第69話 フェルマ・フラフニルの怒り
「──だから、おかしいと言ってるんです」
フェルマ・フラフニル──母の怒声が中から聞こえる。
ドアノブに手をかけたまま、ソナは痺れたように動けなくなった。
「娘の職場がどんなところかついでに見に来てみれば、娘の教育係が非魔力保持者なんて」
「お母様、落ち着いてくださいね」となだめるようなゴシュの声。
「仕事が始まってから娘の様子がおかしかったんですよ。私にも反抗的になって……職場環境のせいなんじゃないですか?」
「あのですね、我々としては適した人材を教育係としてつけただけでして」
とゴシュが言いかけると、
「適した人材? 非魔力保持者が?」
母の声がヒステリックに響く。
「いいですか、あの子の親友は、非魔力保持者のせいで亡くなったんです。──殺されたんですよ」
来客室の中がしんとした。
入らないといけない。
しかし、中に入れば、私は選択を迫られることになるだろう。
ドアノブにかけた手が、感覚がないほどに冷たくなっている。
「殺されたのが娘でもおかしくなかったんです。本当にあの時は……恐ろしかったんですから」
母の感情が高ぶっている。
「そんな娘の教育係がよりにもよって。ありえません。あの子がかわいそうです」
カギモトがどんな思いで聞いているのか。
息苦しくなり、奥歯を噛みしめる。
「娘だって私と同じ考えですからね」
母の声は自信に満ちていた。
食いしばった歯の隙間から、「やめて」とソナの呟きが漏れる。
「非魔力保持者は私達とは根本的に違うんですよ。今すぐに教育係を変えてください」
ソナはさっと顔を上げた。
「──やめてよ!」
衝かれたように叫び、勢いよく扉を開ける。
机を挟んで座っていた3人が、驚いたようにソナを見た。
「……なんで勝手に、そんなこと言うの……」
カギモトの方を向くことができず、固まっている母を見つめる。
「……ソナちゃん」
母は凍りついていた顔をすぐに笑みに変えた。
「大丈夫。お母さんにはわかるのよ、ソナちゃんの考えていることは。ずっと言い出せなかったのよね」
ソナはこの場から消えたくなった。
確かに、母と同じことを思い、信じていた。何かが間違っていると感じながらも、覆せなかった。
──それでも私は、変わりたいと思ったのだ。
拳を握り締め、カギモトの方を向く。
その顔は、グイド・エルンストへの謝罪の時と同じく平然としていた。
でもそれこそが、本音を覆うカギモトの仮面だ。
「お母さんは、全然わかってない」
声が情けなく震える。
「カギモトさんから、色々なことを教わってる。私がミスした時も支えてくれた。カギモトさんのことを……尊敬してる」
一瞬、膝に置かれたカギモトの手が、ぴくりと動いた気がした。
「それは上っ面よ。たった何日かの付き合いでしょう。そんなんで騙されちゃ」
「言わないで」
ソナは鋭く遮る。
「これ以上──侮辱しないで」
母は信じられないというようにソナを、そしてカギモトをきつく睨んだ。
「娘を誑かしたわね」
「違います」
カギモトは切って捨てるように返す。
「こちらとしては、できる説明はしたつもりです。もうこれ以上お話しすることはありませんね」
凛とした物言いに、母の顔が歪んだ。
そんな母にカギモトは、「ですがご心配なく」と柔和に微笑む。
「ご希望どおり、教育係はもうすぐ替わりますから」
その言葉は胸に冷たく突き刺さった。
母は忌々しげに口を開く。
「何なのその顔……。あなた、やっぱり何か企んでるんじゃ」
「ではそろそろ」と大きな声で遮ったのはゴシュだった。
「僕たちも仕事がありますんでね。ソナさんの気持ちも聞けたことだし、失礼しますよ」
「待ってください、だからその“杖無し”を」
「お母様」
ゴシュは不気味なほどにこやかな笑みを浮かべた。いつもと違い、汗ひとつかいていない。
「よそのご家庭のことに首を突っ込むつもりは毛頭ありませんが、さすがに干渉し過ぎでは? ソナさんももう成人されてるんですよ」
「干渉じゃなくて心配してるんです。失礼じゃ」
「僕もですね、これ以上僕の部下を侮辱されるのは黙って聞いていられませんね。まだ続けるようなら、こちらも出るとこ出ますけれど、いいですか?」
ゴシュの畳み掛けるような早口に、母はぐっと言葉に詰まった。
「何なのよ、この職場は……」
憤然と立ち上がり、そして味方を求めるようにソナを見た。
そんな母から、引き剥がすように目を背ける。
窓に小雨が絶え間なく当たっていて、いくつもの小さな水滴が流れ落ちていた。
「帰って、お母さん。私も仕事があるから」
「ソナちゃん、お母さんは……」
裏切られたような、悲痛な声だった。
母は、どんな時でも私の味方でいてくれた。それは、変わらない事実だ。
「お弁当……持ってきてくれてありがとう」
………………
ゴシュがほぼ強制的に、母を事務所の外まで見送りに行った。
来客室では、カギモトはソファに背を預け、疲れたように向かい側の壁を見つめている。
ソナは立ち尽くしていた。
痛いような沈黙だった。
喉が渇ききっている。下がった血液が一気に戻ってきたように、心臓が激しく脈打つ。
今、言わなければ。
「──カギモトさん」
「……うん?」
カギモトはゆっくりと顔を上げた。
「母が……ごめんなさい」
「ああ……」
何とも形容しがたい笑みを作り、カギモトは目を泳がせる。
「少し、強烈だったね。ちょっと意外だったよ。でも、ある意味……似てるのかな」
それはカギモトなりの冗談だったのかもしれない。
「あと……ありがとね。俺のこと、フォローしてくれて」
「……」
違う、私がカギモトに感謝されることなど、何もない。
「あの私も」
手が震えないように、ローブの袖口を固く握る。
「私も、本当に──ごめんなさい」
カギモトは静かな目でソナを見ていた。
「母のこと、言えません。カギモトさんは、ずっと優しかったのに、私、いつも酷い態度を取って、酷いことも言って……」
か細くなりそうな声を、必死に心で支える。
「本当はもっと謝らないといけないことも、感謝しないといけないことも、あって……本当は、もっと……だから……」
何を言っているのかわからなくなってくる。
誰かに、本当に伝えたいことを伝えるというのは、恐ろしく勇気のいることだった。
カギモトを真っ直ぐに見る。
怯みそうになる気持ちを、押さえつける。
「──教育係、やめるって言わないでください」
今さらだ。
カギモトにしてきた仕打ちを思い返せば虫が良すぎるだろう。
それでも。
「自分勝手だって、わかってます。私がそんなこと言う資格なんてないって……」
でも、と込み上げてくる涙がこぼれないように堪える。
「本当は、カギモトさんから学びたいことが、たくさんあるんです」
ぴんと空気が張り詰めていた。
その静けさに鼓膜が痛くなりそうほどだった。
耐えきれず、窓の外に目をやる。
いつの間にか雨は止んで、少し明るくなっていた。
カギモトはソファにもたれたまま、固く唇を引き結んでいる。
やがて力を抜くように深く息を吐くと、視線を落とした。
「少し……考える時間をくれるかな」
呟くようにそう言った。




