12 大切な友人
ベルはもう一度鳴った。
ロドラン夫妻はもう就寝しているのだろう、2階から降りてくる気配はない。
ティーバは一度こちらに視線を向けると、首にかけていたタオルを外して玄関へと歩いていく。
俺とトレックも何となく目を合わせるが、ティーバのスリッパの足音を聞きながら、何も言わずに廊下に突っ立っているままだ。
廊下は玄関に向かって斜めに伸びている。ここからでも来訪者は見える。
まさかマツバじゃないだろう、とまた被害妄想めいたことが頭を掠めた。
しかしあの男が素直にベルを鳴らして入ってくるとは思えない。
ティーバが玄関扉を開ける。
「大丈夫かね!」
と開口一番、その来訪者はティーバに詰め寄った。ティーバ越しにちらと見えたのは、作業着姿の初老の男性だった。
「え、ダリオさん? 何ですかいきなり」
「いや、俺はさっき仕事から帰ってきたんだが、うちの家内がな、夕方ロドランさん宅に“杖無し”が入っていくのを見たって言うから」
俺とトレックは再び顔を見合わせた。
「……だから、何です?」
「いやほら」とダリオさんと呼ばれた初老男性は、急いで来たのか額の汗を腕でぬぐい、息を整える。
「最近物騒だろう。“杖無し”絡みの事件とか。家内に念のため見てきなさいよって言われたもんで。それで」
大丈夫なんだね?とダリオさんはティーバにもう一度尋ね、家の中を見ようと首を伸ばしたところで、俺達が視界に入ったらしい。
「──あっ、ほら、い、いるじゃないか“杖無し”が! なんだ、そこで何をしてるんだね」
ダリオさんが険しい顔で俺を指差した。
恐らく……ご近所さんなのだろう。心配してわざわざ来た。良い人だと思う、普通に。
「ダリオさん。心配してくれるのはありがたいんですが」
ティーバの声は低く冷たい。
「彼は僕の同僚で、大切な友人です。失礼なことを言わないでいただけますか」
「友人?」とダリオさんは疑わしげに目を細めた。
「“杖無し”が友人って、それは……」
「おっさん」
苛立たしげに口を挟んだのはトレックだ。 ずかずかと大股で玄関まで歩いていく。
「勝手に来て何? てかあんた誰? 何もないんで、お帰りいただけませんかねえ」
「な、何だその口の利き方。おまえこそ誰だ」
「おい、トレック」
酒のせいか余計に態度がひどいトレックを追いかけ、止めに入った。
「てめえはなんで」とトレックが刺すように睨んだのは俺だ。いきなり胸倉を掴まれる。
「怒らねえんだよ。いつも涼しい顔しやがって。トラムでもそうだ……。腹立つだろこんなの」
酒臭い息だ。腕を振り払おうとするがすごい力で敵わない。
怒りに揺れるトレックの瞳から目を逸らす。
「……腹は立たない。というか、立てても仕方ないっていうか」
「ふざけんなよ」とトレックは吐き捨てた。
「そんなだから、そんなふうにしてるからおまえ今……そんなんなってるんじゃねえのかよ……」
その言葉尻が弱々しく消えていく。
激しく怒鳴られるよりもその方がずっと、自分の中の何かに触れてしまいそうな気がした。
だから、下がる前に口端を持ち上げる。
「そんなんって何」
笑いながら、今は力の抜けたトレックの腕を払った。
「何言ってるのか全然わからないって」
トレックは一瞬信じられないというように目を見開く。ぎりと歯を食いしばった。
「……くそがっ」
力いっぱい壁を殴りつけ、何もない床に躓きながら足音を立てて去っていく。リビングの方だ。
壁に掛けられた小さな額縁の絵が不安定に揺れる。
「一体何の騒ぎだね」
寝間着姿のヨルドさんが階段を降りてきた。
「ダリオさん? こんな時間に何の用かな」
「あっ、ヨルドさん。これは、いやあ……」
俺と、既にこの場を去ったトレックとのやり取りを呆けたように見ていたダリオさんは、所在なさげに白髪頭を掻いた。
「何でもありません」とティーバが言い切って、ダリオさんを玄関扉の方に押しやる。
「ちょっとした誤解があったようですけど、もう解決しましたから。ほら、ダリオさん。遅いのでお気をつけてお帰りください」
「あ、え、でも」
「奥様にも」
ティーバが声をかぶせる。
「ご心配いただくようなことは何もありませんと、お伝えください」
扉を開け、戸惑うダリオさんの身体を外に押し出し、「ではおやすみなさい」とティーバはすばやく扉を閉めた。
耳が詰まるような静寂が生まれた。
「ええと……本当に大丈夫なのかい?」
穏やかに沈黙を破ったのはヨルドさんだった。
「大丈夫です。お騒がせしてすみませんでした」
ティーバは溜息をつく。それから少し伺うようにヨルドさんを見た。
「失礼だったでしょうか。ご近所の方に対して」
「いや」とヨルドさんは少し可笑しそうに笑った。
「心配するな。何があったかわからんが、ダリオさんとは明日話しておくよ。それに、おまえがそんなに怒るとは、よほどのことだったんじゃないか」
ティーバは俺の方を見て「はい」と頷く。ヨルドさんも同じくこちらに視線を注いだ。何かを察したのか、その笑みが少し抑えられる。
「カギモトくん」
「あ、はい」
「風呂は、どうだったかな」
「え、あ……とても良かったです。長風呂してしまいました」
「そうかい。前来たときも喜んでいたよね」
ヨルドさんは思い出すように優しく微笑んだ。
「遠慮しないで、風呂に入るだけでもいい。うちにはいつでも来てくれて構わないから」
「……ありがとうございます」
ヨルドさんは頷き、「じゃあもう一度寝るよ」と踵を返そうとして──壁の一点を見つめた。
「おや? ここ、へこんでるなあ」
先程トレックが殴ったばかりの壁の跡を見て「前からだったかな」と首を傾げている。
その後ろ姿を見ながら、苦笑いにも似た笑みが浮かんだ。
ティーバの方を見ると目が合った。同じような表情をしているかと思ったが、気まずそうにすぐに目を逸らされただけだった。




