第78話 “海向こうの世界”
──遥か昔。
迫害から逃れるため、我々の祖先は“海向こうの世界”からこのカノダリアの地へとやってきた。
キィトも語ったとおり、このカノダリア国は、もともとは“海向こうの世界”──文字通り、海の向こう側の世界において、得体の知れない力を使うとして恐れられ、迫害された者達が流れ着いた土地。
カノダリアの子供なら建国記として嫌と言うほど聞かされており、誰もが知っている話だ。
「カギモトさんが……“海向こうの世界”から来た?」
ソナは首を傾げた。
「うん」とカギモトは頷く。
「それは、“海向こうの世界”から連れてこられた人、という意味ですか?……“被回収者”、なんですか?」
「あ、知ってるんだね。うん、そう呼ばれてるよ」
魔法のない “海向こうの世界”でも、極々稀に魔力持ちが発生することがある。
彼らは魔法取締局に回収され、カノダリアへと連れて来られることになっている。
以前、就職先のひとつとして魔法取締局について調べたことがあった。
だからその回収業務についても、あまり開示された情報はないものの、少しばかりは知っていた。
「で、でも」
ソナは困惑する。
「こちらに連れてこられる人って、魔力が発現したから、ですよね。それならなんで……カギモトさんは魔力が無いのに」
“海向こうの世界”の魔力持ちは、その存在が確認され次第、速やかに回収される。
その理由のひとつは、魔法のない世界の人間から、魔法の存在を隠すため。
もうひとつの理由は、“海向こうの世界”の魔力持ちは、極めて優秀な魔法の素質があることが多いからだ。
だから、多大な労力をかけてでも回収される。
魔力の無いカギモトがわざわざ連れてこられる理由がない。
「俺の場合は後天的なやつで、あっちの世界にいたときに一度だけ、魔法が発動したことがあるんだ」
カギモトは慣れたように説明する。
「ただその一度きりで魔力が尽きちゃって。魔力器官自体はあるんだけど、何でか、もう機能していないみたいなんだよね」
「……」
ソナはますます混乱した。
「じゃあ……どうして」
結局魔力を持つことができないのならば、やはり連れて来られる理由がない。
「色々調べてもらったんだけど、まだ魔力が発現する可能性がゼロじゃないからだって聞いてる。その可能性がある限り、あっちの世界にはいられないってルールらしい。そもそも」
カギモトは努めて淡々と語っているように見える。
「こっちに連れてこられた時点で、被回収者は元の世界から存在を消されるんだ。死んだか行方不明かわからないけど、魔法取締局がそういう処理をしてる。だから……結果魔法が使えない人間でしたって場合でも、帰ることはできないんだよね」
被回収者がこちらの世界に来る過程で、“海向こうの世界”との間でどのような手続きがなされているのかは、一般的には知られていないことだ。
被回収者自体があまりに希少で、半ば都市伝説めいた存在だからだ。
しかし、元の世界との関係を完全に絶たれているとは、思わなかった。
“海向こうの世界”とは隔絶されており、こちらの世界の存在は隠されているのだから、当然といえば当然なのかもしれない。
「ちなみに」
何も言えないソナに気を遣うように、カギモトが話を続ける。
「俺を回収した魔法取締局の人が、マツバさんだよ。あの人も元々は被回収者なんだ」
「え?」
「マツバさんには言葉とか文化とか……護身術とか色々と教えてもらって、こっちでの生活に馴染めるように、サポートしてもらってた」
感謝はしてるんだ、と義務のように付け加えた。
普通に生活していれば関わることなどないはずの、魔法取締局とのつながりがここにあったということだ。
クルベ通りで見せたドードーとの立ち回りも、魔法取締局の訓練を受けているのであれば納得もできた。
納得は、できるが。
「……いつごろ、なんですか。こちらに来たのは」
「4年前」
すぐに答えが返ってきた。
それが長いのか短いのか、ソナにはわからなかった。
俯き、包帯の巻かれた自分の腕を見つめる。
カギモトも黙っていた。
やがてソナの口から出た言葉は、
「……信じられません」
だった。
「うん、俺も信じたくない」
からりとカギモトが言う。
カギモトは椅子の背もたれに背を預け、窓の夕焼けを眺めていて、その顔も仄かに橙に染まっている。ソナも同じ方を見た。
外からは子どもたちがはしゃぐような声が聞こえてくる。入院している子どもたちが遊んでいるのだろうか。
