天上での生活
目を覚ますと、朝だった。
ふすまから朝日の光が差し込んでいる。
ゆっくりと外に出てみると、空気が澄んでいて、朝露に似た霧がこの天上をやわらかく包んでいた。
ひんやりとした空気が、肌をなでるように静かに流れていく。
ふと足元を見ると、建物の縁から、もくもくとした雲がふんわりと湧き上がっているのが見えた。
ここは、雷神様が住んでいる雷鳴山の頂だという。
幾重にも雲を突き抜けた先に広がっていたのは、風と光が交差する聖なる空間だった。
その中心にそびえるのが、雷神様が住まう宮殿、焔雷殿というところらしい。
白木と黒曜石が組み合わされたその巨大な建物の屋根には雲の文様があしらわれ、柱には雷の筋が彫られている。
本当に神様の住む世界があるんだ。
そんなことを考えていた時、背後から声が聞こえた。
「昨日は眠れたか?」
振り返ると、そこには凛とした佇まいで立っている雷神様がいた。
「は、はい……たくさん眠ってしまってすみません」
「なぜ謝る。体力が回復したのならそれでいい」
昨日から声色が優しく感じる時がある。
相変わらず雷神様が何を考えているのか分からないことはあるけれど……。
でも聞かないといけない。
私は一度命を投げる覚悟をしたんだ。
これから何が起きようとも、受け入れるつもりだ。
「あの……雷神様は私の雨を降らせて欲しいという要望にも応えてくださいました。私も雷神様に何かできることがあるならしなければなりません……」
「そんなのない」
「えっ、でも……」
「あのままだとお前が衰弱して死んでゆくだろうと思った。だからここへ連れてきた。それだけだ」
「えっと、あの……?」
「何が分からんのだ」
雷神様は眉一つ動かさずに私を見つめている。
それじゃあ私が死なないように雷神様が庇ってくれたように聞こえてしまうのだけど……。
「ろくに飯も与えられずやせ細り、山の上を登らせるなんて人間は愚かだな」
愚か……?
彼は唇を軽く歪めながら言葉を続けた。
その声には、明らかな苛立ちが込められている。
「私は雷神様の願い通り、生贄になりました。だから……私を食べるなり、殺すなり好きにしてください」
膝をつき深々と頭をさげる。
生贄として出された身。
こんな私が贅沢な食事をしてふかふかの布団で眠っていい身分ではない。
「そんなこと望んだ覚えはない」
低く重くのしかかるような声が響き渡る。
「えっ」
「生贄をよこせなんて一度も言ったことはない。そんなもの、人間が勝手に決め行っているだけだ」
「でも……雷神様は生贄を出すことで雨を降らせてくれるのだと」
「くだらん。生贄を寄越されて何になる?お前ら人間は神が残酷だなどとほざくがな……そうやって何かに縋り、他人を犠牲にすることを問わない人間の方がよっぽど残酷だ」
雷神様はギリっと歯を食いしばった。
「雷神さま……」
そうか、そうだったのか。
生贄を捧げれば助かるなんて人間が生み出した祈りに過ぎなかった……。
はじめは純粋な祈りから、どんどん考えは歪んでいって誰かを犠牲にすることで安心を得ようとしていた。
「たしかに……私たちは愚かだったのかもしれません」
静かに伝えると、雷神様はそっぽを向きながら言った。
「お前の母上を知ってる」
ばっと勢いよく顔をあげる。
「お母様のことを知っているのですか!?」
「天から見ていた。村のために自然を愛し、作物を守り、村の平和をずっと願っていた。自然というのは与えられたものを返そうとする。大事にしていればその分返ってくるものだということを人は知らない」
そっか……そうだったのか。
お母様は神話守として、雷神様と話が出来なかったと言っていたけれど、しっかりと自然を大事にしていたことでそれが返ってきたんだ。
雷神様の言葉がしっくりと来た。
この世界は誰かの犠牲のもと保たれているのではないのだと。
「お前の母上はお前の話しもよくしていたよ。娘のこともよろしくともな……」
「えっ、お母様は雷神様とお話が出来たんですか!?」
「いや、一方的に声が聞こえただけだ……。自然を大事にする人間の声は天まで届くことがある」
お母様だけがずっと私のことを考えていてくれたんだ。
じわりと涙がにじむ。
ああ、お母様に会いたい。
会ってありがとうと、それからごめんなさいと言いたい。
瞳から涙が零れる。
「また泣いているのか?」
雷神様はそっと手を伸ばすと私の頬に零れた涙を指で拭った。
「泣き虫」
──ドキン。
雷神様はひどく優しい顔をした。
こんなに優しい顔をしているんだ……っ。
どうしてか胸がドキドキと音を立てる。
「お前も母親とそっくりだ」
「えっ」
私が驚いた顔をすると、雷神様は言った。
「毎日植物を見てまわっては枯れそうな花に水をあげ、荒れた天気の際は危険を顧みず作物の安全を守りに行く。たった一人の人間が必死になって村を守ろうとしてた」
「雷神……さ、ま」
誰かに見て欲しいなんて思ったことは微塵もなかった。
村の平和のために、私が出来ることを最大限やる。
これが私の生まれてきた使命だと思っていたから。
でも……こうやって見てくれる人がいるのは……。
「嬉しいもの、ですね……」
止まったはずの涙が再び溢れだし、堪えることができない。
「泣くな」
雷神様のはっきりとした声が下りて来る。
「笑っている顔の方が好きだ」
──ドキン。
雷神様はまっすぐに私を見据えて言った。
「雷神、さま……」
まっすぐに伝えられた言葉に頬が赤くなるのが分かった。
胸がドキドキと音を立て、雷神様を見ると心が温かくなる。
この謎の動悸は、なに……?
「美鈴」
「は、はい」
突然名前を呼ばれて驚く私。
雷神様は真剣な表情で私に伝える。
「人のために生きるということは、一方的に命を投げ出すものではない。命を投げ出すほどの価値があるのか、また自分にも見返りがあるのかを考えるべきだ」
そんなことはじめて言われた。
今まで私のやるべきことは決められてきた。
村の人の生活を守るため神話守になろうと努めてきたことも事実だ。
でも生贄のわたしに“選びなさい”だなんて……。
いつか、選ぶことが出来るのかな。
自分を大事にしながら、誰かを守ることが出来るのかな。
そんなことを考えていると、雷神様は言った。
「それで、お前はどうする?腹いっぱい食べて村に戻りたいというのなら、俺は止めはしない。美鈴の意思が一番大事だからな」
「私は……」
村のことを考える。
出ていけと石を投げられ、罵声を浴びせられ苦しんだ日々。
あの場所に私の居場所はない……。
私はうつむいてしまった。
すると雷神様はそれを察してか伝える。
「まぁいい。すぐに考える必要はない」
そっと手を差し出される。
私はよく意味が分からないまま雷神様の手をとった。
ピリっと小さな電気が走ったような気がした瞬間、ぐいっと身体を引き寄せられる。
「きゃっ……」
「まずはこの細い腰をどうにかしてもらう必要があるな」
ぴったりとくっつく身体。
その堅固な筋肉がしっかりと私を包み込むと、私の心臓がドキドキと激しく音を立てる。
「ら、雷神様……」
恥ずかしい……。
胸の奥から熱が込み上げるのを感じる。
「聞いているのか?美鈴」
「は、はい……っ」
端正な顔立ちが、ずいっと顔が近くにくると、その美しさに息を呑んでしまう。
なんてキレイな顔なんだろう……。
よく分からないドキドキが私の心を支配する。
絶望の中に、希望を見出せた気がした。