第77話 カギモト・カイリ
まちのひとびとは かみさまに えらばれた わたしたちを ねたむように なりました
じぶんたちを えらばなかった かみさまのことを きらうように なりました
わたしたちは まちのひとびとから ひどいしうちをうけ なかまをへらしていきました
わたしたちは かみさまに すてられた せかいをすてて あらたなせかいを さがすことに しました
そうして ながいながい うみのたびじのはてに わたしたちは みつけたのです
かみさまに えらばれた ひとびとだけが すまう せかい
かのだりあ のだいち を
……………………
規則的な音が聞こえていた。
どこか心地よくてほっとする。
さらさらと、優しく温かい。
もう少し、何も考えずにその音を聞いていたかった。
それが、ペン先が引っかく音。
紙に何かを書き付けている音だと気づいた時には、ソナの意識は現実に浮上しかけていた。
白っぽい無機質な天井。消毒液の匂い。
隣で聞こえる、何かを書く音。
ソナは音の方に目を向ける。
柔らかな黒髪。
顎や頬にいくつも絆創膏をつけた青年が、長い睫毛を伏せて一生懸命にペンを動かしていた。
仕事着とは違う見慣れぬゆったりとした服装。
何だか学生のようにも見える。
ソナはからからになった口を開いた。
「あの……」
青年ははっとしたように顔を上げ、ソナを覗き込むようにする。
その表情が安堵に緩むのを見ると、ソナも胸が詰まりそうになった。
「よかった。フラフニルさん……」
「カギモト、さん……」
途端、ソナの頭の中を記憶が勢いよく巡り出し、思わず再び目を瞑る。
「私……どれくらい……」
「あ、まだ休んだ方がいいよ」
「大丈夫です」
「……」
それでもまだ躊躇いながら、カギモトは口を開いた。
「……クルベ通りのことは、一昨日のことだよ。丸2日くらい経ったかな」
それから表情が曇る。
「フラフニルさんは腕の怪我がちょっと酷くて、少し入院が必要なんだ。傷跡も……残るかもしれないって」
言われて、ソナは自分の腕を見た。指先以外、包帯でぐるぐる巻きにされている。痛みは今はない。
カギモトの方が苦痛に耐えるように眉間に深くしわを寄せていた。
「危険な目に遭わせて本当にごめん。君が言ったとおり、逃げるべきだった。俺の……判断ミスだ」
絞り出すように言う。
ベッドの手摺を握るカギモトの手に力が入っている。
「カギモトさんのせいじゃ、ないです……」
本心からそう言ったが、カギモトは目を伏せていた。
「私、手伝うって決めたんです」
声が酷くかさついて話しにくい。でも、何とか喉に力を込める。
「自分で決めました。だから、カギモトさんは何も……」
恐らくその言葉で重荷がなくなったわけではないだろうが、カギモトは一度大きな溜め息をつき、「そう言ってくれると少し救われる」と控えめに微笑んだ。
そして立ち上がった。
「先生を呼んでくるよ。あと、君のお母さんにも連絡するね。ちょっと待ってて」
そう言って部屋を出て、静かに扉が閉められた。
ソナ一人になった白い部屋。
よく見なくとも、ここが病院の個室なのはわかった。四角い窓枠の向こうは夕焼けの色をしていた。
カギモトから“母”と言われ、思い出す。
母は事務所から追い出されるようにして帰ったあと、どうしたのだろう。
その後のクルベ通りでの出来事が強烈すぎて、母のことはすっかり頭から抜け落ちていた。
以前の母であれば、とソナは思う。
こういう状況なら娘と片時も離れないでいたはずだ。
ソナはベッドから慎重に体を起こす。
怠さはあるが、それだけだった。
窓から差し込む夕日が、さっきまでカギモトが座っていた椅子を橙に染めていた。
その椅子に、ノートが置きっぱなしになっている。
カギモトが先程熱心に書いていたものだろう。
紫色の美しい装丁の、厚みのあるノート。
配属初日の日、カギモトが隠すようにして引き出しにしまい込んでいたものだと思い出した。
「……」
一体何のノートなのか。
表紙にタイトルらしき記載があるが、よく見えない。
不思議な気持ちで見つめていると、ノックが聞こえた。
医師と看護師が入ってきて、一通りの簡単な検査を行い、問題なしとすぐに出ていった。
入れ替わるようにカギモトが戻ってきた。
