第63話 落ちない汚れ
始末書は問題なく完成し、ゴシュがサインをした。
その頃には既に終業時間となっていた。
「うん、じゃあこれで所長に見せて報告しておくから。ご苦労さま。明日はやっと週末だね」
書類が不安定に積み上がった汚い机でゴシュは言う。
「休みの日は切り替えて、仕事のことを考えないように。ゆっくり休んでね」
「はい……あの、今日は本当に」
「もう終わったことはいいのいいの。引きずらないでよ」
「はい、失礼します」
ソナは浅く頭を下げ、自分の席に戻る。
静かに片付けをして、上着を着た。
「……お先に失礼します」
ソナが声を掛けると、「お疲れさまです」とナナキが反応し、ティーバも「うん」と頷く。
カギモトはちらりとソナを見て、いつもの笑顔で「お疲れさま」と言った。
トンネルのように暗い廊下を抜けて、職員通用口から外に出た。
先の見えない空を仰ぐ。
マフラーで鼻まで覆い、箒に乗った。
……………
家の扉を開けても、玄関に明かりはついていなかった。
妙な胸騒ぎがして急いで部屋に入ったが、母は静かにベッドで眠っていた。
ほっとすると同時に、テーブルの上もキッチンもきれいに片付いていて、食事の用意がされていないことに気がつく。
母も疲れているのかもしれない。
そういう日だってあるだろう。やってもらって当然だと思ってはいけないということだ。
昼に食べ損ねた弁当を捨てるわけにもいかず、食べることにした。
食事の片付けまで終え、ソナは椅子に座ったままぼんやりと、色褪せたカーテンを眺めていた。
疲れてはいるが、寝付けない気がしていた。
玄関に立て掛けてあった箒を手に取ると、上着を着てベランダに出る。
小さな魔灯に魔力を流し、簡易的な物干しが置かただけの狭いベランダを照らす。
外は、深い森の中にでもいるかのように静かだ。
雑巾で箒を丁寧に磨き、ひびや傷がないか魔灯を近づけて細かく点検する。
ふと、箒の目立たないところにこびりついた黒い汚れを見つけた。家にある洗剤をつけて擦ってもまったく取れない。
もしかしたら、ずいぶん前からのものなのかもしれない。
それなら、そう簡単に落ちることはないだろう。
規則正しく雑巾が箒を擦る音。ソナの吐く薄白い息が空気に消えていく。
単純作業をしていると、余計なことを考えずに済むはずなのに、思考がひとつのことに向いてしまう。
冷たい目をしたカギモトの姿が何度も浮かんで、その度に歯を食いしばりたくなる。
カギモトとは距離を取ることを望んでいたはずだ。なぜなら彼が“杖無し”だからだ。
彼が“杖無し”である事実は変わりようがないのに、どうして今こんなにも自分は、空虚なのか。
汚れは、やはりどう頑張っても落ちない。手が痛くなってやめた。
ヤスリで削り取る方法が頭を過ぎる。が、取り返しのつかない傷になってしまう気がした。
「……何の汚れなんだろう」
ふと考える。
錆、泥、何かの塗料。
原因がわかれば、元に戻せる可能性があるのでは。
それはただの願望に過ぎないかもしれない。
でも、やってみる価値はあると思いたかった。
今度、箒店で聞いてみよう。
箒の手入れを途中で切り上げ、部屋に戻って熱いシャワーを浴びた。
原因。
その言葉が、何度もソナの頭を巡っていた。
…………………
翌日。
母は見るからに不機嫌だった。
「ソナちゃん、今日はどうするの?」
質素な朝食を取りながら母が尋ねる。
普段なら、一緒に買い物に行ったり散歩をしたり、母の話し相手となったりしていた。この雰囲気の母なら、今日もそうするべきなのはわかっていた。最近の残業で、ろくに口をきいていなかったからだろう。
ソナはちぎったパンを手で持ったまま、少し伺うように母を見る。
「私……ひとりで行きたいところがある」
