懇願
ソナは先の係長と似たような、良いとも悪いともつかない表情のまま、ただじっとこちらを見ている。
資料室の灯りは今日も不安定そうに時々瞬いていた。
「急に大きい声出して驚かせたよね。本当に悪かったと思ってる」
「……」
もちろん、単に謝るだけではだめだ。理由も伝えなければならない。
「あの時落とした、君が拾おうとしたやつ、あれ……吐き気止めの薬なんだ」
「吐き気止め……」
ソナは僅かに目を見開いた。
白状するとね、と軽い感じで明かす。
「こないだ俺吐いたでしょ? あれから時々気持ち悪くなることがあるんだ。まあ本当に吐くことは滅多にないんだけど、お守り的な感じで薬を持ち歩いてる。それだけ」
「……」
「でもそれを人に知られるのって恥ずかしくて、それで、拾われたくなくて思わず……」
少し言葉を切り、控え目に微笑んで見せた。
「だからフラフニルさんには何の落ち度もなくて、完全に、100%俺が悪いです。本当にごめん」
もう一度、深く頭を下げた。
──これで、済んだだろう。
説明するべきことは伝えた。本当は言いたくもない薬を持ち歩く理由も正直に告げたし、これで誠意を尽くしたと言えるはずだ。
しかし顔を上げると、ソナは口を閉じ、薄灰色の瞳でじっと俺を見つめている。
元々きつい目元がさらにきつくなっている。
「ふ……フラフニルさん?」
沈黙続き、怖くなってきた。
「あの、何か言ってくれないかな」
ソナは僅かに首を横に振って、俯いた。
「どういうこと?」
「今説明された内容は、理解しました。でも……」
「でも?」
ソナはぐっと強い眼差しを向けた。
「……納得はいきません。適当にあしらわているみたいな気がします」
「え、そんなこと」
「私……頼ってほしいとか、そんなことまで思いません。でも」
ソナはいつもそうするように、必死に言葉を選んでいるようだ。
「抱えきれなくなったら、あの時みたいに吐いたりする前に、少しでも伝えてくれたらなって、そう思ってるんです。それらしい説明だけで済まそうとするのは、何というか、私は」
「──わかった!」
思わず手を前に出してその先を止めようとした。
「わかったよ、わかったから」
「……何がわかったんですか」
ソナの口調は硬く、こちらも僅かに身構える。
「えっと。もっとちゃんと、みんなに事前に相談するようにするよ、なるべく。……そういうことでしょ?」
わざとずらした受け答えをしているのはわかっていた。
ソナの目に、落胆と悲しみの色が見て取れた。
「そう……ですね」
そういうことです、とソナは呟く。
「すみませんでした。偉そうな口をきいて」
「え、いや、フラフニルさんが謝ることじゃ……」
再びの静寂。
やがてソナは口を開く。
「体は大事ですから……無理はしないでください」
そう言うと、浅く頭を下げた。
何かを踏み間違えた。
そんな気がしていた。
いや、俺はあえて踏み間違えている。
……別にそれでいい。
これが俺にとっての他人との適切な距離で、日常を円滑に過ごしていくにはそれで十分だ。俺はそう遠くないうちにこの世界からいなくなるのだから。
ソナは俯いてしゃがみ込む。
再び箱の中の資料に手を伸ばす。
……ソナ・フラフニルはただの同僚でしかない。
数カ月前に新人職員としてソナが配属された時、何の因縁があるのか彼女は“杖無し”を酷く憎んでいて、教育係の俺に対しても一貫して冷たい態度で、ぎくしゃくした時も何度かあった。
でも、結果的に彼女は俺と対等でありたいと、そう言ってくれた。
この世界で、そんな言葉をはっきりと向けられたのは初めてで、救われたような気分になったのは確かで、そんなソナが隣の席にいて過ごす日々は、少し楽しくもある。
けれども、彼女の優しさやまっすぐさは怖い時もあり、時々深く踏み込んでくる彼女の前では──カギモト・カイリという人間が揺らいでしまうこともあった。
とてもよくないことだと思っていた。
今が本当にぎりぎりのラインだ。越えれば、後悔なんて生易しいものじゃ済まなくなる。
だから、今回の彼女とのやり取りは、あれで正しい。
わかっているのに。
こんなにも足元がぐらつくのは。
ソナとの間に、見えない何かが閉じていくような気がして。
「あ……」
言いようのない焦燥感に駆られた。
「ふ、フラフニルさん」
ソナが僅かに顔を上げる。
「あの……」
さっきと違って、声が震えて掠れた。
「本当に、ご、ごめん……」
「謝っていただくのはもう」
「ちがう」と一歩近づく。足元にあった箱の角に躓きそうになった。
「俺……薬のこと、本当に、恥ずかしくて、誰にも知られたくなかった。君にも……」
感情を剥き出しにする必要なんてないのに、うまく制御できない。カギモト・カイリらしくなくてみっともない。
でもとにかく何かに急き立てられていた。
「俺のこと、許さなくてもいいから。でも──」
唾を飲み込む。
その先は言いたくない。
絶対に他人に向けて言葉にしたくない。
でも、どうしてか、彼女には。
埃の積もった足元を見つめて絞り出す。
「俺を……弱い人間だって、け、軽蔑しないでほしくて……」
心臓が痛いほどに脈打っている。
言ってしまった。
これはただの……惨めな懇願だ。
この世界で、俺の信じる自分自身を、誰かにも認めてもらおうなんて虫が良すぎる話だ。俺のことをどう思おうが、ソナの自由なのに。
顔を見ることができない。
癖になったように、どう言い繕うべきかを急いで考える。
「えっと、すごい情けないこと言ったね今。ちょっと自分でも信じられないっていうか……言われても、困るよね」
ごめん、と口が勝手に動く。笑えているのかもよくわからない。落ち着かなくて、下を見ながら首の後ろをがしがしと掻いていた。
沈黙。
この沈黙をどううまくはぐらかせばいいのか。
頭が働かない。俺は、焦っている。
「どうして」
ソナの呟きに体が強張った。
「私がカギモトさんを軽蔑するなんて、そんなこと、思うんですか」
「……だ」
一瞬詰まり、考える。
「だって、薬を持ち歩かないと安心できないとか……格好悪くない?」
「それって、カギモトさんが、薬を持ち歩いている人をそういう風に思ってるってことですか。私の母もいつも持ってますよ」
「そうじゃなくて──」
反論しようと視線を上げると、再び立ち上がっていたソナと、正面から目が合った。
その瞳はひどく悲しそうに翳っている。
「私は……カギモトさんが弱いなんて思ってないです。尊敬してます。前にも言いました。それは変わってません」
「……」
「同じ高さに立ちたいって、そう思ってるのに。さっきみたいに、突き放されるような態度は……寂しいです」
ソナはローブの袖を握り締めている。
「でも今みたいに、少しでも気持ちを教えてくれたら」
嬉しいんです、とソナは言った。
緊張に頬を紅潮させながら、それでも目をそらさず、俺と対等でありたいと言ってくれたあの時と同じように。
「あ……」
ソナの言葉が、胸の奥に落ちて、じんわりと染み込んでいく。
くすぐったくなるような温かさと抉られるような痛みを伴って、もうこれは、どう誤魔化してもなかったことにはできないのだと感じていた。
踏み込まれたら、踏み込ませたら、形式的な関係でいられなくなる。
それだけでは足りなくなる。
もっと理解してほしくて、肯定してほしくて、寄りかかりたくなる。
──引き返せなくなる。
僅かに後ずさりしていた。




