第65話 アシュリー・ミュレット 中編
引き続き、重い話になります。
一部残酷描写有。苦手な方はご注意ください。
「やだわ、心配ねえ。ソナちゃん、アシュリーちゃんが行きそうな所とか、何か知ってる?」
枕元で看病をする母に尋ねられ、ソナは口を噤んだ。
その頃には警察にも通報がされ、近所の人々も協力してアシュリーの捜索が始まっていた。
アシュリーとの秘密を──“杖無し”と会っていたことを母に明かすのは、当時のソナにとってはとんでもなく恐ろしいことだった。
「知らない」
そう答えてソナは布団に潜った。
アシュリーは好奇心旺盛だから、どこか別のところに探検に行ったのかもしれない。猫なんかを追いかけて、どこかで道に迷ってるだけかもしれない。
都合のいい考えが浮かんでは消え、浮かんでは消えて──けれども、結局はあの青年に行き着いてしまう。
熱があるのに冷えた手を、布団の中でぎゅっと握った。
──アシュリーに何かあったら。
この時初めて怖くなり、ソナは泣きながら母に打ち明けた。
母は見たことがないほど険しい顔をして何か言いかけたが、それよりも先にアシュリーの両親に知らせた。
そして、アシュリーの父の逞しい背中に背負われ箒に乗せられたソナは、熱に浮かされながら、アシュリーの行ったであろう場所を指し示す。
街外れの廃工場へ。
ろくな街灯もなく、ただ暗い。
昼間の蒸し暑さがまだ残っていた。夏草の匂いとやかましい虫の声に、遠く、猫の鳴き声も混ざっていた。
“杖無し”がいるとソナから聞いていた捜索隊や警察は、手持魔灯に僅かな明かりを灯し、静かにアシュリーを捜し始めた。
ソナはまだ微かな望みを持っていた。
だから小屋の場所までは大人達には教えていなかった。
捜索に夢中になる大人の目をすり抜け、息を潜めて小屋に向かう。
あの小屋にはただ子供のような青年がいるだけで、他に何もないことを先に確認して、安心したかっただけだった。
外の暑さと自身の熱でくらくらしたが、迷うことはなかった。何度も来ていた場所だけに、輪郭の滲んだ満月の月明かりだけでも、ソナには十分だった。
月を背景に佇む小屋は、何か不吉な象徴にも見えた。
中から聞こえる猫たちの声は、普段よりも騒がしい気がした。
呼吸が細く震える。
いつもはアシュリーが勢いよく開ける扉を、今はソナがゆっくりと、音を立てないように押し開けた。
生臭く、密度の濃い、異様な匂い。
猫の鳴き声がいっそう大きくなる。
柔らかいものが足元を素早くすり抜けるのを感じ、ソナは「ひっ」と小さな悲鳴を上げた。
今のは、猫だろうとソナは唇を噛み締めて自分を押さえ込む。
一度静かに息を吐き、扉の中に慎重に体を差し入れる。
暗く、中はよく見えない。
ソナは学校で覚えたばかりの魔法を使い、光の粒を手に集めた。
魔灯よりもかなり弱々しい、小さな蝋燭にも満たないその明かりを掲げた。
だらりと伸びた白い──脚。
見慣れた赤い靴だ。
どきんと、心臓が跳ねる。
「あ……」
嘘だ。
ソナは後退りしそうになり……踏みとどまる。
違う、あれがアシュリーのはずがない。
自分に証明しようと、奥歯を噛み締め、一歩近づく。
明かりの照らす範囲が移る。
ボロ布の上に倒れた子供くらいの大きさの人形のような何かと、覗き込むようにする数匹の猫。そして周りを囲むように赤黒い染みが床に広がっている。
人形のようなものの手首に、見慣れた組紐があった。
「……っ!」
ソナは叫ぼうとする口を咄嗟に手で抑え込んだ。
その瞬間背後に気配を感じ、全身が総毛立つ。
「あっ、ソナ」
どこか間の抜けたような青年の声だった。
ひとつしかない小屋の扉口に、青年が立っていた。
ソナの弱い灯りに照らし出されるその顔も、手も服も、ひどく汚れているように見える。
「……」
凍りついたように何もできなかった。
青年は素早くソナに回り込み、倒れた人形のようなものの前に立った。やってしまった失敗を親から隠す子供のような仕草だった。
「ごめん」
青年はくしゃりと顔を歪める。
「アシュリーが、動かなくなっちゃったんだ」
「……な」
ソナは口をぱくぱくとさせるだけだった。
「ぼくのせいだ」
青年は手で顔を覆った。その片手に、小さな、汚れたナイフが握られている。
「でも……かみさまが言ったんだよ」
くぐもった声で青年が言う。
と思いきや、急にぱっと顔を見せ、生き生きと話し始めた。
「アシュリーにも言ったんだけどね、ぼく、この前かみさまに会ったんだ。やっぱり、アシュリーが一緒にお祈りしてくれたおかげだと思う」
何を言っている?
理解しようとしているのに、頭が動かない。
「その時かみさまがないしょで教えてくれたんだ。ぼくがね、魔法を使えるようになる方法」
「ほう、ほう……?」
ようやく出た声はひどく掠れていた。
「うん」
青年は力強く頷く。
ポケットから、淵の欠けたコップを取り出した。そして少し申し訳なさそうに微笑んだ。
「君たちみたいな子どもの血をね、飲めばいいんだって。ちょっとだよ。それだけでいいんだ」
「……」
そんな馬鹿な話があるわけない。
「でも」と青年は手に持ったコップを困り顔で見つめる。
「どれだけ飲めばいいのか忘れちゃったんだ。コップ1本分、いや、2枚……、2匹分、って言うんだっけ?」
「……」
「とにかくまだ血が足りないってことだよね。だってまだ、ぼくは魔法が使えないんだもの」
渇望するような目が、ソナをじっと見つめる。
「腕がいいかな。少し痛いかもしれないけどじっとしてね。アシュリーは、暴れるから首に当たっちゃって……。でもわざとじゃないんだ」
青年は痛々しそうに背後を見た。コップと反対の手に持っていたナイフが、ゆらりと揺れる。
喉が締められたように声が出ない。
猫達はいつの間にかいなくなっていた。
どこかでソナを呼ぶ大人達の声が聞こえて、頭ががんがんとする。
「誰か来たのかな。あ、でもぼくは悪くないよね。だってぼくはこれまで本当に、死ぬほど大変だったんだ。しかたがないよ」
一歩、僅かに退く。
悪い夢だ、これは。
「でもこれで」と期待を込めたような顔で、青年は一歩近づいてくる。
「魔法が使えるようになれば、ぼくは“杖無し”じゃなくなる。ぼくは、君たちみたいになれるんだ。──ふつうの人間に」
善悪を知らない幼子のような言い訳でしかなかった。
ソナは自分の手首に巻かれた組紐を見る。
「お揃いのものを身に付けてたら、きっとソナはいじめられない」と、揃いの組紐を作ることを提案したのはアシュリーだった。
現実はそんなに単純ではなかったし、アシュリーが間違っていることも多々あった。
けれども、アシュリーの真っ直ぐな心は、いつもソナの先を照らす光だった。
──勝手なことを。
恐怖よりも憐れみよりも、怒りが勝ったのは、この瞬間だった。
無害そうな顔をして、自分の利益のために、平気で他人を傷つける。
──“杖無し”とはなんて危険な存在なのか。
ソナの中で、何かが勢いよく外れた。
熱い。
そう思った時には、ソナの手から暴発する魔力が真っ赤な炎となって放たれ、青年を小屋の壁ごと吹き飛ばしていた。




