9 メッツェン・スリンの優しさ
「本当に良かったですね、バルトロさん」
ソナが席に着く。
「ほんとにね」と同じく腰を下ろす。
「家出ってさ、したこともしようと思ったこともないんだけど、ルペルちゃん、探してほしかったのかな、バルトロさんに」
口にしてから軽率だったかもしれない、と思う。いつもならもう少し考えてものを言うはずだ。他人の行為の意味付けなんてする必要ないのに、たぶん、頭も疲れているのだろう。
ソナはほんの少し首を傾げた。
「私、家出というほどじゃないですけど、母と揉めて家を飛び出したことはあります。わりと最近。寮に入る前のことですけど」
「え、そうなんだ……」
意外、な気もするが、ソナのあの過保護すぎる母親を思えばありえそうな気もした。
「ルペルさんなりの自己主張、なんでしょうか。まあ、色々事情がありますし、一概には言えないというか」
複雑ですよね、とソナは言葉を締めた。
そのとおりだ。
ここで話したところで益体もない。
「あ、でもさ、家飛び出しちゃうとか、フラフニルさんって意外と衝動的なところあるよね」
話題を変えると、ソナは心外だというように眉をひそめた。
「はは、ごめん冗談。さ、続き続き」
切れた口の中に痛みが走る。油断して笑ったせいだ。ソナから顔を背けて書類の角を整えた。
「係長が言ってた出し物が地味って言うの、無視しちゃっていいよね? あ、まだ時間大丈夫?」
「平気です。あの、カギモトさん」
「ん?」
見ると先ほどのむっとした表情は消え、今は躊躇いがちに口を開こうとしていた。
「ほっぺ、まだだいぶ赤いですよ。ちゃんと冷やしたんですか」
「いや大丈夫……ふっ」
笑いが漏れ出てしまう。
「え?」
「“ほっぺ”って……フラフニルさんが“ほっぺ”って言うの、なんかギャップっていうか。かわいいっていうか。あはは」
「な……え……」
ソナの色白の顔が徐々に赤くなる。
申し訳なくなり、何とか笑いを収めた。あまり笑うと口の中だけでなく蹴られた脇腹も痛い。
「はあ。ごめんねさっきから。今から本当に集中します」
そう言ってみたが、ソナは顔を伏せて立ち上がり、執務室を出て行ってしまった。
気分を害してしまったらしい。
彼女からすれば話をはぐらかされた上に茶化されたのだ。茶化すつもりは一切なかったのだがが、今のは自分が悪い。
でもまあ……普通にトイレの可能性もある。
どちらにしても後を追うのも憚られて、ひとまずは手元の書類に向き合うことにした。
§
鏡で見ると、ソナの顔はほんのりと赤くなっていた。
表情は険しい。強張った顔を緩め、とりあえず冷たい水で手を洗う。
特に来たかったわけでもないが、思わずトイレに逃げ込むようにしてしまった。
カギモトの軽口に、うまく返事ができなかったからだ。いつものことだが、困る。
腫れた頬でにこやかに笑う。“かわいい”などと、何の衒いもなく口にする。
あの時と同じだ。
北部からの出張帰りのカギモトも、嘔吐までしておきながら、冗談めかして笑っていた。
また自分の目つきがきつくなっていることに気づき、溜息をついた。
ハンカチで手を拭き、終業後でいっそう薄暗い廊下に出る。
と、階段室からちょうどメッツェンが出てくるところだった。手には数冊のファイルを抱えている。
彼女も残業しているらしい。
ソナを見ると、控えめににこりとした。
「ソナさんも残業ですか」
「あ、はい。来月のイベントの件で少し」
「カギモトさんも?」
メッツェンの口からカギモトの名が出たことに、何となく警戒心が湧く。
「……はい」
「大丈夫そうですか? あの人。怪我とか、痛がってません?」
「え?」
聞き返すと、メッツェンはにやりとしてみせた。
「ああ、やっぱり周りに言ってないんですね。本当、プライドが高いっていうか。あの人のプライドなんか何の価値もないっていうのに」
「どういうことですか」
「聞きたいですか?」
メッツェンは耳に髪をかけ、試すようにソナを見る。
「聞いてもたぶん、嫌な気分になるだけですよ」
既に嫌な気分だ。
「どういうことですか」
一瞬間を空け、メッツェンは「忠告はしましたからね」と取ってつけたように言った。
廊下の空気は冷えていて、足元から寒さがにじり寄って来るようだ。
「カギモトさん、あの人、シェボン家の護衛の人とうちのフロアに来たじゃないですか、昼間。バルトロさんの娘さんを探しに。わたしも少しだけお手伝いしたんですけど」
ソナは明確な相槌はせず、話の先を待つ。
「その時カギモトさん、護衛の人と会議室に行ったんですよね。わたしの方は執務室をさらっと見てもらって終わったんですけど、そしたら会議室から物音がして。何かなと思って、こっそり覗いたんですよ、わたし」
いちいち勿体ぶるような話し方だ。ハンカチを握り、苛立ちを抑える。
そうしたら、とメッツェンは声を低めた。
「あの人、殴られてまして」
そのひと言で心臓がざわりと音を立てた。
「痛そうでしたよ、顔をばっちーんて。一方的にやられてて。たぶん、肩のあたりですかね。刺されてたみたいにも見えましたね。あの人、助けも呼ばずにじっとこらえてて」
刺されていた?
顔は腫れていたが、そんな大怪我を負った様子はなかった。
でも。
昨日、カギモトに容赦なく魔法を放ったあの護衛の男を思い出す。
「ほんと非魔力保持者って不憫ですよね。きっと立場上、騒いでも無駄だってわかってたんでしょう。だから」
「止めなかったんですか、あなたは」
思わず言っていた。
「だって嫌いですもん、あの人のこと」
メッツェンは軽く首をすくめる。
「それに忘れたんですかあ? わたし、非魔力保持者を排除する側の人間ですよ」
「……」
ソナは唇を噛むようにして、執務室に繋がる閉じた扉の方を振り返った。
「でも、本人が隠してるんなら、触れてあげないのが優しさじゃないかとわたしは思いますよ。だからわたしも黙っててあげてたんですけどね」
「じゃあなんで……私に言うんですか」
手元のファイルを一冊ずつ確認していたメッツェンは「だって」と愉快そうに顔を上げる。
「あなたがあの人を追及しても、聞かなかったことにしても、どっちにしてもあの人が惨めさが際立つと思いません? だからですよ」
そして首を傾げる。
「で、ソナさんは、どうするんです?」
返事はしなかった。いや、できなかった。
「あーあ、一冊忘れてきちゃいましたよ」と照れたように笑い、メッツェンは再び階段室へと向きを変えた。
廊下に一人残され、もう一度執務室の方を見やる。
戻りたくない、という気持ちが外から投げ込まれたように生まれた。
今さら聞かなかったことにはできない。問い質したのは自分だ。
でも戻ったら。
カギモトの顔を見たら、私はなんて言うのだろう。
しばらく立ち尽くしていた。
やがて、何も定まらないまま、それでも執務室に向かい、短い廊下をのろのろとした足取りで戻った。




