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西部遺跡管理事務所 業務日誌  作者: 青桐 臨
第一章 新入職員 ソナ・フラフニル編
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第29話 レメドーサ通りにて 前編

 風を切る音。


 ──耳がちぎれそうに、痛い。 


 そのことにようやく気がついた。

 ソナの全身は指先まで冷え切っていた。上着を着ていない上に法定速度のぎりぎりの速さで、夜の空を突っ切っていたからだ。


 ソナは箒のスピードを落とした。

 少し気分は落ち着いてきたが、魔力が逆流してくるような体の不快さはまだ解消されていない。


 身震いする。

 まだ飛んでいたいが、寒さの限界だ。


 ソナは奥歯を鳴らしながら辺りを見下ろした。


 西部地区の夜はしんとしていて暗い。農地ばかりで人の営みの明かりが少ないからだ。

 唯一明るいと言えるのは遺跡を守る結界である。幻想的な仄明るい光を放つドーム型の結界が、大小いくつか空からも見えた。

  あの結界を管理しているのが管理係なのだと、頭のどこかで思った。

 結界には及ばないが、小さな明かりが集まっている場所が目に入る。箒のナビゲーターで確認すると、西部地区の数少ない繁華街のひとつだとわかった。


 ソナは中空に浮かんだまま、唇を噛んでその街を見下ろす。


 母は、きっと心配している。


 そんなことは明白だ。娘がいなくなったと大騒ぎして近隣に迷惑をかけているかもしれない。

 今、冷静になってそんなことを考えると背すじがざわつくが、もうここまで来てしまったのだ。

 

 家に戻るというゴールは変わらない。しかし、まだ魔力は体の内側で渦巻いている。

 

「寒い……」


 どこかで、温かいものでも飲みたい。


 

 ソナは光の集まる区画へと、静かに降りていった。


 箒以外に何も持たずに家を出てきたが、故障などの緊急時に備えた小銭くらいは常に箒に常備している。これで飲み物くらい買えるだろう。


………………


 レメドーサ通りと名のついた、飲食店が連なる賑やかな通り。


 店の外まで陽気な音楽が漏れ、酒の入った人々は楽しそうに道を行き交う。空よりも数度、気温が高く思えて少し人心地がつく。

 通りに並ぶ様々な屋台はどれも良い匂いを漂わせていた。怪しげな占い師風の人物が道行く人に声をかけ、露出の多い服装の女性達が狭い路地に立っている。


 繁華街というものに近寄ることは母にきつく禁止されていたから、今日まで足を踏み入れたことはなかった。


 折り畳んだ箒を小脇に抱えたソナは、緊張した面持ちで、一体どの店に入ればよいのかと首を巡らせる。


 通りにある様々な店を眺めてうろうろしていたが、結局決められずに初めの場所に戻ってきてしまった。


 何かを選ぼうとするその背後には母の影がちらついた。

 

 ただ温かいものを飲みたいだけなのに、それすらも決められない。 自分に呆れる。


 どっと疲れが降りてくる。

 ソナは高台への階段が続く路地を見つけ、何となく一番上まで登って石段に腰掛けた。

 歩き回ったせいか、体の寒さはましになっていた。


 レメドーサ通りに満ちた陽気な雰囲気、そして珍しく晴れた冬の夜空をぼんやりと眺める。

 

 星が瞬いていた。

 

 あの空に輝く星々は月の欠片で、空から落ちてきて金貨や銀貨になる。

 

 そんな絵本を幼い頃に読んで、金貨銀貨を拾う少女がすごく羨ましく思っていた記憶がある。 今思えば浅ましい子供だとソナは思う。


 そんな風にずっと上ばかり見ていたからかもしれない。


 階段の下の方から足音が近づいてくるのに気づくのが、遅れた。


 ソナは、はっとして下を見た。


 男。


 ぼろの服を何枚も着込んでいる。 

 櫛を通したこともないようなぼさぼさの頭、ぎょろりとした目は数段上に立つソナを見ていた。

 咄嗟に相手の魔力を探るが、無い。一切感じられない。


 “杖無し”。


 胃に冷たいものを押し込まれたような気がした。


 その男は、間違いなく“杖無し”だった。


 まともな生活をしているようには到底見えない。この辺りに野宿し、物乞いでもしているのかもしれない。

 怪しげな路地の多いこの繁華街では、生活に困窮した者が居着くのは珍しくないのだろう。その中に“杖無し”がいても、おかしくはない。


 男は一段一段、白い息を吐きながらソナを見据えて石段をのぼる。

 

 ソナはさっと立ち上がり、微かに後退りする。じゃり、と細かな石粒を踏んだ音がやけに響いた。


 金銭なのか、何が目的かはわからない。

 でも、離れなければ。


 “杖無し”は自分の利益のために、他人を害することを厭わないのだから。


 そう思った瞬間、くらりと、目眩のような気分の悪さに襲われ一瞬目を瞑る。


 夏草の濃い青。

 日差しに焼かれる首筋。

 だらりと力無く伸びた細腕と足元まで広がるどす黒い染み。

 不幸そうな男の、図々しい笑顔──

 

 “杖無し”。

 

 その存在に対して湧き上がるのは、恐怖ではなく怒りだった。



 ソナは歯を食いしばり、のっそりと階段を上がってくる男を刺すように睨んだ。


 体の奥底から供給される熱い魔力。

 

 逃げる必要などない。

 魔法も使えないあんな男を焼き尽くすのは、造作もない。

 あの時のように。


 ソナは手のひらを、男に向けた。

 男を「対象」として認識する。

 

 光。


 不意に、目の前に金の光がこぼれたような気がして、ソナはぴたりと止まる。


 月の──金貨?


 なぜだかそう思い、光の注ぐ方、背後を向く。

 魔法でもないのに、一層、明るく見えた。

 

 「──こんなところで、暴力沙汰を起こすつもりですか」

 

 夜を切り拓くような、凛とした声。

 

 紫の静かな瞳がソナを見下ろしていた。  

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