出発の朝
所長室から戻ると、ティーバが所在なさげに席の前に立っていた。
「カイリ……」
「俺も出張行けって言われたよ」
日誌を机にしまいながら軽く笑って伝えると、ティーバは言葉に詰まったようだ。
「……それで、カイリは」
「上司命令だからね。仕方がない」
「その、ごめん」
ティーバは項垂れて呟くように言う。
「本当に、その話が所長に通ると思わなくて」
「えっ、カギモトさんも行くんですか」
話を聞いていた向かいの席のナナキが目を丸くした。
「所長と、ヘルベティアさんと、ティーバさんと、カギモトさん……? す、すごい組み合わせですね」
隣のソナは何も言わないが、実に不安そうな表情を浮かべている。ヘルベティアが俺を罵倒するのを何度か間近で見ているからかもしれない。
何とも言えない空気が流れた。
「え、なになに、なんでみんな神妙な顔してんの」
今度は隣の机の島からトレックが来て呑気に首を突っ込んでくる。
簡単に事の経緯を説明すると真顔になり、
「何それやば」と呟いた。
「控えめに言って地獄だろ」
「言うなよ、気が滅入る」
トレックを睨むと、「ごめん」と謝ったのはティーバだった。嫌みを言ったつもりはなかったのだが、ティーバにはそう受け取られてしまったらしい。
「さっきは、本当に動揺してたんだ。やっぱり所長にもう一度話をしてくる」
すぐにでも執務室を出て行こうとするティーバを「いいよ」と止めた。
「ティーバには普段お世話になってるからさ。俺で中和? できるかはわからないけど、協力する」
ティーバは迷うように立ち尽くしている。
そんなティーバを見たのは、久しぶりだ。
ヘルベティアとの出張イベントはそれほどまでに負担になるらしい。
「一緒に出張の計画を詰めよう。日にちだけ決めてて、それ以外のことは所長は何も考えてないらしいから」
所長秘書とは名ばかりで、ヘルベティアもそういう事務作業は一切やらない。
ティーバは何かを飲み込むようにして、「ありがとう」と浅く頷いた。
§
終業後。
ティーバと2人執務室に残り、北部遺跡管理事務所までの地図と魔導列車の時刻表、周囲の宿の情報誌なんかを机に広げていた。
ソナも既に帰庁していない。綺麗に片付いた彼女の席を拝借してティーバと隣り合って座り、情報を調べ、予定を詰めていく。
「魔導列車、朝いちの特急に乗って帰りもぎりぎりの特急にすれば、何とか日帰りで行けるんじゃないか」
時刻表を見せながら真顔で言うティーバは、まだ現実逃避をしているらしい。
「落ち着こう、ティーバ。トイレとか食事とかの時間を一切考慮してないだろ。それに乗り継ぎのトラムが少しでも遅延したらアウトだ。無理だよ」
「……」
ティーバは一瞬固まり、項垂れ、そして重たげな前髪を邪魔そうに後ろに掻き上げた。
野暮ったい黒縁眼鏡を外して目をこするのは、その素顔を知っていても息を呑むほどの美青年である。
この時間の総務係にしては珍しく、他に残っている職員はいない。それもあってか、ティーバは顔を晒したままにする。
かつてティーバはその芸術品のような美貌で、それは苦労をしたらしい。詳しく聞いてはいないが、学生時代にティーバを巡って女性同士の激しい争いが何度もあったとかなかったとか。とにかくティーバは、陰気な仮面をつけた方が穏やかに過ごせると悟ったのだと聞いている。
幼い頃の知り合いだというヘルベティアは当然ティーバの顔を知っているのだろう。
俺はといえば、以前色々あって、こいつの素顔を知る人物の一人となっていた。
「ごめん」
ティーバは美しい紫色の瞳を伏せて、今日何度目かの謝罪を口にした。
「僕らしくないよな」
「うん。ちょっと面白い」
「……」
何か言いたそうな顔をしながらも、ティーバは何も言わなかった。
猫背の姿勢を正し、再び時刻表を見つめてメモを取り始めた。
「僕が言い出したことだ。出張ではカイリに迷惑がかからないようにする。ヘルベティアも牽制するから。それは約束する」
「仕事なんだし淡々とこなすだけだろ。無理しなくていいよ」
言いながら、情報誌の中のめぼしい宿に付箋を貼っていく。
