料のことですよね。……マロウ係長からの」
「そうだよ。でも別にどこの財布から出た金だろうが構わないさ。僕は常に研究費不足だからね」
よれよれのシャツで偉そうに言う。
管理係長マロウからの口止め料。
遺跡の結界管理に不備があるらしいとのエンデ始め一般探索士からの情報を受け、総務係では内密に調査を行っていた。
その結果判明したのは、メッツェン・スリンが結界管理に関する消耗品を過剰に要求し、余剰分を闇市で売りさばいていたことだった。
しかも一度遺跡に設置した資材をわざわざ間引いてまで売っていた。だからあちこちの結界で不具合が発生していた。
それらの内部調査の報告書をまとめ、所長に上げたのが2日前。
そこで、所長は提案をした。
「所長への賄賂と引き換えに、あれほどの不正を、誰の処分もせずに揉み消すのってどうなんでしょうか」
ゴシュ係長が来客室にマロウ係長とメッツェンを呼び出し報告書を突きつけた昨日、マロウ係長は所長の提案をあっさりとのみ、結局メッツェンは叱責されただけでそれ以上のペナルティは課されなかった。
メッツェンが得た金は少なくない。
それを何に使ったのかメッツェンは明かさず、警察でもないうちの係では追及しきれなかったが、おおよそ想像はつく。
少なくともノイマン、もしかしたら他の誰かとも共に属する例の──“杖無し”を排除しようとする組織への献金。
「今回のことはメッツェン個人じゃなくて組織の問題です。書類仕事をメッツェンに任せきりだった管理係も、要求された数量を精査してこなかったうちの係にも責任があります。所長にだって管理監督責任があるのに」
言い出したら止まらなくなった。
「誰がどこまで今回のことに関わっているのかもわからないんですよ。それなのに有耶無耶にして」
「賄賂だとか揉み消すだとか、人聞き悪いね」
所長は子どものように口を尖らせる。
「だって正規の手続きを踏んだところで誰も得しないだろう? この事務所の何人もが処分されたら、仕事が回らなくなるだろう? 僕への資金提供という条件でこの件は闇に葬ったんだ。今さらどうこう言わないでくれたまえよ」
「……それに、まだ納得いっていないこともあります」
不機嫌そうな所長に構わず続ける。
「メッツェンは、アレス遺跡への関与は明確に否定していました。あそこの封鎖はちゃんと規定どおりにやっていたと」
新通路調査に関する物資は過剰要求ではあった。それについては彼女も認めている。
しかし新通路の結界管理については、不備なくきちんとなされていたらしい。それは現地にいた他の職員にも確認が取れている。
そもそも彼女の目的は金であって、結界に穴を開けることではない。
軍や探索士連盟のメンバーも近くでうろつく新通路で結界に手を加えるようなことはしないという、メッツェンの言い分も理解できる。
──それならなぜ、ドードーさんは封鎖された新通路に忍び込み、遺物を外に持ち出すことができたのか?
