第59話 ソナ・フラフニルの追及
煉瓦の建物に挟まれた小道をずんずんと進むカギモトが、どこに向かっているのかさっぱりわからない。
言葉にできない不安を感じ、ソナは立ち止まった。
「……カギモトさん!」
少し大きな声で呼ぶと、カギモトはぴたりと足を止めた。
気がつけば、前にマツバ・トオルと相対した時のような狭い路地にいた。人通りはなく、上では洗濯物がはためき、地面に落ちたゴミらしきものをカラスがつついている。
カギモトはソナに背を向けたまま黙っている。風に、柔らかな黒髪が揺れていた。
「あの、カギモトさん……?」
やがてカギモトは肩の力を抜き、くるりと振り返った。
それは普段と変わらぬ表情で──
「いやぁ、しびれたね」
軽い口調でそう言った。
「……」
「ここ最近で一番怒られたかも。さすがにちょっと、効いたよ」
カギモトはうんと伸びをして、ソナに笑顔を見せる。
「頭冷やしたくてうろうろしちゃった。黙って付き合わせてごめん」
「あの……」
「あ、さっきはフォローしてくれてありがと。嬉しかったよ。あー、でも任せてって言っといてあれじゃ、格好つかなかったよな」
「カギモトさん……」
「まあとにかく、書類を送る時は2人でチェックするのを徹底しよう。これから気をつけないとだね」
ぺらぺらと語るカギモトは、ソナに口を挟ませまいとしているようだった。
カギモトが息をつくのを待って、ソナは呟くように言う。
「どうして」
今回の件は自分のミスが原因だ。
カギモトがあそこまで罵倒されたのは、自分の代わりに矢面に立った、そのとばっちりだ。
“杖無し”であるがゆえに、そして自分が余計な事を言ったばかりに、さらに酷い言葉をぶつけられた。
「どうしていつも……そんな言い方、できるんですか」
カギモトは困ったような顔で笑った。
「……どういう意味?」
「そんな、茶化すみたいな」
震える気持ちを押さえつけるが、視線は足元に落ちた。
「今日だって悪いのは私なのに、何を言われても、そんな風に、いつも……」
鼓動が痛くて苦しい。
それでも、少し前に言えなかった言葉を、口にする。
「大丈夫、なんですか……?」
沈黙が訪れる。
「大丈夫かって……別に大丈夫だよ」
カギモトはマフラーに口元を埋める。
「今回のことはこっちに非があるんだから怒られて当然だよ。それに個人攻撃されても仕事だって割り切れるし、別に、大して気にしてない」
「……本当ですか?」
一瞬黙ったが、カギモトはすぐににこりと微笑んだ。
「本当だって。もうよくない? この話」
それから腕時計を見る。
「あ、次のとこにも行かないとだから、悪いけどティーバを呼んでくれるかな」
「……」
そこで終わりにすれば良かった。
どうせあと少しで教育係も代わる。ただの仕事上の関係だ。
踏み込む必要など、なかったのだ。
「でも……」
しかし、何を言われても不自然なまでに揺るがないカギモトの顔が、白くなるほど握り締められた拳が、ちらつく。
今聞かなければと気が急いて、聞いてどうするかは、考えていなかった。
ソナは一歩カギモトに近づく。
「でもやっぱり」
「──しつこいな」
鋭い声色。
一瞬、カギモトが言ったのだとは思わなかった。
見ればカギモトの顔からは表情が消えていた。
どくんと、心臓が跳ねる。
「……何、俺のこと、心配してくれてるの?」
その声は低く、冗談めいた響きは一切ない。
周囲の空気が急速に凍りついていくような気がする。
「どうして君が、俺を心配するんだ? 君が言ったんだろ」
相手を嘲るようなカギモトの目を、ソナは初めて見た。
その言葉の先を聞きたくなくて後ずさる。
煉瓦の薄い破片を踏む音が、小さく響いた。
「俺が弱音を吐いたってどうせ──“被害者ぶるな”って、そう思うんだろ?」
「……っ」
胸を突かれたような気がした。
一際強く風が吹き、路地の隅にいたカラスがばたばたと飛び去っていった。
カギモトははっとして、ソナから目を逸らす。
「あ……ごめん……」
口元が僅かに震えている。
それを隠すように、カギモトは顔を背けた。
「ちょっと……疲れたんだ、俺……」
カギモトは掠れた声でもう一度、「ごめん」と言った。




