カギモト・カイリの地下生活
終業後。
総務係は全員帰宅した。
濃灰のローブを脱いで椅子の背に掛け、自分の退勤処理の後で簡単に業務日誌をつける。それを終えて、執務室の消灯と戸締まりを済ませた。
西部遺跡管理事務所の地下廊下に降りた。
職員証の入ったカードケースの裏から、黒い鍵を取り出す。
この廊下には、所長の指示で、魔法取締局職員マツバ・トオルによって強力な認識阻害魔法を施された扉がある。扉を認識できるのはマツバと、マツバから渡されたこの黒い鍵を持っている自分だけである。
廊下の奥にある黒い扉。鍵穴に鍵を差し込むと何の抵抗もなく開いた。
古そうなガラクタや本なんかが秩序なく置かれた埃っぽいただの物置だ。その角に、さらに地下へと降りる階段への入口が、ぽっかりと四角く開いている。
灯りがないのに仄かに明るいのも、マツバの魔法によるものらしい。
ゆっくりと階段を降りていく。
降りた先にまた扉。何の目印も表札もない灰色の扉だが、ここが自室だ。
押し開けて灯りのスイッチをつけ、すぐに違和感を感じた。
絶望的なまでに汚いはずの部屋が、妙にすっきりとしている。床に散らばっていたごみがなくなり、脱ぎ捨てていた服が畳まれてベッドに置かれていた。
「……マツバさんか」
ここ最近、マツバ・トオルが勝手に部屋に侵入し、片付けていくことがある。散らかりきっていること以外に見られて困るものも特にないのだが、プライバシーの侵害であることに間違いはなく、もちろん良い気はしない。
鞄を床に投げ捨て、洗面台で手を洗う。
部屋に戻ると、今朝は物で埋め尽くされていたローテーブルの上もそれなりに片付いていて、一通の封筒が置かれていることに気がついた。
薄紫色の、厚手で安っぽくない封筒だ。外したループタイをテーブルに放り、ベッドに腰掛けて封筒を手に取った。
マツバが片付けついでに置いていったのだろう。いや、封筒を届けるついでに片付けたのか。どちらでもいいが。
送り主を見ると、レンさんからだった。
「……」
昨日レンさんが「文書で受診命令を出す」と言っていたのを思い出す。
そのまま開けずに捨ててしまおうかと思った。
しかしそれも大人げないし、どうせ捨てたところでまた届けられるだけだ。
封筒の端を破り、三つ折りになった紙を取り出して開く。
つらつらと文章が印字されているが──
一月以内にカウンセリングを受診しなければならず、無視をするなら、強制的な手段でセンターに連行されることになる、といった趣旨である。
下には、被回収者専門心理カウンセラーの立場としての、レンさんの達筆なサインがあった。
……最近の自分の不安定な状態を思えば、本当に受診した方がいいのかもしれない。
そんな考えが頭を掠めはした。
文書を持って眺めたまま、ほとんど使われないおかげで綺麗が保たれた台所に向かい、その下の戸棚から携帯食料を出して、立ったまま食べ始める。
ソナに怒鳴ってしまったように、総務係の皆に変に気遣わせてしまうように、周囲の人間に迷惑をかけるのは良くない。それは、自分の本意ではない。わかっている。
でも、自分の気持ちに従うのであれば、やっぱりカウンセリングを受けるのは無理だ。
とはいえ、である。
どんな方法を取るのか知らないが、強制的に連れて行かれるというのは到底承服できないし……みっともないことだ。
──とりあえず。
形だけでも受診予約だけはしておこう。それでレンさんも一旦はおとなしくなるはずだ。
いざ当日になったら適当な理由をつけてキャンセルし、あとはのらりくらりと躱して、できる限り引き延ばす。
まあ、悪くはない。
「それでいこう」と独り言を呟き、携帯食料の残りを口に押し込む。
明日あたり電話をしようと、レンさんからの文書を仕事用の鞄に突っ込んだ。
ふと思い出すのは、今日偶然にも出会った日本人の少女、ノダ・アヤセのことだった。
彼女ももちろん定期的にカウンセリングを受けているはずだ。
今日見たこの世界への彼女の馴染み具合からすれば、元の世界のことは上手に切り離し、手放すことができているのだろう。それを躊躇わないほどに、この世界で得られるものが大きいということだ。
