第36話 ナナキ・ナディアの心配
「それにしても」
とシンゼルは豪快にコーヒーを飲み干した。
「ソナちゃんって大人しいのねぇ」
その言葉に、ソナはどきりとした。
あまり他人と関わってこなかったからか、雑談に入っていくのは正直苦手だ。このランチ会でも、ほとんど頷くくらいしかしていない。
ひとりでいるのが好きな人間。
また、そういう風に思われてしまう。
「……すみません」
「あらぁ、謝らなくていいのよ。あたしたちがうるさくて口が挟めないのかなって思ったのよ」
シンゼルは笑う。
「旅行で家族とばっかりいたから、家族以外の人と話したくなっちゃうのよね。楽しくてひとりでお喋りしすぎちゃったわ」
「確かに、8割方シンゼルさんの話でしたね」とナナキも楽しそうに言う。
「それはごめんなさいね。みんなが聞き上手なのよ。ソナちゃんの話は、また今度の機会に聞かせてちょうだいね。それこそ歓迎会とか」
「……」
数日前なら適当に返事をしていただろうが、今は、小さく頷いた。
「あ! そろそろ時間ですね。出ましょうか」
腕時計を見たナナキが言って、ランチ会は終了した。
3人で店を出る。
今日は冬にしては珍しく晴れ間が出ていて、日光のほのかな暖かさを背中に感じる。
午後の仕事の始まりまでには多少余裕があったが、前を歩いていたシンゼルが神妙な顔でくるりと振り返った。
「あの、申し訳ないんだけどあたしお手洗いに行きたくなっちゃって、走って戻るわね。あなた達はゆっくりでいいから!」
言うやいなや、シンゼルは事務所の方面に向かって猛然と駆け出した。
「転ばないといいけど」とナナキが心配そうにその背中を見送る。
畑と民家に囲まれた道を、ナナキと2人で歩く。
足音だけが聞こえる中、しばらく黙っていたナナキが口を開いた。
「あの……ソナさん」
ソナは隣を見る。
「仕事の話はなしってシンゼルさんは言ってましたけど、やっぱり私……ひとつだけ、ソナさんと話しておきたいことがあって」
「……何でしょうか」
ナナキは一度間を開けてから、
「カギモトさんのことです」
と言った。
何となく予想はしていたが、ソナは少し身構える。
ナナキは歩く速度を緩めた。
「カギモトさんが教育係で……何か困ってることがありませんか?」
「……」
答えにくいですよね、とナナキは慌てる。
「……でも、私から見て、カギモトさんとソナさん、距離があるなって感じてます。カギモトさんが、その……特殊な立場の人、だからかなって思ってます」
違いますか?と問うような視線を向けられるが、ソナは口を閉ざしたまま。
総務係の誰も、カギモトが“杖無し”であることを意識すらしていないのではないかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
「カギモトさんは、教育係として本当に申し分ない方だと思っています。でもやっぱり、相性はあると思うので、今のままだとお互い無理しちゃうんじゃないかなって、少し心配してます。仕事もやりにくそうだなって……」
ナナキは慎重に言葉を選んでいるように見えた。
「私、最初の日に、ソナさんにとって素敵な職場になるといいって言いました」
確かに配属初日、ナナキは笑顔でそういった。
「だからもしもソナさんが、今の環境を変えたいとか……部署異動はちょっと無理ですけど、そういう希望があれば、何とかできたらと思ってるんです」
「……」
シンゼルが「総務係の良心」というだけあって、ナナキは本当に周りをよく見ていて、気遣っているようだ。
ここでナナキに言えば、円満に教育係を代えてもらうことができるのかもしれない。
しかしそれなら、今でなくても、とも思う。
「……あの人は、何者なんですか」
代わりに出たのはそんな問いだった。
誰にぶつけていいのか、そもそも尋ねることそれ自体がいいのかどうかもわからず、抱えていた疑問が、口をついた。
「カギモトさんは……」
ナナキは困ったように視線を泳がせた後、足元を見て歩きながら言う。
「普通の方です。普通に、良い方です」
「……」
「私から言えるのは……それだけです。すみません」
何となく、奥歯に物が挟まったような言い方に聞こえた。
心のどこかで信頼したいと思っていたナナキのそんな態度に、ソナは少し寂しさのようなものを感じる。
冷たい風がソナとナナキの髪を揺らす。
春めいた日でも、吹いてくる風はまだ冬のものだった。
“教育係として申し分ない”とナナキがカギモトを評するのなら、それに合わない自分の方に問題があるとみなされてしまうだろう。
カギモト・カイリは単なる教育係に過ぎないと割り切ったのだ。仕事であれば、やっていける。
だから、
「今はこのままで、大丈夫です」
ソナはそう答えた。
「ご心配おかけしてすみません」
ナナキは微妙な顔をしていた。
そんな彼女に、「何かあれば言いますから」とソナは付け足した。
「……ソナさんがそう言うなら」
やがてナナキは目を伏せて頷いた。
………………
執務室に戻ると、赤髪の職員がソナの席を占領していて、隣のカギモトと何やら話をしているようである。
管理係の同期、エンデだった。
少し離れた後ろに立つソナにちらりと視線を向けたエンデだが、立ち退く素振りも見せない。カギモトはそもそもソナの戻りに気がついていない。
「──ていうわけなんですよ。ありえないですよね」
ソナを無視してエンデはカギモトに楽しそうに言った。
「いや、それ本当なのか? 本当ならなんでそんなに明るく言える……?」
カギモトは何とも言い難い顔でエンデを見ている。
エンデは口を尖らせた。
「本当ですよー。僕がカギモトさんに嘘つくわけないじゃないですか」
「いや……それが本当ならなんで俺に言う? そういうことはゴシュ係長に」
「えー、だって僕、カギモトさんのお役に立ちたいので」
当然のように言ってのけるエンデに、カギモトの顔が僅かに引き攣ったように見えた。
この二人の関係は、ソナにはよくわからない。
そこでチャイムが鳴る。
「あの、どいてください」
ソナがはっきりと告げた。
「えー、僕この席がいいなー」
机から離れず駄々っ子のような態度のエンデにソナは閉口する。
「こら、フラフニルさん困ってるから。休み時間終わったんだから早く自分の係に戻れ」
「はぁーい」
カギモトに言われて渋々といった様子でエンデが立ち上がった。
「エンデ、さっきの話、うちで共有していいんだな」
「もちろんですよ」
ぜひぜひと頷いてから、エンデは踵を返す。
「それにしても、カギモトさんとソナってさあ……」
ゆっくりと歩くエンデはソナの横で立ち止まる。
「なーんかずっと他人行儀っていうか」
と呟くと、ソナに向けてにこりと可愛らしく微笑んでみせた。
「──相性最悪!って感じだよね」
ぴしりと、空気が凍りつく音がした気がした。
近くにいたナナキがぽかんと口を開けている。
もしかしたら、自分も同じ顔をしていたのかもしれない。
固まるソナとカギモトをよそに、エンデは軽やかな足取りで執務室を出ていった。