なんとも微妙な表情をしている。
「どうしたんです?」
「いや……君のお母さんがさ」
カギモトは例のノートをどかして椅子に腰掛けた。
「係長が連絡してくれたんだけどね、お見舞いには、来ないって。無事なら良いからって。……この間のせいかな」
来客室でのやりとりのことだろう。それにも何かの罪悪感を感じているのか、カギモトは眉をひそめている。
見舞いには来ない。
かえってすっきりとした気分になる。
「いいんです」
ソナは言った。
「多分、そういう時期に来てるんです、私と母は」
そんなに簡単な話ではないだろう。家に帰ればまた、色々とあるにちがいない。
でも今は、そう言い切りたかった。
カギモトはソナをじっと見て、
「それならいいけど」
と頷いた。
「で、その代わり、というわけでもないんだけど」
「代わり……ですか。母の?」
ソナが怪訝な顔をする。
「見舞いの。これから総務係のみんなが来るから」
「──え?」
「そろそろ終業時間だからね。あ、ちなみに俺は昨日と今日は有休取ってるんだ」
カギモトはにこやかに言うが、ソナは驚いていた。
「みんなって、みなさんお仕事は」
「まあ、アレス遺跡の件が急に収束しちゃったからね」
カギモトがあっさりと言う。
「そう……なんですか」
「うん。魔素がすっかりなくなって、とりあえず一般開放に支障がないレベルだって確認できたらしいよ。今日あたり、選抜隊も戻ってくるみたい」
「……」
聞きたいことはたくさんあった。
ドードーのこと、新通路のこと、遺物のこと、ヘルベティアのこと、マツバのこと……。
でも、全てを尋ねたところで、今は何も消化できない気がした。
必要があれば、知ることになるだろう。
だから、今はひとつだけ。
「……カギモトさん」
「うん?」
一度小さく息を吸った。
「カギモトさんは──何者なんですか?」
カギモトはほんの僅か、目を見開く。
「カギモトさんは、私のことがわからないって言いましたけど、私も、カギモトさんのことが……全然わかりません」
少し黙ったカギモトだったが、すぐに口端を吊り上げて笑みを浮かべた。
「何? そんなに俺に興味が出てきたってこと?」
からかうような言い方。
この人が軽口を叩くのは、本心を見せたくない時だと思っている。
「はい」
ソナは強く頷いた。
「興味が出てきたんです」
カギモトは一瞬固まった。
それから困ったように眉を下げ、首の後ろを掻いている。
何ともいえない沈黙が降りた。
口を開きかけては迷うように閉じるカギモトは、苦しそうにも見えた。
ただ純粋に、カギモト・カイリという人間を知りたいだけだった。
「あの……すみません。この質問がカギモトさんを困らせるんなら、いいです」
カギモトは居心地悪そうにまだ首の後ろを擦っている。
「そんな言われ方しちゃうと……。まいったな。勿体ぶってるわけじゃなくて」
もう片手の指は、膝に乗せていた紫色のノートの表紙を、落ち着かないように何度もなぞっていた。
無理やりに聞き出したいわけではない。
相手に踏み込んで苦い思いをしたのはつい最近のことなのに、もうそれを忘れかけていた。
カギモトの正体を知ったからといって、それが何になるのだろう。
包帯の下でそっと手を握ると、びり、と痛みが走った。
カギモトが何か特別な立場の人間だったとしても、それで、私がカギモトに取った態度やぶつけた言葉が許されるわけでもない。
「ごめんなさい、本当にいいんです、忘れてください」
ソナは早口に言った。泣きそうになり、顔を見せないようにする。
「……どうしてフラフニルさんがそんな顔するの」
「わかりません」
ふっと、カギモトの静かな笑いが聞こえた。つられるように、カギモトを見る。
秋の陽のような、柔らかな薄茶色の瞳。
「フラフニルさん、俺はね」
それでもまだ逡巡しているのか、一度唇を結ぶ。
ノートの端を握る手に力が入っている。
詰めていた息を吐き、俯きかけた顔を上げ、正面からソナを見た。
「──“海向こうの世界”から来たんだよ」
──遥か昔
激励会でのキィトの明朗な語りが、ソナの脳裏に蘇る。
“海向こうの世界”
それはこの世界から隔絶された、魔法の存在しない世界の呼び名だった。