「どんな……ところなんですか。魔法がない世界って」
「えっと、それはこっちの人にはあまり言えないんだけどね」
カギモトは手持ち無沙汰なのか、頬の絆創膏の端を引っ掻いている。
「でも、普通だよ。家族や友達がいて、学校行って就職して。魔法がなくても、こっちと大して変わらないと思う」
そう、素っ気なく答えた。
信じられない、とは口にしたものの。
これまでのカギモトを思い返せば、カギモトの話が真実なのは明らかだった。
“杖無し”でありながら、“杖無し”らしからぬカギモトの立ち振る舞いを奇妙に感じていたのは、他でもなく自分だ。
魔法が存在しない世界で生まれ育ったのなら、それは何もおかしいことではない。
元の世界にはカギモトの家族や友人や、もしかしたら恋人がいて、他人から蔑まれることもなく、普通に生きてきたのだろう。
ある日突然見ず知らずの土地に連れてこられ、差別の対象として扱われるようになったカギモトが、帰る場所もない中で、どんな思いでこの4年間を過ごしてきたのか。
……信じられないのではない。
私もまた、信じたくないのだ。
こちらの世界で生まれた“杖無し”ならば差別されてもいいというわけでは決してないが。
でも、だって。
こんなの。
“あんまりだ”と思いかけて、留まる。
布団の皺をじっと見ながらソナは沈黙していた。
「──どう? 何か腑に落ちた? 俺のこと」
顔を上げると、カギモトは体の前に紫のノートを抱え、微笑んで、でもどこか伺うようにソナを見ていた。
ソナは言葉を探すように視線を彷徨わせるが、結局はそのノートに向かう。
「その、ノート……」
「え?」
「その文字、なんて書いてあるんですか?」
こちら側に表紙が向けられている。
そこに表題らしく書かれた文字は、正面から見ても読めなかった。
「ああ……読めないのは俺の字が汚いからってわけじゃないからね」
冗談めかして言うが、すぐに思い直したように表情を戻す。
「俺のいた国の文字だよ」
カギモトは表紙をソナによく見えるように持つ。
「“西部遺跡管理事務所 業務日誌”って書いてある。それで、下のこれが俺の名前。“鍵本 海里”」
線が、ある種の規則性を持っていくつも積み上げられ、重ねられたような不思議な文字列を、カギモトは大事そうに指でなぞる。
“業務日誌”という事務的な名でありながら、わざわざ元の世界の文字で記されたノート。
それがカギモトにとっての何なのか。
さらに尋ねようとも、今は思えなかった。
絞り出すように、「変わった文字ですね」 とだけ言うと、カギモトはうっすら苦笑いを浮かべた。
「そう? 俺からすればこっちの字の方が変わってるよ。書きにくいったらない。汚い字が余計に汚くなる」
その言葉にソナは小さく笑い、カギモトもつられたように笑った。
笑いはすぐに消え、病室はしんと静まり返った。
「俺が」
カギモトは、ノートを膝の上に伏せて口を開く。
「何者かっていうのは、別に機密事項でも何でもないんだ。でもこの話をすると、大抵みんなそんな顔になるから」
「……」
「だからあんまり、言いたくなくて。……これは君への嫌味じゃないんだけど」
言いにくそうに、カギモトの言葉が一度途切れた。そして、困ったような笑顔をみせる。
「同情を引こうとしてるみたいに聞こえるかなって。俺はそんな風には、思われたくない」
穏やかでいて、切実な言葉だった。
唇が震えそうになるのを、噛み締めて堪える。
「何の話してるかわからなくなってきたね」とカギモトはまた笑う。
カギモト・カイリという人間は、その笑顔で、その冗談めいた言葉で、本音を覆う。
そうやって、この世界の他者と、探るような関わり合いを続けてきたのだろう。
それでもきっとこの人は、誰かを信頼したいと思っている。理解されたいと思っている。
だからこの話を打ち明けてくれた。
そうであってほしいとソナは思う。
──私がカギモトに感じるのは、同情や憐れみではない。
ソナは座ったまま背すじを伸ばし、カギモトを見た。
カギモトも何かを察したように居住まいを正す。
思いを、口にするのは難しいことだ。
それが本心であればあるほど、相手の反応が怖くなる。
それでも、伝えなければならないと、私を急き立てる。
息を吸って、目を見て。
「カギモトさん。私は──」
その時、扉が強くノックされた。
ソナは続く言葉を、呑み込んだ。