違和感が募っていた。
新通路に限って言えば、理由はわからないが、新通路に誰かを侵入させようとする、そんな意志を感じる。
メッツェンではなく、他に、侵入を手引きした者がいるのではないか。
そう思えてならないが、狂気に陥る前のドードーさんとの会話を思い出しても、判然としない。
「とにかく、そのあたりはもう少し調べても……」
「カギモトくん」
所長の青い瞳は冷たい。
「僕は闇に葬ったと言ったよね。蒸し返すんじゃない」
「……」
「それに研究資金があるというのは、結局のところ、君のためにもなるだろう?」
こうなってしまうともう、その話題は続けられない。
唇を噛んだ。
「時に」
と所長の方が話を変える。
「ソナ・フラフニルとはどうだい?」
真っ先に浮かぶのは、冬の湖のように凍てついた灰色の瞳だ。
いつも何かを言いたそうにしていて、でも飲み込む姿が印象的で、強そうで、脆そうな同僚、ソナ・フラフニル。
すんなりと言葉は出てこなかった。
棚という棚を埋め尽くす様々な本の背表紙に視線を彷徨わせ、ようやく「良い子ですよ」と答えた。
「最初は大変でしたけど……まあ、そのあたりは今回の日誌にも書いてますから、どうぞ」
素っ気ない返事になったが、所長は満足そうに頷き、汚いマグカップに入ったよくわからない液体をぐびりと飲みながらノートに目を通す。
「そうかい。あの子も複雑なものを抱えていたようだからね。君とは良いコンビになると思ったんだよ。やはり僕の目に狂いはなかったね」
「いや、本当に大変だったんですよ?」
彼女と心を削り合った数日は、短くとも精神的にかなりきついものがあった。
不覚にも自分の弱い部分を晒してしまったことを、後悔してもいる。
とはいえ、それがあったからこそ、今があるといえるのかもしれない。
俺のことを、理解しようとしてくれている。対等に立とうとしてくれている。
その事実は、彼女のまっすぐな言葉は、心に強く響くものがあった。
一方でそれは、単なる結果論だとも思っていた。
今回も、たまたまうまくいったに過ぎない。
あと、どれほど──
そう考える度に、気が遠くなりそうになる。
どれほど、こんなやり取りを繰り返すのだろう。
相手の肚を探り合い、距離を測り合い、慎重に言葉を重ねて徐々に理解を深めていく。
元の世界ではほとんど悩まなかった人間関係の構築というものが、この世界での“杖無し”というレッテルのせいで、難易度が格段に上がってしまう。
それでいて迂闊に弱音を吐くこともできない。
ソナ・フラフニルが言ったように、“被害者ぶってる”と思われるだけだ。
──そう思われてしまったら、俺は終わりだ。
なし崩し的に、誰かに頼ってしまうようになり、社会的弱者の立場に甘んじることになるだろう。
そうなってしまえば……到底この世界で生きていこうとする気力など、湧くはずもない。
だから。
いつも薄氷を踏むような、細い糸の上を渡り歩くような、そんな気持ちでここまで来た。
しかしこれから先も、誰かと出会うたびにそんなやり取りが何度も繰り返されるというのなら──
正直うんざりだ。
急に、どっと疲れが伸し掛かかってくるような気がして思わず目を閉じる。
「──モトくん。……カギモトくん」
所長に呼ばれはっとする。
いつも気怠げな所長らしからぬ、鋭い視線が向けられていた。
「君、その顔、ちゃんとファーレンの所に行ってないね」
「……」
レン・ファーレン。
カノダリア国立大学の心理学博士。
被回収者の心理ケアを専門とする心理カウンセラー。
「定期的にカウンセリングを受けるのは、被回収者の義務だよ義務」
「食欲もあるし夜も寝られてます。どこもおかしくないし、カウンセリングなんて僕には必要ありませんが」
「そういうことじゃなくて、義務なんだって。ファーレンだって僕が紹介したんだから、僕の顔を立ててくれたまえよ」
「……電話で話はしてます」
「またマツバくんに連れて行ってもらうかい」
「それは……やめてください」
キィトは無精髭を撫でまわしながら、ふんと納得いかないように鼻から息を吐いた。
「君ねぇ」
「放っておいてくださいよ、個人的なことですから」
思わず、言い捨てるようになってしまった。
所長は開いたノートの上で頬杖をつきながら、まだ刺すような視線をくれている。
「頭は悪くないと思ってるけど、君は本当に頑なだよね。カウンセリングを受けると元の世界の記憶を消されるって、まだ誤解してるのかい」
