4 管理係主任 ハオ・ジェン
その日の午後。
穏やかな日差しが執務室のアーチ型の窓から射し込んでいた。
「カギモトさーん」と朗らかに席に駆け寄ってきたのは、確認するまでもなくエンデ・エリュトフィラだった。
「……何」
領収書の確認がなかなか終わらないので視線は手元に向けたままである。
「あっ、なんか前よりさらに冷たい。仕事のことですよ。ご相談があって来たんです!」
「別にわざわざ来なくても、相談くらい電話でいいだろ」
「ほんとに冷たい」
今のエンデは普段の愛想の良い懐っこい後輩を装っているようだ。
「相談って何なの、エンデ」
淡白に口を挟んだのはティーバである。わざわざ椅子を引いてこちらに来た。
「カイリは忙しいから。僕が聞く」
「ティーバさんはお暇ってことですか?」
「……そういうわけじゃない」
ティーバの低い声に「冗談ですよ」とエンデはにこりとする。
「じゃ、お二人に。相談っていうのは、ちょっと問題が起きちゃいまして。まあ大問題ってほどじゃないとは思うんですけど、まあまあ大変っていうか」
「もったいぶるなよ」
領収書を紙に貼り付けながら俺が促し、横でティーバも不機嫌そうに頷く。
「ええと、ハオさんがですね」とエンデは声をひそめて管理係の主任の名を出した。
「さっき2階の備品庫の中をめちゃくちゃにしちゃいまして」
「めちゃくちゃ?」
思わず仕事の手が止まる。
「ハオさんがものを取りに行ったらおっきな蜘蛛が出たらしくて、びっくりして魔法を放ったら薬剤とか結界石とか色々だめになってしまいまして」
「……」
俺とティーバは沈黙した。
ハオさんが大の虫嫌いというのは知っている。だから緑の多い遺跡には行かないらしい。
それはそれとして、管理係の備品庫には業務で使用するそれなりに高価な薬剤や道具があるのだ。それがめちゃくちゃとは。
ちらりとゴシュ係長の方を見た。忙しそうに大量の書類に目を通している。
また予算申請が必要になりそうだ。
「ま、見に来てくださいよ」
こちらの気持ちを知ってか知らずか、エンデは朗らかに笑った。
§
「うっ……くさい……」
備品庫の中は刺すような激臭で満ちていた。鼻をつまんで灯りをつけ、中を見回す。足元には割れた瓶が散乱し、奇妙な色の液体でびしょびしょだ。薬剤が混ざり合っているようで、これがにおいの元だろう。
棚もあちこちが歪み、結界石やら環境石やらの入った箱も壊れて中身が散らばっていた。
「何これ、どれだけ暴れたの」
ハンカチで鼻を覆いながらティーバも唸った。
「蜘蛛がだめなんですよぉ、ハオさん」
「だめなんですよ、で済む被害じゃない」
あっけらかんとしたエンデをティーバが睨む。
「始末書にはなるだろうね」と俺が続けた。
「すぐに必要になる物品もありますから、すみませんが早めに補充していただきたいなってご相談です」
「補充はやるけと。でもここの掃除は管理係に頼むよ」
「断る」
備品庫の入口の方からの嗄れた声に、振り返る。
ずんぐりとした白髪の男性。
この西部遺跡管理事務所で年配の職員、管理係の主任、ハオ・ジェンさんだ。
「俺ぁわざとやったわけでもねえし、掃除なんて暇な総務係の仕事だろ」
「ハオさん」
ティーバが眉をひそめた。
「わざとじゃないにしても、そんな無責任なこと言わないでください。これ、いくらの損失になると思ってるんですか」
「始末書は書く」
ハオさんは肩をすくめた。
「だがこんなくせぇ場所の片付けはごめんだ。あんたが嫌ならそこの“杖無し”にでもやらせりゃいい」と俺に目を向ける。
「昔はな、こういう汚いのは“杖無し”の仕事だったんだぜ」
「ハオさん」
ティーバの語気が強まる。
昔はこうだった、と語る典型的な年配者である。
確かにハオさんくらいの年齢なら“杖無し”が奴隷のように扱われていた頃もよく知っているだろう。俺が同じ職場にいることが、建前でも受け入れられないのかもしれない。
「今は時代が違いますからね」とエンデがやんわりと場を諌める。
「片付けは僕がやるんで大丈夫ですよ。ハオさんも、必要なら始末書の参考データ持っていきますね。こないだオズワルドさんが作ったのがありますから」
オズワルドは一体何をやらかしたのやら。
とにかくハオさんは不満そうに鼻を鳴らして俺を一瞥すると、「データを頼む」とエンデに告げて立ち去る。
「掃除はほんとにしますから」とこちらに目配せをして、エンデも部屋を出て行った。
エンデ・エリュトフィラは気が利く新人だ。それは認めざるを得ない。
やれやれという気分で備品庫に視線を戻すと、ハンカチで鼻を押さえたティーバが「まったくハオさんは本当に」と文句を言いつつ失われた物品のメモを取っていた。
「まあ、どこにでもああいう人っているし。それに今年定年だよな、あの人。放っておこう」
「またそんな他人事みたいに」
「それよりティーバ、ここ大丈夫? 汚いの苦手だろ」
ティーバは一瞬黙った。
「……まあ、仕事だから。それにこういうのは汚いっていうのはまた違うとも思えるし、絶対に無理ってわけじゃない」
自分に言い聞かせるようにしているが、ティーバの中ではそうやって折り合いをつけているらしい。それならば頑張ってもらおう。
「じゃ、こっちの棚は俺が見るよ。ていうか、棚自体も修理しないとか。業者を呼ぶか。トレックとか直せるかな。ほんと、仕事って急に沸いて出るよね」
「カイリ、この件は僕が引き受ける」
「え、いいの?」
ティーバは少し間を空けて、頷く。
「最初に話を持ちかけられたのがカイリだからって、何でもかんでもカイリがやることない」
「まあ、それはそうだけどね」
テーテの箒の時と同じように、俺がまた色々と抱えて爆発することを懸念しているのだろう。だが同じ失敗は二度もしないつもりだ。
「でも、俺から仕事取り上げないでよ」
あえて嫌な言い方をしてみると、ティーバはペンを取り落としそうになった。
「そんなつもりは」とティーバの声色が必死になる。
「僕は前にも言ったけど、カイリにできないとか思ってるわけじゃない。でも」
「ごめん冗談」
「……」
「でもほんとに今は、わりと手が空いてるんだ」
ティーバはどこか疑うように口を噤んでこちらを見て、「じゃあ一緒にやろう」と溜息をついた。
俺は笑顔で頷く。
今週末までの時間と思考の余白を潰したい。それには仕事をするのが一番で、そういうときは、少し抱え込んでいるくらいがちょうどいい。もちろん周りに迷惑をかけない程度に、だ。
なんたって今の俺の趣味は、仕事なのだから。




