10 ソナ・フラフニルの選択
──周りから何を言われても、どう思われても、あなたと同じところに立って、関わっていきたい。
以前、カギモトにそう告げた。
その言葉に嘘はない。
でも。
“後輩さんに守ってもらっちゃって、情けないですねえ”
昨日メッツェンにそう言われた時のカギモトに、特段変わった反応はなかったと思う。いつものように、受け流していたのだろう。
あの人が弱い立場にいることは、認めたくない。でもどうすることもできない事実だけれど、対等でありたいと近づこうとすること自体、彼の尊厳を守ろうと声を上げることそれ自体が、あの人を惨めな気持ちにさせているのだろうか?
執務室に戻るとカギモトははっとして振り返り、立ち上がって寄ってきた。
「ごめんね、フラフニルさん」
「え」
ソナが何を考える間もなくカギモトが慌てたように謝罪する。
「気を悪くさせちゃったかなって。でもほんと、馬鹿にしたとかじゃなくて、良い意味でギャップがあるって言いたくて」
弁明するカギモトの言葉を聞き流し、その肩を吸い寄せられるように見ていた。
ローブにごく小さな穴が、2つ。その周りに血のような汚れが僅かに見えた。ローブの色が暗いから、注意深く見ないと気がつかないくらいだ。
“刺された”とメッツェンは言っていた。
カギモトのクルベ通りでの立ち回りを思えば、魔法の使い手相手でも一方的にやられてしまう、とも思えない。
──でも、やり返すこともせず、誰に言うこともなく。
護身道具に触れ、安心させるように頷いてみせたカギモトを思い出す。
そもそも、使う気なんてなかったということだ。
「でも俺本当にフラフニルさんのこと──」
言葉が途切れる。
ソナの視線の先に気づいたのか気づいていないのか、カギモトは自然な動作でローブを羽織り直すようにした。
優しげな笑みを浮かべて首を傾げる。
「……どうしたの?」
柔らかな声色に苦しくなり、腫れた頬を見たくなくて、ソナは唇を結んだまま俯く。
傷を暴き、追及することもできる。どうしてもっと周りを頼らないのかと責めることもできる。カギモトに味方することができる。するつもりもある。
しかし、それで何が変わる?
事実を公にしたところで、この人の何が守られるのだろう。
この世界で“杖無し”である以上、カギモトには理不尽が、この先も、終わりなく続いていく。
カギモトが事実を隠そうとする理由は、言いたいのに言えないとか、そういうことではないだろう。
体面を守りたいからなのか、事を大きくしたくないからなのか、この世界への諦めなのか。
わからないけれど。
──でもこの人は。
この世界に来てからずっと、こうしてきたのだと思う。
嘔吐するほどに擦り減らし、それでも他人を気遣って、そして自分を貶めないように。
それを、惨めだというのだろうか。
触れてあげないのが優しさだというメッツェンの言葉を認めたくはない。
でも、この人の選択を、今は尊重するべきなのかもしれない。
黙り込んだソナに困ったらしいカギモトは、ゴシュの方を気にする素振りを見せ、「ま、席座ろっか」と踵を返す。
その背中の肩の部分にもよく見ると、2つの穴と乾いた血の跡があった。
ソナは灰色のカーペットの床に視線を落として歩き、静かに席についた。
「あのさ、さっき係長にちょっと相談したんだけど」
カギモトは汚い字でメモが書き込まれた書類をソナの机に置いた。
「やっぱり出し物のこと、少し考え直して。で、こういうの、どうかな」
とメモ書きのところを指さした。
「……なんて書いてあるんですか」
「ああごめんね。ここ会場から近いし、この事務所の建物を利用するのはどうかなって思って、そのことを」
「読めないです」
「ええー、ティーバだけじゃなくて、そろそろフラフニルさんにも俺の字を読めるようになってもらわないと」
冗談めかして自分で笑うカギモトを見ても、笑う気にはなれなかった。でもなんとか口角を上げる。
「……疲れてる? あとは俺がやっとくから、残ってくれて助かったけど、帰っても大丈夫だよ」
固い唾を飲み込んだ。
「カギモトさんも……疲れてるんじゃないですか?」
「俺?」
ソナがじっと見つめると、カギモトの瞳が僅かに揺らいだように見えた。
しかし口元はいつものように軽く笑っている。
「俺はいっつも疲れてる。もうくたくた」
「なら早く、帰りましょう」
「うん。切り上げようかな」
カギモトはふうと大きく息をつき、ソナの机に置いた資料を再び手に取った。
「これだけ片付けたらね」
「……」
「そんな、呆れた顔しないでよ」とカギモトは笑う。
「目処が立たないと気持ち悪くて」
「私もです」
ソナは消えていた端末の画面を付け直した。
「なので、私ももう少し残ります」
「そう? それはありがたい」
重たげな足音にソナが顔を上げ、振り返ると、ゴシュだった。
いい加減私語を注意されるのかと思ったが、ゴシュは、カギモトとソナの机に鮮やかな包みの菓子をばらばらと載せた。
「シンゼルさんがいつもくれるけど、こう見えて僕、甘いものはあんまり食べないんだよ。残業のお供にどうぞ」
シンゼルさんには言わないでね、と付け加えて、ゴシュは席へと戻っていく。
甘いものを見て、急に空腹感が湧いてきた。そろそろ夕食の時間に差し掛かっていた。
「溜め込んでたね、係長。フラフニルさん、お好きなの好きなだけ先に取って」
「いいんですか」
「うん、俺もね、甘いものはそこまでなんで。今口の中も痛いし」
「……」
「遠慮せず」
にこにことして促され、ソナは菓子に手を伸ばした。
時折雑談を挟みながら、イベントの詳細を詰めていく。
仕事は進む。時間は過ぎていく。
カギモトはよく笑っている。
あまりに普通で、何も起きなかったのではないかと、そう錯覚してしまいたくなる。でもカギモトの頬は赤いし、ローブの肩の汚れは何度も視界に入った。
どうしてか、この人は隣にいて、言葉を交わしているのに、どこか全然違うところに立っているかのような気がしてしまう。
“海向こうの世界”から来た人だからだろうか。
心のどこかがすり潰されるような、焦れた痛みが込み上げてくる時がある。
多分、この人と出会ってからずっとだ。
それが何なのか、考えないようにしていた。




