ティーバ・ラヴァンデリオの後悔 7
社長室の前に立っていた。
煮詰めたように深い茶色の、重々しい扉だ。
ラヴァンデリオグループの社長である父がこの向こうにいる。
ノックしようとする手を宙に浮かせたまま、僕は暫し固まっていた。しかし、いつまでもそうしているわけにもいかない。
詰めた息をひとつ吐き、扉を叩く。
入れ、とくぐもった声が聞こえた。
「失礼します」
ゆっくりと押し開け、厚い絨毯の敷かれた部屋へと体を入れる。
父の香水の香りが微かに漂う。カーテンの開かれた窓からは、南部の山々が遠く見えた。
部屋の奥の高級感ある執務机、革張りの椅子に父はいる。いつもと同じ冷たい無表情で、机の上の書類にペンを走らせていた。
「授業中に呼び出しなんて何事ですか、父さん」
僕は学校の制服のままだ。
教室で授業を受けていたところに、父親が呼んでいるからすぐに帰れと教師が慌てて伝えに来たのだ。
「この国で一番大手の製薬会社は?」
父は顔を上げもしない。
なんの前触れもない問いかけも、父ならよくあることだ。
「……プラトー製薬でしょう」
「そこは、最近の研究で発見された新物質をもとに新薬の開発に取り組んでいるんだが、どんな薬か知っているか?」
「……すみません、把握していません」
「新聞も読まんのか」
「……」
今は定期試験の時期だった。
社会のニュースよりも覚えなければならないことがたくさんある。
しかし父が無意味にこんな問答をするはずがない。
「僕が呼ばれたことと、何の関係があるんでしょうか」
「プラトー製薬は新薬開発の出資者を募っていて、うちの金融部門も出資の交渉をしていた。だが今朝、うちからの申出は受け付けられないとの回答が先方からあった。なぜか」
父は書類にサインをしながら僕に問うている。しかし何も知らない。
僕は「わかりません」とかぶりを振った。
「プラトー製薬は、その新薬の開発にあたって大学と共同研究を行っている。その研究の中心となっているのが」
父は言葉を切り、手を止め、鋭利な刃物のような目を僕に向けた。
「ブルス大学の教授、クロディ夫婦。彼らが作ろうとしているのは、脳の損傷を回復させる薬だ。完成すれば画期的なものになる」
クロディ。
脳の損傷を回復させる薬。
ヒューが浮かんだ。
「ヒューの目が治る薬なんですか」
「そんなことは知らん。そんな話をしたいんじゃない」
思わず前のめりになると、父がぴしゃりと言った。
「交渉の場に同席していたクロディ夫婦から伝えられたそうだ。かつておまえが中心となって、クロディ夫婦の息子を虐めていたと」
僕は顔を強張らせた。
「あの息子が失明した時の事故も、学校側の報告とは違って、実際はおまえが主導したものだと」
「……違います」
絞り出すように反論する。
「僕は別に主導していたわけではなくて」
「それが真実か作り話かはどうでもいい。証拠があるわけでもない」
父が言い捨てた。
「だが、火のないところに何とやらと言う。そういう話が真実味を帯びて聞こえることが問題だろうな」
「……」
「うちが拒否されたのは、クロディ夫婦の強い意向があったからだ。そして、ラヴァンデリオグループの跡取り候補への良くない噂も、段々と広まっていくことになるだろう」
冷え切っていた指先を握り締め、唇を噛む。
「あの時の治療代もすべてうちが持ったというのに恩知らずなやつらだが」と独り言のように言って、父はあらためてじろりと僕を見る。
「しかし交渉は完全に打ち切られたわけではない。実はひとつ条件を出されたんだよ、クロディに」
「条件、ですか」
父は立ち上がり、後方の窓にゆっくりと向かい、僕に背を向けて外を眺めた。
「──おまえを、ロドラン家に養子に出すことにした」
「……は」
唐突な通知に僕の思考は止まった。
「ルイーゼの兄が西部で畑をやっているだろう。さっき向こうに話は通した。今月末の予定だ」
ルイーゼ。僕の亡き実母。
そしてその兄……僕の叔父は、貴族をやめて姓まで変えて、気ままに生きる自由人だ。
そこに養子に入れと、父はそう言った。
「条件って」
「おまえをラヴァンデリオから切り離せということだ。おまえがいる限り、うちと関わる気はないと。それを受け入れる価値があの新薬にはある」
父の口調は平然としている。
「私としても、後ろ指をさされかねない人間を上に立たせるわけにはいかない。そんな人間に、ラヴァンデリオの名を持たせておくこともできない」
「僕は」
口の中がからからに乾いていた。
「ヒュー・クロディを傷つけるつもりはなかった。関わりたくなかっただけだ。父さんは、非魔力保持者を好んでいなかったから。付き合う人間は選べと言ったのは父さんだ」
これではまるで子供の言い訳だ。
「私のせいにしているのか? 確かに私は“杖無し”が嫌いだ。ビジネスであっても関わりたいとは思わない」
父は冷たい目で言い放つ。
「だが時代は変わりつつある。今さら言われてもどうしようもない」
それはこっちの台詞だ。今さらそんなことを言われて……どうしろというのか。
そもそもだが、と父は続けた。
「ティーバ」
「……はい」
厳然とした声に身を正してしまうのは、染み付いた癖だ。
「人の顔色ばかり見て自分の考えも持てないような人間に、ラヴァンデリオグループを率いる資質はないと私は思うが」
何かが断ち切られたような気がした。音が消え、足元すら覚束なく、ぐらついてくる。
「僕はずっと……ラヴァンデリオのために」
「おまえが出ていくことが、ラヴァンデリオのためだ」
父は再び窓の外に目をやった。
窓から見える景色は、この部屋の冷え切った雰囲気などまるで関係ないとでもいうように、明るく穏やかだ。
「イルオンに跡を継がせたかったんじゃないですか、初めから」
決して言うまいと思っていたことなのに、こらえられなかった。
「父さんは体よく僕を追い出す口実ができたと、そう思って……」
「そう解釈して納得できるんならそうすればいい。だがおまえもイルオンも等しく私の息子だ。ここを出た後も、不自由ない程度に支援はする」
父はいつでもその本心が読めない。常に僕を見下ろし圧迫する壁のようだ。
「ただし、ラヴァンデリオの人間だったとは知られるな。それ以外は、好きにやればいい」
あの夜、ヘルベティアに与えた言葉を思い返す。
“周りに見捨てられたくなかったら、みんなに望まれる姿を死に物狂いで演じることだ”
僕はずっとそうしてきた。
それが正しいことで、自分を守る鎧だと信じていた。自分の居場所を失う恐怖がいつも付き纏っていたから。
「ラヴァンデリオのため」という前提を失えば、僕はこれから先、一体何を導とすればいいのか?
僕の立場は想像できると言ったヒュー・クロディになら、わかるのだろうか。
僕には何も見えていない。