「……カイリは」
「ん?」
言葉を途切れされたティーバに目を向ける。ティーバはメモを取る手を止めていたが、「いや」と首を振った。
「余計な話だ。さっさと残業を終わらせよう」
「うん」
言いかけたことが気にならないといえば嘘になるが、言わないということは聞く必要もないということだ。ティーバの行動を尊重し、追及はしない。
ティーバはうまく切り替えたのか、いつもの調子に戻ったように仕事が早くなる。
程なくして、出張の計画書をまとめ上げた。
§
そして出張当日の朝。
まずは事務所から全員で、最寄りの魔導トラムの駅に向かうことになっていた。
総務係のゴシュ係長に、ティーバと2人で出発の挨拶をしておく。
「くれぐれも気をつけてね、としか言えないよ。カギモトくん──頑張って」
ゴシュ係長は困ったような笑顔を向ける。
他の総務係の面々からも似たような励ましの言葉をかけられたが、ソナだけは本当に心配そうな顔をしていた。
「あの、無理しないでください」
「大丈夫だよ、やることやってくるだけだから。あ、そうだ、明日本部に提出の書類だけ代わりによろしくね」
はい、とソナは生真面目に頷いた。
正面入口を出て所長とヘルベティアを待つ。
空は灰色の雲に埋め尽くされていて、爽やかな朝とは言えなかった。
いちおう薄手の上着をリュックに入れてきたが、着なけらばならないほど寒くはない。
腕時計を見ていると、「待たせたね」と後ろから声がした。
乱れた銀髪に無精髭、ボーダー柄のトレーナーと黒いパンツ。普段の毛玉の浮いた寝巻きのような格好より多少はまし程度の所長だが、オレンジ色の大きなリュックが嫌に目立っている。
「所長、その格好で行くんですか?」
「ん? 何か変かな。スーツは持ってきたよ、一応ね」とリュックを示す。
「一応って……。普通に要りますよ」
北部の所長と会うのだ。スーツくらい着てくれないと恥ずかしい。
「所長。……ヘルベティアは」
ティーバが控えめに尋ねる。ティーバはもちろんいつもの陰気な装いである。
「まだ来てないよ。──ああ」
あれじゃないかな、と所長が曇り空を指差した。
視線を上げると、真っ黒な飛行魔導車が事務所に向かって飛んでくるのが見えた。
事務所の敷地に音もなく垂直に降りてきて、傍目から見ても高級そうな車からヘルベティアが出てきた。
「おはようございます! ティーバ様ぁ!」
ティーバの方だけを見て、可愛らしく微笑む。
フリルのついた真っ青なワンピース、白い縁の大きな帽子にヒールの靴。一体どこのバカンスに行くつもりなのか。
狼狽えたようなティーバは、辛うじて喉の奥から「おはよう」と絞り出した。
「お待たせしましたぁ。さあ、乗ってくださいティーバ様!」
いつの間にか運転手の老爺も降りてきて、後部座席の扉を開けている。
「……え?」
「飛行魔導車でびゅんと行きましょう」
ヘルベティアは満面の笑みだ。恐らくティーバと面と向かって話すのが相当久しぶりなのだろう。
「ティーバ様はぜひあたしと後部座席に。所長は助手席でぇ、“杖無し”……カギモ……カギモトサンはトランク? わりと広いですよぉ」
「おい」
トランクは座席ではない。
そもそも。
「もう特急券を手配してるんだ。急には変えられない」
先にティーバが言った。
ヘルベティアは意味がわからないという顔をしている。
キャンセル料がかかること等をティーバが必死に説明しているが、ヘルベティアはティーバに見惚れていてほとんど話を聞いていない。
「ねえ、結局どうするんだい?」
所長はヘルベティアの黒塗りの飛行魔導車を、顔がつきそうなほどじっくりと眺めている。自分が仕切る気はまるでないらしい。運転手も困っている様子である。
そうこうしているうちに、乗車時間も迫ってきていた。普通に歩いても既に間に合わない。
「じゃあせめて……駅まで車で送ってもらうのはどうですか」
早く発たなければと気が急いて、そんな言葉が自分の口から出ていた。
「もうトランクでもどこでも乗りますから、さっさと出発してくださいよ」




