探索士ノダ・アヤセの楽しい異世界生活 1
眠たくなるような静かで、心地のいい音楽。ほっとする柔らかな香りは、何かのハーブかな。
暖かい海を漂っているみたい。
緩やかな気分の中、昔の色褪せた映画のように、自分の記憶がうっすらと断続的に流れていく。
それをただ眺めていた。
……
「──ノダさん」
品の良い女性の声。
肩に軽く触れられる。
いつの間にか音楽は消え、香りもなく、頭に流れていた映像も見えなくなっていた。
目を開ける。
柔らかなクリーム色をした天井。
「おしまいよ。気分はどうかしら?」
ゆっくりと体を起こし、うんと縦に伸びをする。
出来の良い姉に比較され、親からも何も期待されない野田綾世。
喋るだけ、動くだけでクラスメイトにくすくすと笑われる野田綾世。
小さく縮こまっている自分の姿は、遠くの国の知らない誰かの物語を軽く見聞きした程度……ちょっとかわいそうだな、くらいにしか今は感じない。
──これでまた、記憶がひとつ閉じた。
カウンセリングを受けるにつれ、重たい枷が少しずつ外れていくような、そんな気分は。
「めっちゃ最高です!」
あたしは横の丸椅子に座る白衣の女性──レン・ファーレン先生に正直に答えた。
カノダリア国中央地区にある、カノダリア国立大学。その敷地内に併設されたカノダリア国立病院の心理センターにあたしはいた。
「それはよかったわ」
レン先生はクリップボードに何かを書きつけ、顔に落ちた藍色の短い髪を耳にかける。大ぶりの金のピアスが揺れるのが、お洒落で大人の女性という感じでかっこいい。
それから卓上のカレンダーを手に取った。
「次回は3ヶ月後ね。仕事もあると思うけど、とりあえず月末に予約しておいていいかしら」
「全然大丈夫です」
忘れないよう手帳にメモをする。スマホがないのはやはり不便だが、仕方がない。
手早く身支度を済ませ、壁に立てかけて置いた愛箒──橙色の特注箒を手に取った。
「じゃあ先生、ありがとうございました!」
「お仕事頑張ってね」
レン先生はゆったりと微笑んで手を振ってくれた。レン先生の脇には、黒い杖がデスクに立てかけてある。杖といっても魔法の杖じゃない。レン先生は脚が少し不自由らしく、立ったり歩いたりする時の補助の杖だ。
年齢も不詳でミステリアスな人だけど、レン先生のことは優しくて好き。
あたしはもう一度先生に頭を下げて、診察室を出る。
カウンセリングは夕方の予約だったから、センターの外に出ると、もう空は薄暗い。
お腹が空いた。
ニコラスとヴァンに、伝心蝶で「終わったよ」と連絡を送ると、すぐにニコラスから返事が来た。近くのお店に入ってもう料理の注文もしてくれているようだ。
ニコラスは普段あたしのことを「変なやつ」呼ばわりするくせに、意外と気が利いて優しいところがあるのだ。
すぐに店に向けて箒を飛ばした。
暗くなってからの飛行は気持ちがいい。乾いて少し涼しいくらいの空気もちょうど良かった。
空には星が瞬いているし、地上では行き交う魔導車のライトや、遺跡を覆うドーム型の結晶が光を放って幻想的だ。
空を飛ぶなんて、もちろん初めてのときは恐ろしかった。
しかし、魔法の力に目覚めたあたしには「できる」という感覚的な確信があったし、できてみれば怖さなんてなくなっていた。
飛べない人が心底かわいそうに思えるくらいに素敵だ。
箒のナビゲーターを確認し、店の近くに着陸した。
カノダリア国立大学近辺は人が多いから飲食店が多い。学生向けに手頃な店も多いし、お洒落でおいしいところも探せばある。
その中でニコラスとヴァンが選んだのは、南部地方の料理を主とするレストランのようだった。
黒っぽい木造の店構え、入口の前には手書きのメニューの看板。シックでいい感じである。ニコラスはなかなかにセンスがいい。いや、店を選んだのはヴァンかもしれない。
どちらでもいい。
どちらもあたしという人間に気を配ってくれている。
それは元の世界の自分にとっては考えられないことだった
カウンセリングの後ということも相まって、あたしは上機嫌で店に入った。