母は目を見開く。
「ひとりで? お休みくらいお母さんといてくれないの?」
「夕方には戻るよ」
ソナは慌てて付け加えた。
「私も平日は仕事だし、休みの日くらい、自由にしたい」
「まあ」
母は驚いたように声を上げる。
「遺跡管理事務所の事務員さんってそんなに疲れるの?本部とかの人に比べたら随分と楽なんでしょ」
ソナは少しむっとした。
母は嫌味ではなく、本気でそう言っているように見える。
だからこそ、質が悪い。
そう思ってしまった。
「前にも言ったよ。色々あるよ、うちの職場だって」
パンを口に放り込んで言う。
「ふぅん」と母は釈然としない様子で鼻を鳴らし、マグカップに口をつけた。
「それで、どこに行くつもり?」
ソナは視線を逸らして黙り、やがてパンを飲み込んでから小さく口を開いた。
嘘をつけばよかったのかもしれないが、なぜかそうしなかった。
ソナは隣町の名を告げた。
途端、母の顔があからさまに引き攣る。
「だめ」
母がマグカップを置いて立ち上がる。
「やめなさい。どうして今になって」
他人から見ればそれほどでもないのかもしれない。しかし鬼気迫った様子の母に、ソナは一気に身が縮まる気がする。
「それでも……」
声が弱々しく震えた。
でも今、引き下がりたくない。
その思いで、腹にぐっと力を入れる。
「それでも、決めたの」
母が信じられないというような顔をする。
母と平行線になるのはわかりきっていた。
今出るしかない。
そう腹を括れば、一度夜にも飛び出したソナには、前ほど難しいことではないと思えた。
しかし何かを察した母が素早く玄関に先回りして、ソナの箒を抱えるように持った。
「許さないわよ、あんな、嫌な思い出だけのところ。ソナちゃんが……苦しくなるだけだわ」
ソナは手首に掛けていた髪紐で髪をきっちりと結び、箒を手にした母を見た。
「箒、返して」
「だめよ」
母は必死な顔で玄関に立ち塞がっている。
「どうしたの? お仕事が始まってから、何かおかしいわよ、ソナちゃん……」
「……」
変わるはずがないと思っていた私は何か、変わったのだろうか。
あれだけ怖いと思っていた母が、いつもより小さく、弱々しく見えた。
「私のやりたいことに、お母さんの許可はいらないから」
ソナははっきりと告げ、玄関の壁に掛けてあった上着を手に取った。
「いいよ、箒がなくたって」
ソナはさっと向きを変え、ベランダから外に出た。昨晩置きっぱなしにしていた靴を持ち、あまり高くない柵に手をかける。
「ソナちゃん!?」
6階である。
それでも飛行に慣れ、運搬魔法の得意なソナがベランダから飛び降りるのに、ほとんど抵抗はなかった。
一瞬の浮遊感とともに、ぞっとするほどの早さで体が落下する。
悲鳴じみた母の叫び声を聞きながら、即座に運搬魔法を自分の体にかける。探索士や調査係なら難なく使う技術だろう。
落下速度が急速に緩まり、ふわりと、固い地面に足がつく。近くを散歩していたらしい老婆がぎょっとしたような顔をしていた。
「ソナちゃん!」
上から母が叫んでいた。
ソナは急いで靴を履き、上着を着ながら走り出した。
手入れの行き届いていない団地の細道を通り、近くの魔導トラムの駅に向かう。
幸い上着のポケットには小銭が入っている。
2度目の家出だ。
そう思うと、ほんの少しの罪悪感とともに、可笑しさが込み上げてくるような気もした。
いたずらをしてそれぞれの親にこっぴどく叱られたあと、アシュリーとこっそり笑い合った子供の頃のような。
行く先は、ソナが幼い頃に住んでいた隣町だった。トラムでも、1時間もあれば行けるだろう。
味気ない住宅棟の間から覗く空は、冬らしい澄んだ晴天だった。朝日が眩しい。
その光の中に、あの頃の、刺すような夏の日差しを見た気がした。




