11 “その場しのぎ”
出そうになった舌打ちを咄嗟に抑え込む。代わりに、ゆっくりと息を吐き出した。
「……上がるの早すぎない?」
「いつもシャワーだから」
濡れた髪をタオルで抑え、ティーバは短く返す。
ティーバは潔癖だからだ。あれだけいい浴室があるのに贅沢なやつだ。
そんなことを頭の隅で思いながら俺は持参した歯ブラシを見せた。
「歯磨きたいんだ。どいてよ」
「さっきも訊いたけど」と廊下を塞ぐようにティーバは立っていた。
「僕は素面だ。だからカイリは僕と話をしてくれるのかって」
「話すって、何を」と軽く笑う。
「話くらいいつもしてるのに」
「明日、カウンセリングを予約してるんだろう?」
「……」
「君はそれに行かないつもりだ」
手の中で歯ブラシの毛先をいじっていて、ふと、思い至った。
「ああ……ナナキ?」
俺の確認に、ティーバは浅く頷いた。
あの時は機嫌が良くて、レンさんへの予約の電話を向かいで聞いていたナナキには、形だけの予約なのだと馬鹿正直に伝えてしまっていた。でも今考えれば口が滑ったとしか思えない。
ティーバは申し訳なさそうに目を伏せる。
「だからカイリが今晩うちに泊まりたいって言った時、それが関係してるのかな、とは思ってた」
「……でも別に理由は何でもいいんだろ? ティーバは俺に協力してくれるって」
「そう言った。でも、今のトレックとの会話を聞いてたら、やっぱり……」
ティーバの手は首に掛けたタオルの端をきつく握っていた。
いつの間にか、トレックも俺の背後に来ている。
「こんなこと、あまり言いたくないけど。でも僕も君を見てると……不安になる時がある。それは、前にも増して。一度、きちんと話そうと思ってた」
ティーバが言い終えると廊下はしんとした。 かちかちと、壁時計の針が無機質な音を刻んでいる。
カウンセリングについてはそこまで必死に隠すつもりもなかったことだ。
今陥っているこの面倒な状況から逃れるためには、説明した方が手っ取り早いだろう。
「確かに明日の朝、カウンセリングの予約を入れてる。行く気はない」
言いながら後ろを見やるとトレックは引き続き険しい顔をしている。
「俺、ずっとカウンセリングを拒否してきたけど、そろそろ強制的に受けさせられそうな段階になってて、それは避けたくてとりあえず予約だけ入れたんだ。当日ドタキャンするつもりで」
「……それとティーバんちに来たことと、何の関係があるんだよ」
トレックが唸るように訊く。
「カウンセラーの人、レンさん、厄介でしつこい人だからさ。俺がドタキャンするのくらい見越してる気がして。ほら、マツバさんっているだろ? 前にあの人に無理やりカウンセリングに連れて行かれそうになったことがあって、あの2人知り合いだから、レンさんなら俺が逃げないようそういう手配しかねないなって。マツバさんは俺の部屋に勝手に入れるし。だから今晩は、誰かの家に避難しようと思っただけ」
一息に説明したが、それで2人も得心がいく──とまではさすがに思っていない。案の定2人は、何だか奇妙なものを見るような目を俺に向けている。
トレックは大きな目を細め、慎重に口を開く。
「おまえ……なんかそれって」
「俺の考え過ぎだって思うんだろ?」
わかってるよもちろん、と指摘される前に牽制した。
「でも俺本当に嫌なんだ。だから念には念を入れてっていうか。慎重に動いて損はないだろ。今日泊まらせてもらう理由はそれだけ。でもまあそれはどうでもいいよ。結果的にこのメンバーでティーバの家に来られて、楽しいし?」
同意を求めて笑ってみせるが、2人とも表情を崩さない。
「……カギモト」
「何」
「おまえがカウンセリングを死ぬほど嫌がってんのは俺も知ってる。何が何でも受けたくなくて色々考えたんだろ。でもな」
トレックの空色の瞳が射抜くように俺を見た。
「おまえのやってること、ただのその場しのぎだよ」
「……」
「カウンセラーの人、厄介なんだろ? 今回こんなふうに逃げて、次は本当に強制されるかもしれねえぞ。自分の首絞めてるっつーか、先のこと考えた行動とは思えねえな」
最近そんな言葉を別の人間から言われた。
ソナ・フラフニルに、備品の修理代を自腹で払うことを相談した時だ。彼女にもそれは「その場しのぎ」だと指摘された。
あの時は動揺した。
「別にいいんだ、先のこととか。その時になったら考えればいいと思う」
「なんでおまえ自分のことになるとそんなぐだぐだなんだよ」
トレックの言葉は耳を通り抜けるだけだ。
今をやり過ごす。
それは俺のこの世界での在り方の癖みたいなものだと思う。
別にそれでいい。
今を、この週末をうまく切り抜けさえすれば、来週には、エンデが約束を果たす。そうすれば。
「来週だ」と口走っていた。
「……来週?」
ティーバもトレックも眉をひそめる。
「色々心配させてるみたいで申し訳ないけど、来週以降色々ちゃんとやる、やれるから」
普段よりも早口になっていた。考えるより先に言葉が出ているような感覚がある。
「だから今日は、ただの宿泊会って感じでよくない? はい、じゃあこの話はもう終わりに」
「来週何かあるのか?」
ティーバが不安そうに尋ねるが、俺は首を横に振った。
「すごく個人的なことだから、どうでもいいだろ」
「カイリ」とティーバの声が少し大きく廊下に響く。
「僕は前に、君とは良い友人でいたいって言った。それに嘘はないし変わらない。君の意志も尊重する。だから、どうでもいいなんて言わないでほしい」
いつもはどこかで遠慮するティーバのその視線に、引き下がる様子はなく。
「君もちゃんと向き合ってくれないか」
──うるせえんだよ。
頭の中で怒りが弾け、そのまま喉元まで出かかった。
こいつらとは適当に、表面的に、楽しく過ごせればいいだけなのに。
腹の中が沸き立つほどに気持ち悪くて苛立たしい。
ぶちまけてしまいたくて、唇が震えた。
でもだめだ。
この間のように、みっともなく声を荒げるようなことは、この2人の前では絶対にしたくない。節度を失ってはならない。
改めて正面の、覚悟を決めたような顔のティーバを見た。それから後ろに立つトレックも。
以前、ソナ・フラフニルに踏み込まれそうになって、うまく躱したつもりだった。しかしそれで彼女との間の何かが断ち切られてしまいそうな気がして、焦って、うっかり弱音を漏らしてしまった。
でも今、そんな焦りはない。大丈夫だ。
結局のところ、ティーバともトレックとも他の皆とも、俺みたいな立場の人間がこの世界で少しでも穏やかに過ごせるよう、細心の注意を払って築いてきた関係だ。
仕事上の一時的なつながりでしかなくて、いくらでも揺らぐ可能性がある不確定なもので。
そんな上辺だけの関係の相手と本気で感情をぶつけ合う必要なんてない。俺達は大人だ。
そう切り離しさえすれば、心は凪ぐ。
固く握りしめていた拳を少し緩めた。
さて、しおらしく謝るか開き直るか、どう進めるべきか思案していると──
涼やかなベルの音が廊下に響き渡った。
つられるようにティーバが玄関の方に目を向ける。
「……来客?」
こんな時間に、と俺含め3人は、怪訝そうに壁時計を確認した。