俺とは違って。
溜息が出た。
本当によくない方向に思考が向いてしまう。余計なことを考えないためにはさっさと寝た方がいい。
が、今週末はまたマツバ・トオルとの訓練が待っている。
「はあ……トレーニング……」
少しくらい体を動かしておかないと、非常に辛い思いをすることになるのはわかりきっていた。
マツバが畳んだらしい服から部屋着を引っ張りだして着替え、部屋の隅に置かれたランニングマシンでしばらく走る。
それから軽い腕立てなんかをして、とりあえずはやったつもりになった。
面倒だがシャワーを浴び、着替え、歯を磨く。
どれだけ眠くても疲れていても、寝る前に歯磨きだけはするよう自分に課していた。幼い頃から歯磨きの大切さを嫌というほど親から叩き込まれてきたからだろう。もはや本能に近い。
灯りを消し、ベッドに倒れ込むと、すぐに眠りについた。
§
翌朝、平日にしては珍しく少し寝坊した。
寝癖を直すのは諦めて手早く着替え、朝食は仕事中に携帯食料をこっそり食べることにして、地上階へと急ぐ。
階段を一段飛ばしで上がりながら、ソナに会った時に「おはよう」から始まり彼女の母親の具合を尋ね、謝罪をするまでの流れを今一度シミュレーションした。
いつもは総務係一番に出勤することが多いのだが、今日は始業のチャイムぎりぎりだった。
するとなぜか執務室では、トレックの席の周りに皆集まって真面目な顔で話し合っている様子である。
誰も自分の出勤に気がついていない。明らかに何かあったらしく、呑気に挨拶するような雰囲気でもない。
さりげなく近づき、誰に声をかけようか迷っていると、
「俺、現場を見に行きたいんすけど」
トレックが真面目な口調で係長にそう言った。
「そうだね。状況は確認してきた方がいいかもね」と係長が頷く。
「あとは病院の方だよね」
係長の呟きに「私が行きます」と答えたのはソナだった。出勤している。少しどきりとした。
「国立病院ですよね。昨日行ってきたばかりですし、場所もわかります」
「うん、じゃあそっちはソナさんにお願いしよう。でもさすがにひとりはね……」
係長の視線が彷徨い、こちらを捉えた。
同時にソナとも目が合う。表情に僅かな動揺が見えた。自分の方も同じかもしれなかった。でもその反応は、あの出来事を考えれば当然のことだ。
「僕が一緒に行きます」とティーバが手を挙げた。
「あ……うん、そうだね、そうしてくれる?」
係長は答えながら何か言いたげな目でこちらを見る。
状況はわからないが……ソナとはまだ何も解決していない。俺ではなくティーバと行動させるのは係長の気遣いだろう。
係長に小さく頷きを返した。
トレック、ソナ、ティーバの3人はすぐに外出する準備に取り掛かり始める。
「──で、どうしたの?」
後ろからナナキに小声で話しかけると、ナナキは振り返って「あ、おはようございます」と律儀に挨拶をしてくれる。そしてすぐに眉間に皺を寄せた。
「それが、大変で」
「それは何となくわかる。現場とか病院とか、物騒だね」
「ストリンドベルさんの工房が、火事に遭ったらしくて」
「火事?」と思わず聞き返した。
「ストリンドベルさんも病院に運ばれて……あ、ご本人は軽い火傷のようでそれは不幸中の幸いなんですが」
ナナキは言葉を切り、慌ただしくコートを羽織っているトレックの方をちらりと見た。
「工房が全焼で、預かっていたテーテさんの箒も、燃えてしまったそうなんです。……修復不可能なくらいに」
予想もしていない事態だ。
それは不幸で、確かに大変なことである。
火事の原因は何だろうか。ストリンドベル氏は工房を建て直せるのだろうか。テーテの箒を預けていたこちら側に責任があるのだろうか。それともストリンドベル氏側が何か補償をしてくれるのだろうか。思い入れのある箒だったのに、テーテが気の毒だ──
色々な思いは巡るが、とにかく、懸案の種だったテーテの箒が修復不可となったというわけで。
それはつまり、面倒な仕事が一つ減ったのだと、そんなふうに考える自分がいた。