「……」
「何度も言ってるが、違うよ。君たち被回収者がこちらの世界に馴染めるようにするためのものだ。元いたところへの執着を緩和させることはあるだろうが、記憶そのものが消されるわけじゃない。だからファーレンの所に行くんだ。行った方がいいと思うね」
──この男に何がわかる。
思わず、歯を食いしばる。
記憶に作用する魔法がこの世界にはある。
カウンセリングを受けるごとに元の世界の話をしなくなっていき、しまいには家族の名すら言えなくなってしまった被回収者の同期達を思い返せば──記憶が弄られることはないと、どうして信じられるというのか。
この世界に置かれてからずっと。
蔑む視線を受けるたび、心ない言葉を掛けられるたびに、少しずつ削られていく何か、自分の中の大事な部分。
例えば、当たり前にあった家族の温もり。友人達とのくだらない会話。小さな幸せを感じていた恋人の笑顔。
無条件で自分を受け入れてくれた世界。
そんな記憶を繰り返し思い出し、擦りきれるほどに何度も焼き直し、もはや原型すら留めていないかもしれない不自然に鮮明なそれらを、貼り直して、塗り重ねて、それで俺は……ようやく鍵本海里でいられる。
もはや手放すことなど、できないのだ。
「元の世界のことは──僕のすべてですから」
こらえたはずが、僅かに声が震えた。
そもそもそんなことを所長に言うつもりもなかった。
やはり疲れているのだろう。
もうずっと、疲れているのかもしれない。
「ただでさえ、忘れないようにしてるんです。触れてほしくない」
「君……」
「所長には感謝してます。でもこのことは本当に、放っておいてください」
「ふん、妙な方に強かだよね」
やがて所長は軽く溜め息をつき、手にしていたノートをばらりと最後までめくって閉じた。
「まあいい、君も子供じゃないんだ。とにかく僕は、君が元の場所に帰る方法の研究に尽力するさ。それでいいんだろう?」
所長の研究。
鍵本海里という人間が、魔法を使えるようになる可能性、それがゼロだと証明すること。
そうすれば、帰還の道が開けるかもしれない。
そんな砂粒ほどにも小さな希望を、掴みどころのないこの男に委ねるしかない。
「……お願いします」
浅く頭を下げた。
どこか気まずい静寂の中、ちらちらと、細かな埃が舞うのが視界に入る。
「──それで、ソナ・フラフニルさんは今日あたり退院なんだっけ」
不意に変わる話題に思考がついていけない。
少し整理してから、口を開く。
「……一昨日退院して昨日から出勤してますよ。本当に読んだんですか? それ」
「そうかい。無事でよかったよね、本当に」
所長が誰かを心配したようなことを言う。
その言葉の真意が掴みきれず、自然と首が傾ぐ。
「君の味方が多いに越したことはないからね」
「……」
「じゃあ、まあ引続きよろしく頼むよ、カギモトくん」
業務日誌を、ぽいと放るように返してきた。
「……失礼します」
それを受け取り踵を返し、扉を開ける。
「きゃっ」
「あ……」
扉の前には驚いた顔をしたヘルベティアが立っていた。
すぐにその表情に嫌悪が広がる。
「さっさと退けよ。あたしの前を塞ぐな」
最初の頃はしょっちゅう心を折られそうになっていたヘルべティアの暴言にも、今は慣れたものだ。
俺は、他人から不当に貶められていい人間ではないと、信じているから。
悪意を持つ相手と軽く言葉を交わすことくらい、わけもない。
「ヘルベティア」
「……」
「この間は、ヘルベティアがいなかったら危なかった。ちゃんとお礼を言ってなかったなと思って。──本当にありがとう」
ヘルベティアは一瞬口を半開きにしたが、すぐに顔を歪めた。
「おまえのそういうところ……本っ当に気持ち悪い!」
耳が痛くなる程の声量で怒鳴り、押し退けるようにして、ヘルベティアは中へと入っていった。
その扉がばたんと音を立てて閉じられるところまで、何となく見届けた。
ひとり立つ廊下は、来る時よりもいっそう薄暗く感じる。
少し歩くとふと視線を感じた気がした。
横を見れば、遺跡保管室の曇った窓ガラスに酷く疲れた自分の顔が映っていた。
……これじゃあ、いけない。
ぎゅっと目をつむり、数秒そのままでいて、ゆっくりと開く。
そこにあるのは何事にも揺らぐことのないいつもの表情だ。口元には、すぐにでも笑みを浮かべることができる。
──さて、総務係に戻ろう。




