第28話 逃げるわけじゃない
過干渉な母親とのやりとり。苦手な方はご遠慮ください。
ソナは一度息を吸い、細く、音を立てない様に吐いた。氷のように冷え切ったドアノブを掴んで静かに捻る。
薄く開いた扉の隙間から外に漏れ出る細い光。
当然ながら母は家の中にいて、ソナの帰宅を待っていた。
「ただいま」
ソナはいつもの声の大きさを心がけて言った。
「おかえりなさい、ソナちゃん」
娘の帰宅を喜ぶいつもと同じ笑みを浮かべていた。
食卓には母の手料理が並んでいる。
ソナは祈りを捧げて食事を始めた。
母は少しひびが入ったお気に入りのマグカップを手にソナの向かいに座り、コーヒーを飲む。
今日の出来事を事細かに語る母の出方を伺っていた。
口に入れた物が粘土のようだった。
いつまで経っても、母は自分の話を止めない。伝心蝶の話を出さない。
じりじりとした焦りのような何かが、ソナの喉元まで這い上がってくる。
「──お母さん」
ソナはスプーンを置いた。
母がぴたりと止まる。
一瞬、躊躇った。
続く言葉を口にした時の母の反応が、怖かった。
この歳になってそんな感情を持つこと自体、身を縮めたくなるほど恥ずかしい。
でもそれは、ソナの本能に近いものだった。
「送った伝心蝶のことだけど……」
抑えても、声が震えた。
それでもほんの少しの期待を込めて。
もしかしたら、伝心蝶を送ったことに深い意味がないという可能性があるかもしれなくて。
「私、明日は」
「ソナちゃん」
母が一回り大きな声をかぶせた。
「あなたの職場には困ったものね」
「え……?」
「強引にお昼ご飯に誘われて、断れなかったんでしょう? 新人だから、断りにくいわよね、かわいそうに」
母は眉根を寄せている。
「え、いや……」
「別に、従わなくていいのよ。もしソナちゃんが言いにくかったらお母さんが職場に言ってあげるから」
違う、と慌てて言った。
何が違うのか、という目で母はソナを見る。
「私……」
喉を締められたように声が出なくなる。
それでも、絞り出す。
「私、行きたいの」
テーブルの下で、手を握り締める。
「同僚の人と一緒に、お昼を食べたいんだよ」
母の顔からすっと表情が消えた。
温かかったスープはいつの間にか湯気を立てなくなっていた。
「今までそんなこと言ったことなかったじゃない」
母は不思議そうに首を傾げている。
「いきなり誰かとお昼に行くって言い出すなんて、それって誰かに強制されてるからじゃないの?」
なぜそういう風にしか考えられないのか。
「私は」
いきなり言い出した訳じゃない。
「誰かと一緒にご飯を食べたいって……思ってたよ。ずっと」
同級生に食堂に誘われた時も、弁当を持ってきてるからと断っていた。
元々人付き合いが苦手な性格も相まって、ソナ・フラフニルは1人でいるのが好きな人間という地位が確立され、いつしか誘われることもなくなった。
友人と好きなものを食べ、楽しそうに会話をする同級生達が、自由に見えて羨ましかった。
笑顔で弁当を渡す母には。
「言えなかっただけだよ……」
薄ら寒い室内に、硬い沈黙が満ちる。
ソナは白い皿に横たわるハムの切れ端を見ていた。
「じゃあ」
と言う母の言葉に抑揚がない。
「ソナちゃんはずっとお母さんに嘘をついていたってこと?」
ソナははっとして
「嘘ついてたとかじゃない」
と早口に答える。
「本当はお弁当が嫌なのにずっと我慢してたってことでしょう。──お母さんのこと騙してたんでしょう!」
母は手にしていたマグカップを食卓に打ち付け、その音でソナはびくりと肩を震わせた。
マグカップは割れこそしなかったがコーヒーが食卓に床に黒々と飛び散った。
「お母さんはね……」
母はこぼれたコーヒーなど気にする様子もない。食卓のくすんだ壁に掛けられた、幼いソナの笑顔の写真をじっと見つめている。
「あの子……アシュリーちゃんの事があって、もっとソナちゃんを失うことが怖くなった。本当にソナちゃんのためを思ってずっと……。なのになんで、お母さんのこと蔑ろにするの?」
アシュリー。
ソナの心の内側をざらりと撫でる名前。
ソナは視線を落とし、コーヒーの染みが作る奇妙な模様を見ていた。
「……蔑ろになんて、してない」
「嘘でしょ。ソナちゃんのこと……何にも信用できない」
母の言葉はいつも大事な何かを削り取っていく。
母は心が弱ってる。信じたいものしか信じない。そろそろ薬茶を飲ませなくてはならない。
違うことを考えようと思っても、体の内側は煮えたぎるように熱くなっていく。
「お母さんこそ、私を何だと思ってるの……。私は、お母さんのために……」
望まぬ場所での望まぬ職場を選んだ。
何かを選ぶ時に、いつも母を気にかけていた。
これ以上、何をすればいい。
「私は……」
固い蓋が取れたように何かが溢れ、体を巡る魔力が不安定に揺れる。
感情に魔力が左右されるなんて、幼い子供じゃあるまいし。
そう思っても、止まらない。
気持ち悪い。
ソナは立ち上がる。
母を見ずに玄関へと駆け出し、立て掛けてあった箒を引っ掴むと外廊下へと飛び出した。
「ソナちゃん!」
母が呼ぶ声が中から聞こえたが、ソナの目には雲の切れ間から覗く薄白い満月が映っていた。
寒さは感じなかった。
母から逃げるわけじゃない。
自分にそう言い聞かせたくなってしまう。
箒の柄を掴む手に力が入る。
この行き場のない魔力を放出しないと、どうにかなってしまいそうだったからだ。




